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第十話 戻りはじめる招待状
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第十話 戻りはじめる招待状
王都の朝は、今日も静かに始まる。
だが社交界において、“静か”というのは何も起きていないという意味ではない。むしろ逆だ。大きな声で騒がれなくなった時ほど、水面下では多くの判断が進み、招待状の宛先が変わり、席順の優先が入れ替わる。
そしてその変化は、ある日まとめて形になる。
その朝、ヴァレンティア公爵邸の執務補佐室には、朝一番の便りがいくつも届いていた。
重厚な机の上には、封蝋の色も家紋も異なる招待状が整然と並べられている。差出人は侯爵家、伯爵家、王都でも発言力のある夫人たちの名、さらには大規模な慈善晩餐会の運営側からの打診まであった。
エルミアはその束を前に、静かに目を通していた。
一通、また一通。
どれも言葉は丁寧で、あくまで自然な形を装っている。
先日はぜひお会いしたく。
もしお加減がよろしければ。
改めてご挨拶の機会を賜れれば幸いです。
だが、それが意味するところは明白だった。
社交界が、戻ってきている。
いや、より正確に言えば、“エルミアのほうへ向き直ってきている”のだ。
「……すごいわね」
思わず漏らすと、向かいに控えていたグラハムが即座に答えた。
「はい。実にわかりやすく」
「そこはもう少し、こう……上品な言い回しがあるでしょう」
「では、“皆様たいへん正直でいらっしゃる”と申し上げましょうか」
「それも十分に皮肉よ」
エルミアは小さく笑い、もう一度招待状へ視線を落とした。
舞踏会の夜からまだそれほど日は経っていない。あの時は、一気に悪女の空気が流れた。ノエリアが可哀想な伯爵令嬢として持ち上げられ、セオドールが真実の愛に目覚めた王太子として見られていた時期も確かにあった。
だが、それは長く続かなかった。
王太子宮の小さな綻びが次々表に出た。
ノエリアの茶会では、同情だけでは場が持たないことが露呈した。
セオドールの余裕のなさは隠しきれず、ノエリアはその隣で“守られるだけの令嬢”以上になれないままだった。
そうして社交界は、ようやく現実へ目を向け始めたのだ。
つまり、これまで誰が何を整えていたのかという現実に。
「お嬢様」
グラハムが一通を取り上げる。
「こちらは王都慈善晩餐会の実行委員会からでございます」
「あら」
「今年の主賓夫人方のひとりとして、お席をお願いしたいと」
エルミアは少しだけ目を細めた。
慈善晩餐会は、ただの食事会ではない。名のある家の夫人や令嬢たちが顔を揃え、支援先や寄付先を決め、社交界における“良識ある中心”を見せる場でもある。そこで主賓格として扱われるというのは、かなり明確な評価だ。
しかもこれは、王太子宮の外で進んでいる動きである。
「早いわね」
「ええ。かなり」
「前は、わたくしが顔を出せば“王太子の婚約者として当然”という扱いだったでしょうに」
「今は“エルミア・ヴァレンティアとして招かれている”と見てよろしいかと」
その言葉は、思っていた以上に胸に響いた。
王太子の婚約者として当然。
その立場に、自分がどれだけ縛られていたのかを、最近ようやく自覚し始めている。どれだけ能力を評価されても、それは“婚約者として便利だから”と混ざっていた。けれど今届いている招待状は違う。
婚約はない。
王太子の名もない。
それでも来てほしいと言われている。
それは確かに、エルミア自身へ向けられたものだった。
「全部を受けるのは無理ね」
「もちろんでございます。受けすぎれば、今度は“勢いづいて出てきた”と見られます」
「そこまで考えてくれているの、助かるけれど少し腹が立つわ」
「仕事でございますので」
「ええ、そうでしょうとも」
やり取りはいつも通りなのに、心は以前よりずっと軽かった。
少し前までなら、こうした招待状の管理もまた“王太子宮との釣り合い”を考えながら行わなければならなかった。どの家を優先するか、どの招待に出れば王家に不利益がないか、どの夫人と親しく見えると厄介か。そういう面倒な計算がつきまとっていた。
だが今は違う。
判断基準は、自分と公爵家の都合でいい。
それだけのことが、驚くほど大きい。
その時、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのはマリアンヌだった。
「お嬢様、ルシエ侯爵夫人から追加の使いが」
「追加?」
「はい。先日のお返事へのお礼と、ひとことだけ」
マリアンヌが差し出した小さなカードを受け取る。
そこにはごく短く、しかしはっきりと、こう記されていた。
“あなたが再び社交の場へお出ましになるのを、多くの方が待っております”
エルミアは読み終えて、少しだけ息を止めた。
待っている。
ついこの間まで、自分は社交界から退場した女のように扱われていたのに。
人の気持ちは勝手だ。
けれどその勝手さが、今は少しだけありがたかった。
「……本当に、風向きって変わるのね」
「変わります」
グラハムは即答した。
「特に、向こうが自滅を始めた場合には」
そこまで言うか、とエルミアは思ったが、否定もしきれない。
実際、こちらが必死に弁明したわけではない。大きく動いたのはセオドールとノエリアのほうだ。小さな失敗を繰り返し、空気の綻びを広げ、社交界に“何かおかしい”と思わせた。
その結果として、こちらへ戻ってくる人々が増えている。
「ノエリア様のほうは、どうなの?」
エルミアが何気なく尋ねると、グラハムはすぐに答えた。
「本日午前に予定されていた小規模茶会が、体調不良を理由に延期されたそうです」
「ノエリア様が?」
「表向きはそのように」
「本当は?」
「招待を受けていた側の欠席が重なったとのことです」
エルミアは思わず手元のカードを見下ろした。
こちらには招待状が戻ってくる。
あちらでは招待客が減っていく。
なんとも露骨な対比だった。
「……こわいくらい正直ね」
「社交界は胃に優しくない場所でございます」
「うまいこと言ったつもり?」
「少々」
エルミアは小さく笑って、それから招待状を三つに分け始めた。
出るもの。
様子を見るもの。
丁重に断るもの。
その手つきは落ち着いていた。以前なら、こうした判断のひとつひとつにも王太子の顔がちらついたのに、今はそれがない。
自分で選べる。
それは心地よく、そして少しだけ怖い自由でもあった。
だが、その怖さは嫌ではない。
昼過ぎ、ヴァレンティア公爵邸の居間では、父であるヴァレンティア公爵もまた、別系統の報告を受けていた。
エルミアが呼ばれて部屋へ入ると、父は机上の書類から顔を上げた。
「来たか」
「お呼びと聞きました」
「座りなさい」
向かいに腰を下ろすと、父は机の上の一枚を差し出した。
見ると、それは王都の複数の商会が、王太子宮との契約条件の見直しや取引量の再調整を始めたという一覧だった。表面上はどこも穏当な理由をつけているが、実質は様子見である。
「かなり広がっておりますね」
「うむ」
「王家そのものから手を引くというより、王太子宮まわりだけを慎重にし始めている」
「賢いやり方だ」
父の言葉は短いが、意味は重い。
王家に正面から逆らう必要はない。
だが、王太子宮の不安定さを見れば、そこへの深入りを避けるのは当然だ。商人たちは貴族以上に現実的である。支払いが遅れそうな相手、条件が定まらない相手、周囲の信頼を失い始めた相手には、静かに距離を取る。
「お前の名を出しているところはまだ少ない」
父が言う。
「ええ。まだ“エルミアがいなくなったから”とは口にしないのでしょう」
「だが皆、そう考えている」
エルミアは黙って頷いた。
自分がいなくなったから。
その一言は、どこか胸の奥をくすぐる。満足でもなく、誇りでもなく、ただ少し複雑だった。かつて自分がやってきたことは、確かに意味があったのだろう。だが同時に、それほど大きな役割を当然のように押しつけられていたのだとも言える。
父はそんな娘の表情を見ていたのか、低く言った。
「勘違いするな」
「……何をですか」
「お前が有能だったことと、あの場に留まるべきだったことは別の話だ」
エルミアは顔を上げた。
父は相変わらず、必要な時にしか必要なことを言わない。
「向こうが困っているからといって、お前が戻る理由にはならん」
「はい」
「招待状が戻ってきたなら、それは受ければいい。ただし“戻ったから戻る”のではなく、お前が選ぶのだ」
その言葉に、胸の奥が静かに整っていく。
最近、少しだけ気持ちが上向いてきたぶん、反対に不安もあった。こんなふうにまた社交界へ迎えられて、自分は浮き足立っていないか。悪い意味で“立ち直った自分”を演じようとしていないか。
だが父の言葉は、それを簡潔に正してくれた。
戻るのではない。
選ぶのだ。
「……ありがとうございます、お父様」
「礼は不要だ」
やはり父らしい。
だがその素っ気なさが、今日は少しだけ優しかった。
夕方になり、エルミアは自室の机で改めて招待状の返答を整えていた。
慈善晩餐会には出席の方向で。
ルシエ侯爵夫人の晩餐には、体調と相談しつつ前向きに。
いくつかの小規模な茶会は見送る。
一枚ずつ、丁寧に線を引いていく。
その時、不意にノックが響いた。
「お嬢様」
「どうぞ」
入ってきたのはグラハムだった。
いつも通りの顔だが、ほんの少しだけ“これは面白い話です”という気配がある。無表情のくせに、そういうのだけは伝わるから不思議だ。
「何かしら」
「辺境伯様より書簡が届いております」
エルミアの指先が、便箋の上でぴたりと止まった。
「……カイゼル様から?」
「はい」
受け取る。
封を切る前から、なぜか少しだけ心臓が落ち着かない。
グラハムがいる前で開くのもどうかと思ったが、今さら隠しても仕方がない気もした。
便箋をひらく。
文面は簡潔だった。
“王都で招待状が戻り始めていると聞きました。よかった、と思っています。
ただし、無理に急がないことです。
あなたがどの場に立つかは、他人が決めることではないので”
エルミアは読み終えて、しばらく黙った。
まるで、さっき父に言われたことと同じだ。
戻るのではなく、自分で選ぶ。
そのことを、別の人も同じように言ってくる。
しかもこちらは、もう少しだけ柔らかい言葉で。
「……なんというか」
「はい」
「この方、見ていないようでよく見ているのね」
グラハムは間を置かずに答えた。
「かなり」
「あなた、最近ちょっと余計なことを言うようになっていない?」
「気のせいでございます」
「そうは思えないのだけれど」
それでも、エルミアの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
招待状が戻り始める。
社交界が向き直る。
王太子宮は綻びを隠せない。
その一つ一つを、今は以前ほど重く受け止めていない自分がいる。
ようやく、自分の足元へ景色が戻ってきたのだ。
そしてその景色の中に、冷徹辺境伯と呼ばれる人の言葉が、思った以上に静かに根を張り始めていることを、エルミアはまだ半分しか自覚していなかった。
王都の朝は、今日も静かに始まる。
だが社交界において、“静か”というのは何も起きていないという意味ではない。むしろ逆だ。大きな声で騒がれなくなった時ほど、水面下では多くの判断が進み、招待状の宛先が変わり、席順の優先が入れ替わる。
そしてその変化は、ある日まとめて形になる。
その朝、ヴァレンティア公爵邸の執務補佐室には、朝一番の便りがいくつも届いていた。
重厚な机の上には、封蝋の色も家紋も異なる招待状が整然と並べられている。差出人は侯爵家、伯爵家、王都でも発言力のある夫人たちの名、さらには大規模な慈善晩餐会の運営側からの打診まであった。
エルミアはその束を前に、静かに目を通していた。
一通、また一通。
どれも言葉は丁寧で、あくまで自然な形を装っている。
先日はぜひお会いしたく。
もしお加減がよろしければ。
改めてご挨拶の機会を賜れれば幸いです。
だが、それが意味するところは明白だった。
社交界が、戻ってきている。
いや、より正確に言えば、“エルミアのほうへ向き直ってきている”のだ。
「……すごいわね」
思わず漏らすと、向かいに控えていたグラハムが即座に答えた。
「はい。実にわかりやすく」
「そこはもう少し、こう……上品な言い回しがあるでしょう」
「では、“皆様たいへん正直でいらっしゃる”と申し上げましょうか」
「それも十分に皮肉よ」
エルミアは小さく笑い、もう一度招待状へ視線を落とした。
舞踏会の夜からまだそれほど日は経っていない。あの時は、一気に悪女の空気が流れた。ノエリアが可哀想な伯爵令嬢として持ち上げられ、セオドールが真実の愛に目覚めた王太子として見られていた時期も確かにあった。
だが、それは長く続かなかった。
王太子宮の小さな綻びが次々表に出た。
ノエリアの茶会では、同情だけでは場が持たないことが露呈した。
セオドールの余裕のなさは隠しきれず、ノエリアはその隣で“守られるだけの令嬢”以上になれないままだった。
そうして社交界は、ようやく現実へ目を向け始めたのだ。
つまり、これまで誰が何を整えていたのかという現実に。
「お嬢様」
グラハムが一通を取り上げる。
「こちらは王都慈善晩餐会の実行委員会からでございます」
「あら」
「今年の主賓夫人方のひとりとして、お席をお願いしたいと」
エルミアは少しだけ目を細めた。
慈善晩餐会は、ただの食事会ではない。名のある家の夫人や令嬢たちが顔を揃え、支援先や寄付先を決め、社交界における“良識ある中心”を見せる場でもある。そこで主賓格として扱われるというのは、かなり明確な評価だ。
しかもこれは、王太子宮の外で進んでいる動きである。
「早いわね」
「ええ。かなり」
「前は、わたくしが顔を出せば“王太子の婚約者として当然”という扱いだったでしょうに」
「今は“エルミア・ヴァレンティアとして招かれている”と見てよろしいかと」
その言葉は、思っていた以上に胸に響いた。
王太子の婚約者として当然。
その立場に、自分がどれだけ縛られていたのかを、最近ようやく自覚し始めている。どれだけ能力を評価されても、それは“婚約者として便利だから”と混ざっていた。けれど今届いている招待状は違う。
婚約はない。
王太子の名もない。
それでも来てほしいと言われている。
それは確かに、エルミア自身へ向けられたものだった。
「全部を受けるのは無理ね」
「もちろんでございます。受けすぎれば、今度は“勢いづいて出てきた”と見られます」
「そこまで考えてくれているの、助かるけれど少し腹が立つわ」
「仕事でございますので」
「ええ、そうでしょうとも」
やり取りはいつも通りなのに、心は以前よりずっと軽かった。
少し前までなら、こうした招待状の管理もまた“王太子宮との釣り合い”を考えながら行わなければならなかった。どの家を優先するか、どの招待に出れば王家に不利益がないか、どの夫人と親しく見えると厄介か。そういう面倒な計算がつきまとっていた。
だが今は違う。
判断基準は、自分と公爵家の都合でいい。
それだけのことが、驚くほど大きい。
その時、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのはマリアンヌだった。
「お嬢様、ルシエ侯爵夫人から追加の使いが」
「追加?」
「はい。先日のお返事へのお礼と、ひとことだけ」
マリアンヌが差し出した小さなカードを受け取る。
そこにはごく短く、しかしはっきりと、こう記されていた。
“あなたが再び社交の場へお出ましになるのを、多くの方が待っております”
エルミアは読み終えて、少しだけ息を止めた。
待っている。
ついこの間まで、自分は社交界から退場した女のように扱われていたのに。
人の気持ちは勝手だ。
けれどその勝手さが、今は少しだけありがたかった。
「……本当に、風向きって変わるのね」
「変わります」
グラハムは即答した。
「特に、向こうが自滅を始めた場合には」
そこまで言うか、とエルミアは思ったが、否定もしきれない。
実際、こちらが必死に弁明したわけではない。大きく動いたのはセオドールとノエリアのほうだ。小さな失敗を繰り返し、空気の綻びを広げ、社交界に“何かおかしい”と思わせた。
その結果として、こちらへ戻ってくる人々が増えている。
「ノエリア様のほうは、どうなの?」
エルミアが何気なく尋ねると、グラハムはすぐに答えた。
「本日午前に予定されていた小規模茶会が、体調不良を理由に延期されたそうです」
「ノエリア様が?」
「表向きはそのように」
「本当は?」
「招待を受けていた側の欠席が重なったとのことです」
エルミアは思わず手元のカードを見下ろした。
こちらには招待状が戻ってくる。
あちらでは招待客が減っていく。
なんとも露骨な対比だった。
「……こわいくらい正直ね」
「社交界は胃に優しくない場所でございます」
「うまいこと言ったつもり?」
「少々」
エルミアは小さく笑って、それから招待状を三つに分け始めた。
出るもの。
様子を見るもの。
丁重に断るもの。
その手つきは落ち着いていた。以前なら、こうした判断のひとつひとつにも王太子の顔がちらついたのに、今はそれがない。
自分で選べる。
それは心地よく、そして少しだけ怖い自由でもあった。
だが、その怖さは嫌ではない。
昼過ぎ、ヴァレンティア公爵邸の居間では、父であるヴァレンティア公爵もまた、別系統の報告を受けていた。
エルミアが呼ばれて部屋へ入ると、父は机上の書類から顔を上げた。
「来たか」
「お呼びと聞きました」
「座りなさい」
向かいに腰を下ろすと、父は机の上の一枚を差し出した。
見ると、それは王都の複数の商会が、王太子宮との契約条件の見直しや取引量の再調整を始めたという一覧だった。表面上はどこも穏当な理由をつけているが、実質は様子見である。
「かなり広がっておりますね」
「うむ」
「王家そのものから手を引くというより、王太子宮まわりだけを慎重にし始めている」
「賢いやり方だ」
父の言葉は短いが、意味は重い。
王家に正面から逆らう必要はない。
だが、王太子宮の不安定さを見れば、そこへの深入りを避けるのは当然だ。商人たちは貴族以上に現実的である。支払いが遅れそうな相手、条件が定まらない相手、周囲の信頼を失い始めた相手には、静かに距離を取る。
「お前の名を出しているところはまだ少ない」
父が言う。
「ええ。まだ“エルミアがいなくなったから”とは口にしないのでしょう」
「だが皆、そう考えている」
エルミアは黙って頷いた。
自分がいなくなったから。
その一言は、どこか胸の奥をくすぐる。満足でもなく、誇りでもなく、ただ少し複雑だった。かつて自分がやってきたことは、確かに意味があったのだろう。だが同時に、それほど大きな役割を当然のように押しつけられていたのだとも言える。
父はそんな娘の表情を見ていたのか、低く言った。
「勘違いするな」
「……何をですか」
「お前が有能だったことと、あの場に留まるべきだったことは別の話だ」
エルミアは顔を上げた。
父は相変わらず、必要な時にしか必要なことを言わない。
「向こうが困っているからといって、お前が戻る理由にはならん」
「はい」
「招待状が戻ってきたなら、それは受ければいい。ただし“戻ったから戻る”のではなく、お前が選ぶのだ」
その言葉に、胸の奥が静かに整っていく。
最近、少しだけ気持ちが上向いてきたぶん、反対に不安もあった。こんなふうにまた社交界へ迎えられて、自分は浮き足立っていないか。悪い意味で“立ち直った自分”を演じようとしていないか。
だが父の言葉は、それを簡潔に正してくれた。
戻るのではない。
選ぶのだ。
「……ありがとうございます、お父様」
「礼は不要だ」
やはり父らしい。
だがその素っ気なさが、今日は少しだけ優しかった。
夕方になり、エルミアは自室の机で改めて招待状の返答を整えていた。
慈善晩餐会には出席の方向で。
ルシエ侯爵夫人の晩餐には、体調と相談しつつ前向きに。
いくつかの小規模な茶会は見送る。
一枚ずつ、丁寧に線を引いていく。
その時、不意にノックが響いた。
「お嬢様」
「どうぞ」
入ってきたのはグラハムだった。
いつも通りの顔だが、ほんの少しだけ“これは面白い話です”という気配がある。無表情のくせに、そういうのだけは伝わるから不思議だ。
「何かしら」
「辺境伯様より書簡が届いております」
エルミアの指先が、便箋の上でぴたりと止まった。
「……カイゼル様から?」
「はい」
受け取る。
封を切る前から、なぜか少しだけ心臓が落ち着かない。
グラハムがいる前で開くのもどうかと思ったが、今さら隠しても仕方がない気もした。
便箋をひらく。
文面は簡潔だった。
“王都で招待状が戻り始めていると聞きました。よかった、と思っています。
ただし、無理に急がないことです。
あなたがどの場に立つかは、他人が決めることではないので”
エルミアは読み終えて、しばらく黙った。
まるで、さっき父に言われたことと同じだ。
戻るのではなく、自分で選ぶ。
そのことを、別の人も同じように言ってくる。
しかもこちらは、もう少しだけ柔らかい言葉で。
「……なんというか」
「はい」
「この方、見ていないようでよく見ているのね」
グラハムは間を置かずに答えた。
「かなり」
「あなた、最近ちょっと余計なことを言うようになっていない?」
「気のせいでございます」
「そうは思えないのだけれど」
それでも、エルミアの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
招待状が戻り始める。
社交界が向き直る。
王太子宮は綻びを隠せない。
その一つ一つを、今は以前ほど重く受け止めていない自分がいる。
ようやく、自分の足元へ景色が戻ってきたのだ。
そしてその景色の中に、冷徹辺境伯と呼ばれる人の言葉が、思った以上に静かに根を張り始めていることを、エルミアはまだ半分しか自覚していなかった。
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