婚約破棄された公爵令嬢は、静かな辺境伯の隣でようやく息をする

ふわふわ

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第十二話 白薔薇の返事

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第十二話 白薔薇の返事

王都がざわめいていても、ヴァレンティア公爵邸の朝は静かだった。

夜のあいだに冷えた空気がまだ庭の石畳に残り、植え込みの葉先には細かな露が光っている。使用人たちの動きは今日も整っていて、どこからも慌ただしい音はしない。邸全体が、主人の心を落ち着かせるように呼吸しているようだった。

エルミアは温室にいた。

ここ数日、気づけば自然と足が向いてしまう。明るいのに落ち着いていて、閉ざされているのに息苦しくない。花の匂いと、少し湿った土の匂いが混ざるこの場所にいると、余計な声が頭の中から抜けていく。

白薔薇の鉢の前で立ち止まる。

カイゼルから届いた書簡にあった通り、蕾はもうかなりふくらんでいた。昨日より、さらに。あと一日か二日もすれば、きっと咲く。

「本当に、見ていなくてもわかるものなのかしら」

小さく呟く。

王都は騒がしいようですが、あなたのいる場所にまでその騒がしさが届いていないのなら安心です。

その一文を昨夜から何度か思い返していた。

押しつけがましくないのに、妙に残る言葉だった。慰めます、守ります、などと大仰なことは言わない。ただ、騒がしさが届いていないなら安心だと言う。まるで、自分がどういう状態でいてほしいかを、ひどく自然な形で願われているような気がした。

「お嬢様」

温室の入口からマリアンヌの声がする。

「こちらにいらっしゃいましたか」

「ええ」

「朝食のお時間でございます」

「すぐ戻るわ」

そう言ったものの、エルミアはすぐには動かず、もう一度白薔薇に目をやった。

返事を書こうか、と昨夜から考えている。

だが、なんと書けばいいのかわからなかった。

社交辞令のように礼だけ書くのは簡単だ。お気遣いありがとうございます、と。辺境はまだ寒いのですね、と。そんな無難な言葉ならいくらでも並べられる。

けれど、それでは何かが違う気がした。

あの人は、あまりに整った社交辞令を返されても、きっと嬉しくないだろう。少なくとも、自分がそう感じている。

「お嬢様?」

マリアンヌが少しだけ首をかしげる。

「……何でもないわ。今行く」

朝食の席で、父はいつも通り寡黙だった。

必要な話はするが、無駄な雑談はしない。けれど今日は珍しく、食後にナプキンを置いたところでふと口を開いた。

「昨日の招待状の返事は進んだか」

「ええ。だいたいは」

「無理はするな」

「わかっております」

短いやり取りのあと、父は一瞬だけエルミアを見た。

「顔色は悪くないな」

それだけ言って席を立つ。

あまりにさりげないので、何も感じていないふりもできた。けれど、最近の父はときどきこうして、不器用に気を配ってくる。

それがありがたくて、少しだけくすぐったい。

食後、自室へ戻ったエルミアは、机の前に座った。

窓際のカーテンは薄く開いていて、朝のやわらかな光が便箋の上に落ちている。引き出しからルヴァンシュ辺境伯家宛ての上質な便箋を出し、ペンを取る。

けれど、やはり手が止まった。

何を書けばいいのだろう。

白薔薇はもうすぐ咲きそうです――それだけでは短すぎる。

辺境はまだ寒いのですね――それも、なんだかよそよそしい。

騒がしさは届いていません――それではまるで、自分の心が少しも揺れていないようで嘘になる。

エルミアはペン先を浮かせたまま、小さく息をついた。

社交の手紙ならいくらでも書ける。

感謝を伝え、距離を取り、印象よく締める文など、考えなくても出てくる。けれど今書こうとしているのは、たぶんそういうものではない。

それが難しかった。

「失礼いたします」

控えめなノックのあと、入ってきたのはグラハムだった。

「どうしたの?」

「本日の午前分の報告を」

机の端へ書類が置かれる。

いつものように淡々とした報告だ。王都のいくつかの家が、王太子宮との距離をさらに慎重に取り始めたこと。ノエリアのもとへ届く招待がまた減ったこと。代わりに、ヴァレンティア公爵邸への打診は増えていること。

内容は予想の範囲内だった。

だがグラハムは報告を終えてもすぐには下がらず、机の上の便箋に目をやった。

「……お返事をお書きで?」

エルミアはぴたりと動きを止めた。

「見たの?」

「いえ。見えております」

「それはつまり、見たのと同じではなくて?」

「多少異なります」

まるで違わない。

エルミアは少しだけ眉を寄せたが、グラハムはいつも通りの顔だ。こんな時ほど崩れないのだから、余計にたちが悪い。

「困っているように見えます」

「困っているわ」

「珍しゅうございます」

「あなた、最近わたくしに対して少し失礼ではなくて?」

「いつも通りでございます」

それが本当だから反論しづらい。

エルミアは椅子の背にもたれ、正直に言った。

「社交の返事なら簡単なの。けれど、あの方にはそれでは違う気がして」

グラハムは少しだけ沈黙した。

「では、社交ではない形で書かれればよろしいかと」

「それができたら困らないのよ」

「左様でございますか」

「簡単そうに言うわね」

「お嬢様が難しく考えすぎておられるだけでは」

エルミアは彼を見る。

「そう思う?」

「はい。辺境伯様は、おそらく上手い文章より、お嬢様のお言葉そのものをお望みかと」

その言葉に、なぜか胸の奥が少しだけ静かになった。

上手い文章ではなく、言葉そのもの。

たしかに、カイゼルがくれる手紙もそうだった。洗練されていても、飾り立ててはいない。必要なことだけを書き、けれどその中に気持ちがある。

だからこそ、こちらも変に整えすぎる必要はないのかもしれない。

「……ありがとう」

そう言うと、グラハムは軽く一礼した。

「お役に立てたなら何よりでございます」

「でも、あなたに恋文の相談をしたみたいで少し悔しいわ」

そこでほんの一瞬だけ、グラハムの無表情が揺れた気がした。

「恋文、でございますか」

「違うの?」

「さて」

「その反応、ずるいわね」

「辺境伯様ほどではないかと」

思わず、エルミアは吹き出しそうになった。

本当に最近、この執事は少し楽しんでいる気がする。

だが、気持ちは少し軽くなった。

グラハムが下がったあと、エルミアはもう一度便箋へ向き直る。

今度は、少しだけ素直に書いてみようと思った。

“白薔薇はもうすぐ咲きそうです。
昨日より、さらに蕾がふくらみました。
辺境はまだ寒いのですね。
王都は相変わらず少し騒がしいですが、邸の中と温室は静かです。
そのことを安心だと思ってくださる方がいるのだと知って、わたくしも少し安心いたしました”

そこまで書いて、手を止める。

ずいぶんと率直な気がした。

率直すぎるだろうか。

いや、でも、これくらいなら許されるのではないか。少なくとも嘘ではない。

さらに少し考えてから、最後に一文だけ足した。

“白薔薇が咲いたら、またお知らせいたします”

書き終えたところで、エルミアは長く息を吐いた。

不思議だった。

政略的な手紙や社交の返事なら、もっと長く整った文がいくらでも書けるのに、この短い手紙のほうが何倍も緊張した。

便箋を読み返し、封をする。

すると、胸の奥に小さな熱が残った。

午後になると、王都からさらにいくつかの返答が届いた。

ルシエ侯爵夫人からは、慈善晩餐会の席が確保されたという知らせ。セレスティーヌ伯爵夫人からは、次の小規模な集まりでは無理に顔を出さなくていい、その代わり落ち着いたら改めて一緒にお茶を、と柔らかな便り。

どれも以前とは違う。

“王太子の婚約者として当然”ではなく、“エルミアに来てほしい”という言い方に変わっている。

それを一つひとつ確認しながら、エルミアは改めて思った。

戻るのではない。

選ぶのだ。

父も、カイゼルも、同じことを言った。

その意味がようやく少しずつ、身体に馴染み始めている気がする。

その頃、王太子宮ではノエリアが一人で鏡を見つめていた。

最近、鏡を見る時間が増えた。

以前はただ可愛く映るかどうかを気にしていればよかった。けれど今は違う。可愛いだけでは足りないのではないか、と考える瞬間がある。

茶会では空気が変わった。

夫人たちの目が、以前よりずっと冷静だった。

セオドールも、前のように“ただ守ってくれる王子様”ではなくなっている。もちろん優しい時もある。だが、その優しさの上に、常に苛立ちが薄く張りついている。

その原因が何なのか、ノエリアにももうわかっていた。

エルミア。

あの女がいなくなったあと、すべてが少しずつおかしくなった。

それが悔しかった。

選ばれたのは自分なのに。

婚約者として不要だったから捨てられたのはあちらなのに。

それなのに、皆が今さらあの女の価値を言い始める。

「……ふざけないで」

小さく呟いて、自分の顔を見つめる。

鏡の中の自分は、たしかに可愛い。儚げで、守ってやりたくなる顔をしている。

けれど、その顔だけで足りないのだと最近は感じてしまう。

だからといって、何を学べばいいのかもわからない。

席次、礼法、会計、贈答、商会とのつき合い――エルミアがやっていたらしいことを今さら並べられても、そんなものを全部覚える気にはなれないし、覚えなければならないこと自体が腹立たしかった。

どうして自分がそんな面倒なことをしなければならないの。

愛されていれば、それで十分ではないの。

そう思うのに、その“愛されている”はずの土台が、少しずつ揺れている気がした。

ノエリアは鏡から目を逸らした。

認めたくない。

けれど不安だけは確かにある。

同じ頃、辺境伯領では、カイゼルが執務机で手紙を受け取っていた。

差出人の封蝋を見た瞬間、彼の指先がほんのわずかに静かになる。

ヴァレンティア公爵邸からの返書。

封を切り、中を読む。

白薔薇はもうすぐ咲きそうです。
昨日より、さらに蕾がふくらみました。
辺境はまだ寒いのですね。
王都は相変わらず少し騒がしいですが、邸の中と温室は静かです。
そのことを安心だと思ってくださる方がいるのだと知って、わたくしも少し安心いたしました。
白薔薇が咲いたら、またお知らせいたします。

読み終えたあと、カイゼルはしばらく便箋を閉じなかった。

彼はもともと、手紙を何度も読み返すような男ではない。必要な内容を確認し、返答が要るなら返す。ただそれだけだ。

けれどその短い文は、思っていたより深く胸に残った。

少し安心した、と彼女は書いている。

それだけのことが、静かに嬉しかった。

「閣下」

側近が入室してきて、数歩進んだところで止まる。

「何かよろしいことでもございましたか」

カイゼルは視線を上げた。

自分が少しだけ表情を緩めていたのだと、そこでようやく気づく。

「……そう見えるか」

「少々」

「気のせいだ」

「左様でございますか」

だが側近の顔には、どう見ても“そうは思っておりません”と書いてあった。

カイゼルは便箋を静かに畳み、引き出しへしまう。

返事は急がなくていいだろう。

白薔薇が咲いたら、また知らせると彼女は書いた。

ならば、次の便りはその時でいい。

それまで王都がどれほど騒ごうと、少なくとも彼女のいる場所には静けさがある。

それを自分へ伝えてくれたことが、ひどく満ち足りた気持ちを残していた。

そしてその夜、ヴァレンティア公爵邸の温室では、白薔薇のいちばん外側の花弁が、ほんのわずかにゆるみ始めていた。

まだ誰も気づかないほど小さく。

けれど、確かに。
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