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第十八話 もう戻れない場所
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第十八話 もう戻れない場所
王太子宮の夜は、以前よりずっと静かになった。
穏やかになったのではない。
声を潜める者が増え、無駄に笑う者が減り、皆が“余計な空気を立てないように”慎重になった結果、静かに見えるだけだ。そこにあるのは安定ではなく、張りつめた遠慮だった。
その夜、セオドールは自室の書き物机に肘をつき、目の前の書類を睨んでいた。
だが、内容はほとんど頭に入ってこない。
視線は文字を追っていても、思考は別のところへ行ってしまう。
今日のノエリアとのやり取り。
あの一言。
比べていらっしゃるように見えるのです。
言われた瞬間、胸の奥に嫌なものが走った。否定した。もちろん否定するしかなかった。だが、否定したところで自分の中の感覚までは消えない。
比べたくない。
本当に、比べたくないのだ。
ノエリアは可愛い。愛らしい。守りたくなる。そういう意味では、確かにエルミアとは違う。いや、違うからこそ惹かれたのだ。エルミアのように落ち着き払っていて、何でも整えてしまう女とは別の、柔らかくて、傷つきやすくて、自分が手を差し伸べる意味のある相手。
そのはずだった。
だが現実には、守るだけでは足りない場がある。
そして最近のセオドールは、その“足りなさ”ばかりを見せつけられている気がした。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
机の脇に置かれた酒杯へ手を伸ばしかけ、やめる。
酒で紛らわせられる程度の苛立ちではなかった。
もし、あの夜。
舞踏会でああいう形にしなければ。
あるいは、婚約を解消するとしても、もっと別のやり方があったのではないか。
そんな考えが一瞬だけ浮かび、すぐに打ち消す。
違う。
あの夜、自分は正しいと思っていた。ノエリアを守るために動いた。エルミアの冷たさや傲慢さに嫌気が差していたのも事実だ。だから婚約を切った。それ自体は間違っていない――そう思わなければ、やっていられなかった。
だが、間違っていなかったとしても。
やり方は違ったのではないか。
そこまで考えたところで、セオドールは机を軽く叩いた。
考えたくない。
今さらそんなことを考えても仕方がない。
仕方がないはずなのに、頭の中ではひとつの光景ばかりが浮かぶ。
慈善晩餐会の席順。
いや、自分は直接見ていない。けれど話は嫌でも耳に入る。エルミアが落ち着いた席に置かれ、多くの夫人たちが自然に挨拶へ向かい、しかもルヴァンシュ辺境伯まで彼女のもとへまっすぐ歩いたという話。
その光景を想像すると、妙に胸の奥がざらついた。
そこは、もともと自分の隣にあるはずだった場所だ。
少なくとも、そう思っていた。
エルミアはいつだって、自分の婚約者として扱われていた。王太子の隣に立つために整えられた存在で、だからこそ、その輝きも評価も“自分の側にあるもの”だと思っていた。
だが今、彼女はそこから切り離されてなお、いや切り離されたからこそ、別の中心へ戻り始めている。
それが面白くなかった。
失ったのが自分であることを、周囲が勝手に証明してくるようで。
「殿下」
控えめな声に、セオドールは顔を上げた。
入ってきたのは侍従長だった。
「なんだ」
「夜分に恐れ入ります。明日の午前、ルシアン・バルディエ侯爵より書簡が」
またその名か、とセオドールは思う。
「何の用だ」
「先日の昼餐会に関するお礼と……その、次回の集まりにつきましては“しばらく先に”とのことです」
断りではない。
だが、実質は距離を置かれているのと同じだった。
セオドールは鼻で笑った。
「しばらく先、か。便利な言い方だな」
「……はい」
侍従長は何も言い返さない。
そこにもまた、妙な距離があった。
以前なら、こうした空気の悪い報告はもっと角を取られていた。今は誰も、そこまで丁寧に整えてくれない。事実が事実の形で差し出される。
それが、ひどく不愉快だ。
「もういい。下がれ」
「かしこまりました」
扉が閉まる。
一人に戻ると、部屋の静けさがやけに重く感じられた。
もう戻れない場所がある。
その感覚が、最近ははっきりしてきている。
婚約を解消したあの日をなかったことにはできない。
公の場でエルミアを断罪したことも。
そのあと彼女が静かに支援を断ち切ったことも。
今さら「誤解だった」「やりすぎた」と口にしたところで、彼女が以前の位置に戻るとは思えない。
いや、それ以前に。
彼女自身が、もう戻る気がないのだろう。
そのことが、何より腹立たしく、何より苦かった。
一方、ノエリアはファルゼ伯爵家の自室で、一人きりで座っていた。
灯りは落とし気味で、鏡台の前にも行く気になれない。
昼餐会の失敗は、誰にもはっきり失敗と告げられたわけではない。けれど、だからこそ逃げ場がなかった。
席を一瞬間違えたこと。
慈善の話題に入れなかったこと。
色選びの話ですら、結局“自分を可愛く見せる基準”しか持っていないと露呈したこと。
思い出すたびに、頬が熱くなる。
そして何よりつらいのは、セオドールの態度だった。
冷たいわけではない。
だが、もう以前のように“何があっても庇ってくれる人”ではなくなりつつある。
不安を口にすると、面倒そうにされる時がある。
今日のことだって、きっと殿下も内心ではうまくいかなかったと思っている。なのに、それをはっきりとは言わない。言わない代わりに、微妙な沈黙や視線の硬さで伝わってしまう。
そして一番怖いのは、そこにエルミアの影があることだ。
殿下は否定した。
比べてなどいないと。
けれど、本当に比べていないなら、あんな顔はしない。あんなふうに、一瞬言葉が止まったりしない。
「……いや」
ノエリアは小さく首を振る。
そんなことを考えたくない。
考えれば考えるほど、自分の立場が薄くなる気がするからだ。
それでも、不安は消えなかった。
守られるだけでは足りない。
その現実が、最近は自分の周囲で何度も形を取って現れる。
社交の場。
夫人たちの目。
殿下の沈黙。
そのすべてが、ノエリアへ同じことを告げていた。
けれど彼女は、その“足りないもの”をどう埋めればいいのかわからない。
知りたくもない、という気持ちさえある。
席順や話題や贈答の趣味なんて、そんな面倒なことをなぜ自分が覚えなければならないの。愛されていればいいではないか。選ばれたのは自分なのだから。
そう思うのに、その愛も選択も、最近は前ほど絶対ではないように感じられてしまう。
ノエリアは目を閉じた。
その瞬間、思い出してしまう。
舞踏会の夜のエルミアの顔を。
泣かず、縋らず、ただ静かに婚約破棄を受け入れ、支援停止を告げたあの顔。
あの時は、怖いと思った。
けれど今は、それ以上に別の感情が混ざる。
羨ましいのかもしれない。
あんなふうに、自分の足で立っていられることが。
思った瞬間、ノエリアは目を開けた。
そんなのは嫌だ。
羨むなんて、絶対に嫌だ。
それでも、心の奥のざらつきは消えなかった。
その頃、ヴァレンティア公爵邸では、エルミアが温室で白薔薇を見ていた。
夜の温室は昼間とは違う静けさがある。外は暗くても、ガラス越しの月明かりと小さな灯りだけで、白い花弁はひどくやわらかく見えた。
咲いたばかりの花は、昼より夜のほうが静かに美しい。
そんなことを思いながら、エルミアは少しだけ肩の力を抜く。
慈善晩餐会のあと、いくつかの招待がさらに戻ってきた。
席順が語るものは大きい。あの場で、彼女が無理をせず自然に立っていたことが、そのまま社交界の安心に繋がったのだろう。
以前の自分なら、それをどこか義務のように受け止めたかもしれない。期待に応えねば、安定を保たねば、と。
けれど今は違う。
今の自分は、ただ自分の場所に立っただけだ。
それでいいのだと、少しずつ思えるようになっている。
「お嬢様」
グラハムが静かに入ってくる。
「何かしら」
「夜の報告でございます」
差し出された紙を受け取り、目を通す。
ルシアン侯爵から王太子宮へ、次の集まりはしばらく先にという打診があったこと。
ノエリアがかなり落ち込んでいるらしいこと。
セオドールが今夜も機嫌を損ねていること。
ひとつひとつは大きな事件ではない。
だが、向こうの空気が確実に重くなっているのは伝わってくる。
「……しばらく先、ね」
エルミアは小さく呟いた。
「上手な断り方だわ」
「はい。完全に切るわけではなく、しかし今は寄りたくないという意思表示かと」
「賢いやり方ね」
紙をそっと閉じる。
もう戻れない場所がある。
それはきっと、セオドールだけではなく、ノエリアも感じ始めているのだろう。自分たちが思っていた“選ばれた後の景色”が、実はそう簡単なものではなかったことを。
だが、だからといってこちらが何かを返す必要はない。
エルミアはもう、その場所の住人ではない。
「お嬢様」
グラハムがいつもより少しだけやわらかい声で言う。
「何かお考えで?」
「ええ。でも、昔ほど重くはないわ」
「何よりでございます」
「向こうがどれだけ気づいても、もう遅いのだなと思っていただけ」
それは、我ながら冷たい言い方かもしれない。
けれど不思議と、そこに怒りはなかった。
ただ、事実としてそう思えたのだ。
気づくのが遅すぎた。
手放してから大きさを知っても、もう戻れない。
そのことを、今は静かに受け止められる。
グラハムは一礼し、報告書を引き取る気配を見せたが、ふと思い出したように言った。
「そういえば、辺境伯様から短いお伝言が」
エルミアが顔を上げる。
「伝言?」
「はい。“夜の白薔薇も見てみたい”とのことです」
数秒、温室の空気が止まったように感じた。
「……それを今言うの?」
「今お伝えするのが適切かと」
「本当にあなた、だいぶ楽しんでいない?」
「いいえ、まったく」
絶対に嘘だ、とエルミアは思う。
けれど、そのおかげで口元が緩んでしまったのも事実だった。
夜の白薔薇も見てみたい。
たったそれだけの言葉が、向こうの重い空気を一気に遠ざける。
やはり、ずるい人だ。
エルミアは白薔薇へ視線を戻した。
月明かりの下の花は、たしかに昼とは違って見える。
静かで、やわらかくて、どこか秘密めいている。
「……いつか、お見せできるといいわね」
思わずこぼしたその言葉は、グラハムに聞こえていたのかいないのか。
彼は何も言わず、ただ一礼して静かに下がっていった。
温室にはまた静けさが戻る。
もう戻れない場所がある。
けれどその一方で、これから向かうことのできる場所も、少しずつ形を持ち始めているのかもしれなかった。
王太子宮の夜は、以前よりずっと静かになった。
穏やかになったのではない。
声を潜める者が増え、無駄に笑う者が減り、皆が“余計な空気を立てないように”慎重になった結果、静かに見えるだけだ。そこにあるのは安定ではなく、張りつめた遠慮だった。
その夜、セオドールは自室の書き物机に肘をつき、目の前の書類を睨んでいた。
だが、内容はほとんど頭に入ってこない。
視線は文字を追っていても、思考は別のところへ行ってしまう。
今日のノエリアとのやり取り。
あの一言。
比べていらっしゃるように見えるのです。
言われた瞬間、胸の奥に嫌なものが走った。否定した。もちろん否定するしかなかった。だが、否定したところで自分の中の感覚までは消えない。
比べたくない。
本当に、比べたくないのだ。
ノエリアは可愛い。愛らしい。守りたくなる。そういう意味では、確かにエルミアとは違う。いや、違うからこそ惹かれたのだ。エルミアのように落ち着き払っていて、何でも整えてしまう女とは別の、柔らかくて、傷つきやすくて、自分が手を差し伸べる意味のある相手。
そのはずだった。
だが現実には、守るだけでは足りない場がある。
そして最近のセオドールは、その“足りなさ”ばかりを見せつけられている気がした。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
机の脇に置かれた酒杯へ手を伸ばしかけ、やめる。
酒で紛らわせられる程度の苛立ちではなかった。
もし、あの夜。
舞踏会でああいう形にしなければ。
あるいは、婚約を解消するとしても、もっと別のやり方があったのではないか。
そんな考えが一瞬だけ浮かび、すぐに打ち消す。
違う。
あの夜、自分は正しいと思っていた。ノエリアを守るために動いた。エルミアの冷たさや傲慢さに嫌気が差していたのも事実だ。だから婚約を切った。それ自体は間違っていない――そう思わなければ、やっていられなかった。
だが、間違っていなかったとしても。
やり方は違ったのではないか。
そこまで考えたところで、セオドールは机を軽く叩いた。
考えたくない。
今さらそんなことを考えても仕方がない。
仕方がないはずなのに、頭の中ではひとつの光景ばかりが浮かぶ。
慈善晩餐会の席順。
いや、自分は直接見ていない。けれど話は嫌でも耳に入る。エルミアが落ち着いた席に置かれ、多くの夫人たちが自然に挨拶へ向かい、しかもルヴァンシュ辺境伯まで彼女のもとへまっすぐ歩いたという話。
その光景を想像すると、妙に胸の奥がざらついた。
そこは、もともと自分の隣にあるはずだった場所だ。
少なくとも、そう思っていた。
エルミアはいつだって、自分の婚約者として扱われていた。王太子の隣に立つために整えられた存在で、だからこそ、その輝きも評価も“自分の側にあるもの”だと思っていた。
だが今、彼女はそこから切り離されてなお、いや切り離されたからこそ、別の中心へ戻り始めている。
それが面白くなかった。
失ったのが自分であることを、周囲が勝手に証明してくるようで。
「殿下」
控えめな声に、セオドールは顔を上げた。
入ってきたのは侍従長だった。
「なんだ」
「夜分に恐れ入ります。明日の午前、ルシアン・バルディエ侯爵より書簡が」
またその名か、とセオドールは思う。
「何の用だ」
「先日の昼餐会に関するお礼と……その、次回の集まりにつきましては“しばらく先に”とのことです」
断りではない。
だが、実質は距離を置かれているのと同じだった。
セオドールは鼻で笑った。
「しばらく先、か。便利な言い方だな」
「……はい」
侍従長は何も言い返さない。
そこにもまた、妙な距離があった。
以前なら、こうした空気の悪い報告はもっと角を取られていた。今は誰も、そこまで丁寧に整えてくれない。事実が事実の形で差し出される。
それが、ひどく不愉快だ。
「もういい。下がれ」
「かしこまりました」
扉が閉まる。
一人に戻ると、部屋の静けさがやけに重く感じられた。
もう戻れない場所がある。
その感覚が、最近ははっきりしてきている。
婚約を解消したあの日をなかったことにはできない。
公の場でエルミアを断罪したことも。
そのあと彼女が静かに支援を断ち切ったことも。
今さら「誤解だった」「やりすぎた」と口にしたところで、彼女が以前の位置に戻るとは思えない。
いや、それ以前に。
彼女自身が、もう戻る気がないのだろう。
そのことが、何より腹立たしく、何より苦かった。
一方、ノエリアはファルゼ伯爵家の自室で、一人きりで座っていた。
灯りは落とし気味で、鏡台の前にも行く気になれない。
昼餐会の失敗は、誰にもはっきり失敗と告げられたわけではない。けれど、だからこそ逃げ場がなかった。
席を一瞬間違えたこと。
慈善の話題に入れなかったこと。
色選びの話ですら、結局“自分を可愛く見せる基準”しか持っていないと露呈したこと。
思い出すたびに、頬が熱くなる。
そして何よりつらいのは、セオドールの態度だった。
冷たいわけではない。
だが、もう以前のように“何があっても庇ってくれる人”ではなくなりつつある。
不安を口にすると、面倒そうにされる時がある。
今日のことだって、きっと殿下も内心ではうまくいかなかったと思っている。なのに、それをはっきりとは言わない。言わない代わりに、微妙な沈黙や視線の硬さで伝わってしまう。
そして一番怖いのは、そこにエルミアの影があることだ。
殿下は否定した。
比べてなどいないと。
けれど、本当に比べていないなら、あんな顔はしない。あんなふうに、一瞬言葉が止まったりしない。
「……いや」
ノエリアは小さく首を振る。
そんなことを考えたくない。
考えれば考えるほど、自分の立場が薄くなる気がするからだ。
それでも、不安は消えなかった。
守られるだけでは足りない。
その現実が、最近は自分の周囲で何度も形を取って現れる。
社交の場。
夫人たちの目。
殿下の沈黙。
そのすべてが、ノエリアへ同じことを告げていた。
けれど彼女は、その“足りないもの”をどう埋めればいいのかわからない。
知りたくもない、という気持ちさえある。
席順や話題や贈答の趣味なんて、そんな面倒なことをなぜ自分が覚えなければならないの。愛されていればいいではないか。選ばれたのは自分なのだから。
そう思うのに、その愛も選択も、最近は前ほど絶対ではないように感じられてしまう。
ノエリアは目を閉じた。
その瞬間、思い出してしまう。
舞踏会の夜のエルミアの顔を。
泣かず、縋らず、ただ静かに婚約破棄を受け入れ、支援停止を告げたあの顔。
あの時は、怖いと思った。
けれど今は、それ以上に別の感情が混ざる。
羨ましいのかもしれない。
あんなふうに、自分の足で立っていられることが。
思った瞬間、ノエリアは目を開けた。
そんなのは嫌だ。
羨むなんて、絶対に嫌だ。
それでも、心の奥のざらつきは消えなかった。
その頃、ヴァレンティア公爵邸では、エルミアが温室で白薔薇を見ていた。
夜の温室は昼間とは違う静けさがある。外は暗くても、ガラス越しの月明かりと小さな灯りだけで、白い花弁はひどくやわらかく見えた。
咲いたばかりの花は、昼より夜のほうが静かに美しい。
そんなことを思いながら、エルミアは少しだけ肩の力を抜く。
慈善晩餐会のあと、いくつかの招待がさらに戻ってきた。
席順が語るものは大きい。あの場で、彼女が無理をせず自然に立っていたことが、そのまま社交界の安心に繋がったのだろう。
以前の自分なら、それをどこか義務のように受け止めたかもしれない。期待に応えねば、安定を保たねば、と。
けれど今は違う。
今の自分は、ただ自分の場所に立っただけだ。
それでいいのだと、少しずつ思えるようになっている。
「お嬢様」
グラハムが静かに入ってくる。
「何かしら」
「夜の報告でございます」
差し出された紙を受け取り、目を通す。
ルシアン侯爵から王太子宮へ、次の集まりはしばらく先にという打診があったこと。
ノエリアがかなり落ち込んでいるらしいこと。
セオドールが今夜も機嫌を損ねていること。
ひとつひとつは大きな事件ではない。
だが、向こうの空気が確実に重くなっているのは伝わってくる。
「……しばらく先、ね」
エルミアは小さく呟いた。
「上手な断り方だわ」
「はい。完全に切るわけではなく、しかし今は寄りたくないという意思表示かと」
「賢いやり方ね」
紙をそっと閉じる。
もう戻れない場所がある。
それはきっと、セオドールだけではなく、ノエリアも感じ始めているのだろう。自分たちが思っていた“選ばれた後の景色”が、実はそう簡単なものではなかったことを。
だが、だからといってこちらが何かを返す必要はない。
エルミアはもう、その場所の住人ではない。
「お嬢様」
グラハムがいつもより少しだけやわらかい声で言う。
「何かお考えで?」
「ええ。でも、昔ほど重くはないわ」
「何よりでございます」
「向こうがどれだけ気づいても、もう遅いのだなと思っていただけ」
それは、我ながら冷たい言い方かもしれない。
けれど不思議と、そこに怒りはなかった。
ただ、事実としてそう思えたのだ。
気づくのが遅すぎた。
手放してから大きさを知っても、もう戻れない。
そのことを、今は静かに受け止められる。
グラハムは一礼し、報告書を引き取る気配を見せたが、ふと思い出したように言った。
「そういえば、辺境伯様から短いお伝言が」
エルミアが顔を上げる。
「伝言?」
「はい。“夜の白薔薇も見てみたい”とのことです」
数秒、温室の空気が止まったように感じた。
「……それを今言うの?」
「今お伝えするのが適切かと」
「本当にあなた、だいぶ楽しんでいない?」
「いいえ、まったく」
絶対に嘘だ、とエルミアは思う。
けれど、そのおかげで口元が緩んでしまったのも事実だった。
夜の白薔薇も見てみたい。
たったそれだけの言葉が、向こうの重い空気を一気に遠ざける。
やはり、ずるい人だ。
エルミアは白薔薇へ視線を戻した。
月明かりの下の花は、たしかに昼とは違って見える。
静かで、やわらかくて、どこか秘密めいている。
「……いつか、お見せできるといいわね」
思わずこぼしたその言葉は、グラハムに聞こえていたのかいないのか。
彼は何も言わず、ただ一礼して静かに下がっていった。
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