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第二十二話 答えられない問い
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第二十二話 答えられない問い
王太子宮の空気は、その日ひどく冷えていた。
冬の寒さではない。
人の気配があるのに温度がなく、言葉が交わされてもそこにやわらかさが残らない、そういう冷えだ。廊下を行き交う侍従たちの足音は必要以上に静かで、扉の開閉ひとつにも妙な気遣いがにじんでいる。誰もが、余計な火花を散らさないようにしていた。
だが、そういう時ほど、空気はかえって張りつめる。
その午後、ノエリアはセオドールの私室に呼ばれていた。
呼ばれたというより、正しくは、自分から会いたいと願い出たのだ。
もう曖昧なままではいられなかった。
自分は何をすればいいのか。
何を求められているのか。
可愛くしていればいいのか、慎ましくしていればいいのか、それとも別の何かを身につけなければならないのか。
最近の空気は、それを曖昧にしたままでは立っていられないことを、ノエリアに何度も突きつけてきた。
そしてセオドールの態度もまた、その問いを避けてはくれなくなっている。
「殿下……」
部屋へ通されたノエリアは、少しだけ震える声で名を呼んだ。
セオドールは窓辺に立っていたが、振り返る動作はどこか重い。以前のように、ノエリアの姿を見た瞬間に表情が緩むこともなかった。
「来たか」
「はい……」
その短い返答だけで、もう胸が冷たくなる。
最近の彼は、こういう言い方をすることが増えた。冷酷なわけではない。ただ、余裕がなく、言葉にやわらかさをのせるだけのゆとりが残っていないのだ。
けれど、だからこそノエリアにはつらい。
かつて自分が選ばれた理由のひとつは、きっと“やわらかくて守りたくなるから”だったはずなのに、その守る余裕が向こうから減っていくのがわかってしまうからだ。
「何の用だ」
セオドールは椅子へ腰を下ろしながら尋ねた。
その声音にも、わずかな警戒が混ざっている。
また不安をぶつけられるのではないか。
また面倒な話になるのではないか。
そう思っているのが、ノエリアには伝わってしまった。
それでも今日ばかりは、退けなかった。
「殿下に、お聞きしたいことがございます」
「……何だ」
ノエリアは一度きゅっと指先を握りしめ、それから意を決して口を開いた。
「わたくしは、何をすればよいのでしょうか」
沈黙が落ちた。
部屋の空気がぴたりと止まる。
セオドールは一瞬、本当に意味がわからないという顔をした。だがすぐに、それがどういう問いかを理解したらしい。眉間にうっすらと皺が寄る。
「何を、とは」
「そのままの意味です」
ノエリアはできるだけ落ち着いた声を保とうとした。
「最近の場で、わたくしが足りていないことくらい、わかります。茶会でも、昼餐会でも……皆様の目が以前とは違うことも」
言っていて、胸が痛くなる。
認めたくないことを、自分で口にしているからだ。
セオドールはすぐには返事をしなかった。
その沈黙が、何よりつらい。
ノエリアは続ける。
「わたくしは、ただ殿下のおそばにいて、殿下をお慕いしていればそれでよいのだと思っておりました。でも、そうではないのでしょう?」
「……」
「でしたら、教えてくださいませ。わたくしは何を身につければよいのですか。何を覚えればいいのですか。何をすれば、殿下の隣にいてもおかしくないと皆様に思っていただけるのでしょう」
声が少し震えた。
けれどもう、涙でごまかすつもりはなかった。
今ここで泣けば、また“可哀想な顔”で押し切ろうとしたと思われるだけだ。そういうやり方が、もう通じないことは自分でもわかっている。
セオドールは椅子に深くもたれたまま、しばらく黙っていた。
その顔には、困惑と苛立ち、そしてほんの少しの疲れが混ざっている。
やがて彼は低く言った。
「急にそんなことを言われても困る」
ノエリアは目を見開いた。
「困る……?」
「そうだ。お前は、お前らしくいればいい」
その答えは、以前なら嬉しかったかもしれない。
けれど今のノエリアには、あまりに空虚だった。
「その“わたくしらしく”で、うまくいっていないのです」
思わずそう返してしまう。
セオドールの表情が硬くなる。
「うまくいっていないと決めつけるな」
「決めつけではありません!」
そこだけは、どうしても抑えられなかった。
ノエリア自身、自分が少し声を荒げたことに驚いた。けれど止まらない。
「皆様は、わたくしを見ています。わたくしが何を知らないか、何に答えられないか、どこで戸惑うか……全部。殿下だってご覧になっていたでしょう?」
「ノエリア」
「なのに、何をすればいいのかは教えてくださらないのですか?」
言い切った瞬間、部屋の空気がさらに冷えた。
セオドールは、まるで責められているとでも言いたげな顔をした。
だが実際、責めているのに近いのかもしれない。
ノエリアは、自分でも抑えきれなくなっていた。
選ばれたのは自分のはずなのに。
守ると言ったのは殿下のはずなのに。
どうして今、自分が一人で答えのない問いを抱えなければならないのか。
「……私に何を言わせたい」
セオドールが、低く押し殺した声で言った。
ノエリアは唇を噛む。
それを聞かれると、逆に言葉が詰まる。
何を言わせたいのか。
たぶん、自分でも完全にはわかっていない。
慰めてほしいのか。
道を示してほしいのか。
それとも、“比べていない”と、もっと強く言い切ってほしいのか。
だがどれも、今のセオドールからは得られない気がした。
それが、何よりつらい。
「わたくしは……」
やっとのことで言葉を探す。
「殿下の隣にいて恥ずかしくないようになりたいのです」
その一言は本音だった。
最初は、ただ選ばれたことが嬉しかった。可愛いと思われること、守ってもらえること、それだけで十分だと思っていた。
けれど、今は違う。
守られるだけでは足りない場がある。
しかも、王太子の隣というのは、まさにその最たる場所だった。
セオドールはしばらく黙っていた。
そしてようやく口を開く。
「なら、礼法を学べばいい」
あまりに遅い、あまりに平板な答えだった。
ノエリアは呆然と彼を見る。
礼法。
そんなことは、もっと前に言われるべきだった。
いや、それだけではない。礼法を学べば、すべて解決するような言い方が、あまりに空々しい。
「礼法だけ、ですか」
「まずは、だ」
「では、場の空気や、話題の選び方や、寄付のことや、席次や……そういうものは」
「少しずつ覚えればいいだろう!」
ついにセオドールが声を荒げた。
ノエリアは肩を震わせる。
「そんなに一度にできるわけがない」
「……」
「それを今さら私に詰め寄るな」
その言葉は、ほとんど本音だったのだろう。
だからこそ、深く刺さった。
今さら。
つまり彼は、自分でもわかっているのだ。今のノエリアに足りないものが多すぎることも、それを短期間で埋めるのが難しいことも。
けれど、その現実を受け止めたくないから、逆に苛立つ。
ノエリアはそこでようやく理解した。
この人は、答えを持っていないのだ。
自分に何を求めるのか。
可愛くいてほしいのか、支えてほしいのか、場を整えてほしいのか。
それを、彼自身が整理できていない。
だから自分が問えば、怒るしかない。
「……申し訳ありません」
ノエリアはそう言った。
もう、それしか言えなかった。
責められたくなくて、怒らせたくなくて、とりあえず引く。
それが最近の自分の癖になっていることにも、気づいていた。
セオドールはその謝罪に満足したわけでもなさそうだった。むしろ、余計に気まずさが残ったような顔をしている。
「今日はもう下がれ」
その言い方に、以前のような優しさはなかった。
ノエリアは一礼し、静かに部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、足の力が少し抜けた。
廊下は静かだった。
誰もこちらを見ない。見ていても、見ていないふりをしているのかもしれない。
その沈黙が、ひどくみじめだった。
何をすればよいのか。
結局、答えは得られなかった。
礼法を学べばいい。
少しずつ覚えればいい。
そんなのは答えではない。
何が足りないのかを見ているのは、殿下自身のはずなのに、その不足を埋める言葉を、自分へ与えることさえできない。
部屋へ戻ったノエリアは、ドレスのまま椅子に座り込んだ。
涙は出なかった。
泣く気にもなれなかった。
代わりに、胸の中に重く濁ったものが溜まっていく。
選ばれたのに。
ここまで来たのに。
どうしてこんな気持ちにならなくてはいけないの。
セオドールもまた、一人になるとひどく疲れていた。
ノエリアの問いは正しかった。
だからこそ、腹が立った。
何をすればいいのか。
自分は何を求めているのか。
その問いに、うまく答えられない自分自身が、何より腹立たしい。
礼法を学べばいい。
少しずつ覚えればいい。
そんなことは、自分でも薄い答えだとわかっている。
本当に必要なのは、もっと別のものだ。
場を読むこと。
言葉を選ぶこと。
人を立てること。
失敗が起きる前に整えること。
そして――自分が苛立った時に、それを周囲へまき散らさずに済ませること。
そこまで考えて、セオドールは顔を歪めた。
まるで、エルミアそのものではないか。
そうだ。
認めたくないが、自分が最近ずっと不在を感じているのは、その部分なのだ。
可愛さではなく。
やわらかさではなく。
“場を保たせるもの”としての力。
ノエリアに足りないのは、それだった。
だが、それをそのまま言えるはずがない。
言ってしまえば、自分が何を失ったのかを、あまりにはっきり認めることになる。
そしてそれは、今のセオドールにはまだ飲み込めなかった。
その夜、ヴァレンティア公爵邸では、エルミアが温室の小卓で手紙を書いていた。
白薔薇のそばに置かれた辺境の白い小花は、夜の灯りの下でもやさしい。
手元の便箋には、もう半分ほど文字が並んでいる。
“お花、気に入っております。
白薔薇のそばに置いておりますが、とてもよく馴染んでおります。
不思議と、最初からそこにあるように見えるのです”
そこまで書いて、エルミアは少しだけペンを止めた。
最初からそこにあるように見える。
それは花のことだ。
だが、どこか別のことにも聞こえる気がして、少しだけ頬が熱くなる。
「お嬢様」
グラハムが控えめに現れる。
「何かしら」
「王太子宮でのやり取りについて、続報が」
エルミアはペンを置いた。
「そう」
「ノエリア様が殿下へ、“何をすればよいのか”と問われたそうです」
「ええ」
「殿下は、明確なお答えをお出しになれなかったようで」
やはり、と思う。
けれどその“やはり”には、哀れみも怒りもなかった。
ただ、そうなるだろうと予想していた先へ、現実が静かにたどり着いただけだ。
「……答えられないのね」
エルミアはぽつりと言った。
「はい」
「自分が何を欲しがっているのかを、殿下ご自身が言葉にできないから」
グラハムは何も言わなかった。
だが、その沈黙は同意に近かった。
エルミアは白薔薇を見つめる。
昔の自分は、問われなくてもやるべきことが見えていた。見えすぎるほど見えていた。そしてそれを黙ってやることが、婚約者として当然だと思っていた。
今思えば、ずいぶんと歪だった。
歪だったからこそ、ノエリアは今、空っぽの場所へ立たされて苦しんでいるのかもしれない。
「お気にかかりますか」
グラハムが静かに問う。
エルミアは少し考えてから答えた。
「……少しだけ。でも、もうそれは“わたくしが埋める問い”ではないわ」
「はい」
その言葉を口にしながら、改めて自分の立ち位置がはっきりする。
向こうには、答えられない問いがある。
こちらには、届いた花と、静かに返す言葉がある。
どちらが今の自分にふさわしい場所か、もう迷うことはなかった。
王太子宮の空気は、その日ひどく冷えていた。
冬の寒さではない。
人の気配があるのに温度がなく、言葉が交わされてもそこにやわらかさが残らない、そういう冷えだ。廊下を行き交う侍従たちの足音は必要以上に静かで、扉の開閉ひとつにも妙な気遣いがにじんでいる。誰もが、余計な火花を散らさないようにしていた。
だが、そういう時ほど、空気はかえって張りつめる。
その午後、ノエリアはセオドールの私室に呼ばれていた。
呼ばれたというより、正しくは、自分から会いたいと願い出たのだ。
もう曖昧なままではいられなかった。
自分は何をすればいいのか。
何を求められているのか。
可愛くしていればいいのか、慎ましくしていればいいのか、それとも別の何かを身につけなければならないのか。
最近の空気は、それを曖昧にしたままでは立っていられないことを、ノエリアに何度も突きつけてきた。
そしてセオドールの態度もまた、その問いを避けてはくれなくなっている。
「殿下……」
部屋へ通されたノエリアは、少しだけ震える声で名を呼んだ。
セオドールは窓辺に立っていたが、振り返る動作はどこか重い。以前のように、ノエリアの姿を見た瞬間に表情が緩むこともなかった。
「来たか」
「はい……」
その短い返答だけで、もう胸が冷たくなる。
最近の彼は、こういう言い方をすることが増えた。冷酷なわけではない。ただ、余裕がなく、言葉にやわらかさをのせるだけのゆとりが残っていないのだ。
けれど、だからこそノエリアにはつらい。
かつて自分が選ばれた理由のひとつは、きっと“やわらかくて守りたくなるから”だったはずなのに、その守る余裕が向こうから減っていくのがわかってしまうからだ。
「何の用だ」
セオドールは椅子へ腰を下ろしながら尋ねた。
その声音にも、わずかな警戒が混ざっている。
また不安をぶつけられるのではないか。
また面倒な話になるのではないか。
そう思っているのが、ノエリアには伝わってしまった。
それでも今日ばかりは、退けなかった。
「殿下に、お聞きしたいことがございます」
「……何だ」
ノエリアは一度きゅっと指先を握りしめ、それから意を決して口を開いた。
「わたくしは、何をすればよいのでしょうか」
沈黙が落ちた。
部屋の空気がぴたりと止まる。
セオドールは一瞬、本当に意味がわからないという顔をした。だがすぐに、それがどういう問いかを理解したらしい。眉間にうっすらと皺が寄る。
「何を、とは」
「そのままの意味です」
ノエリアはできるだけ落ち着いた声を保とうとした。
「最近の場で、わたくしが足りていないことくらい、わかります。茶会でも、昼餐会でも……皆様の目が以前とは違うことも」
言っていて、胸が痛くなる。
認めたくないことを、自分で口にしているからだ。
セオドールはすぐには返事をしなかった。
その沈黙が、何よりつらい。
ノエリアは続ける。
「わたくしは、ただ殿下のおそばにいて、殿下をお慕いしていればそれでよいのだと思っておりました。でも、そうではないのでしょう?」
「……」
「でしたら、教えてくださいませ。わたくしは何を身につければよいのですか。何を覚えればいいのですか。何をすれば、殿下の隣にいてもおかしくないと皆様に思っていただけるのでしょう」
声が少し震えた。
けれどもう、涙でごまかすつもりはなかった。
今ここで泣けば、また“可哀想な顔”で押し切ろうとしたと思われるだけだ。そういうやり方が、もう通じないことは自分でもわかっている。
セオドールは椅子に深くもたれたまま、しばらく黙っていた。
その顔には、困惑と苛立ち、そしてほんの少しの疲れが混ざっている。
やがて彼は低く言った。
「急にそんなことを言われても困る」
ノエリアは目を見開いた。
「困る……?」
「そうだ。お前は、お前らしくいればいい」
その答えは、以前なら嬉しかったかもしれない。
けれど今のノエリアには、あまりに空虚だった。
「その“わたくしらしく”で、うまくいっていないのです」
思わずそう返してしまう。
セオドールの表情が硬くなる。
「うまくいっていないと決めつけるな」
「決めつけではありません!」
そこだけは、どうしても抑えられなかった。
ノエリア自身、自分が少し声を荒げたことに驚いた。けれど止まらない。
「皆様は、わたくしを見ています。わたくしが何を知らないか、何に答えられないか、どこで戸惑うか……全部。殿下だってご覧になっていたでしょう?」
「ノエリア」
「なのに、何をすればいいのかは教えてくださらないのですか?」
言い切った瞬間、部屋の空気がさらに冷えた。
セオドールは、まるで責められているとでも言いたげな顔をした。
だが実際、責めているのに近いのかもしれない。
ノエリアは、自分でも抑えきれなくなっていた。
選ばれたのは自分のはずなのに。
守ると言ったのは殿下のはずなのに。
どうして今、自分が一人で答えのない問いを抱えなければならないのか。
「……私に何を言わせたい」
セオドールが、低く押し殺した声で言った。
ノエリアは唇を噛む。
それを聞かれると、逆に言葉が詰まる。
何を言わせたいのか。
たぶん、自分でも完全にはわかっていない。
慰めてほしいのか。
道を示してほしいのか。
それとも、“比べていない”と、もっと強く言い切ってほしいのか。
だがどれも、今のセオドールからは得られない気がした。
それが、何よりつらい。
「わたくしは……」
やっとのことで言葉を探す。
「殿下の隣にいて恥ずかしくないようになりたいのです」
その一言は本音だった。
最初は、ただ選ばれたことが嬉しかった。可愛いと思われること、守ってもらえること、それだけで十分だと思っていた。
けれど、今は違う。
守られるだけでは足りない場がある。
しかも、王太子の隣というのは、まさにその最たる場所だった。
セオドールはしばらく黙っていた。
そしてようやく口を開く。
「なら、礼法を学べばいい」
あまりに遅い、あまりに平板な答えだった。
ノエリアは呆然と彼を見る。
礼法。
そんなことは、もっと前に言われるべきだった。
いや、それだけではない。礼法を学べば、すべて解決するような言い方が、あまりに空々しい。
「礼法だけ、ですか」
「まずは、だ」
「では、場の空気や、話題の選び方や、寄付のことや、席次や……そういうものは」
「少しずつ覚えればいいだろう!」
ついにセオドールが声を荒げた。
ノエリアは肩を震わせる。
「そんなに一度にできるわけがない」
「……」
「それを今さら私に詰め寄るな」
その言葉は、ほとんど本音だったのだろう。
だからこそ、深く刺さった。
今さら。
つまり彼は、自分でもわかっているのだ。今のノエリアに足りないものが多すぎることも、それを短期間で埋めるのが難しいことも。
けれど、その現実を受け止めたくないから、逆に苛立つ。
ノエリアはそこでようやく理解した。
この人は、答えを持っていないのだ。
自分に何を求めるのか。
可愛くいてほしいのか、支えてほしいのか、場を整えてほしいのか。
それを、彼自身が整理できていない。
だから自分が問えば、怒るしかない。
「……申し訳ありません」
ノエリアはそう言った。
もう、それしか言えなかった。
責められたくなくて、怒らせたくなくて、とりあえず引く。
それが最近の自分の癖になっていることにも、気づいていた。
セオドールはその謝罪に満足したわけでもなさそうだった。むしろ、余計に気まずさが残ったような顔をしている。
「今日はもう下がれ」
その言い方に、以前のような優しさはなかった。
ノエリアは一礼し、静かに部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、足の力が少し抜けた。
廊下は静かだった。
誰もこちらを見ない。見ていても、見ていないふりをしているのかもしれない。
その沈黙が、ひどくみじめだった。
何をすればよいのか。
結局、答えは得られなかった。
礼法を学べばいい。
少しずつ覚えればいい。
そんなのは答えではない。
何が足りないのかを見ているのは、殿下自身のはずなのに、その不足を埋める言葉を、自分へ与えることさえできない。
部屋へ戻ったノエリアは、ドレスのまま椅子に座り込んだ。
涙は出なかった。
泣く気にもなれなかった。
代わりに、胸の中に重く濁ったものが溜まっていく。
選ばれたのに。
ここまで来たのに。
どうしてこんな気持ちにならなくてはいけないの。
セオドールもまた、一人になるとひどく疲れていた。
ノエリアの問いは正しかった。
だからこそ、腹が立った。
何をすればいいのか。
自分は何を求めているのか。
その問いに、うまく答えられない自分自身が、何より腹立たしい。
礼法を学べばいい。
少しずつ覚えればいい。
そんなことは、自分でも薄い答えだとわかっている。
本当に必要なのは、もっと別のものだ。
場を読むこと。
言葉を選ぶこと。
人を立てること。
失敗が起きる前に整えること。
そして――自分が苛立った時に、それを周囲へまき散らさずに済ませること。
そこまで考えて、セオドールは顔を歪めた。
まるで、エルミアそのものではないか。
そうだ。
認めたくないが、自分が最近ずっと不在を感じているのは、その部分なのだ。
可愛さではなく。
やわらかさではなく。
“場を保たせるもの”としての力。
ノエリアに足りないのは、それだった。
だが、それをそのまま言えるはずがない。
言ってしまえば、自分が何を失ったのかを、あまりにはっきり認めることになる。
そしてそれは、今のセオドールにはまだ飲み込めなかった。
その夜、ヴァレンティア公爵邸では、エルミアが温室の小卓で手紙を書いていた。
白薔薇のそばに置かれた辺境の白い小花は、夜の灯りの下でもやさしい。
手元の便箋には、もう半分ほど文字が並んでいる。
“お花、気に入っております。
白薔薇のそばに置いておりますが、とてもよく馴染んでおります。
不思議と、最初からそこにあるように見えるのです”
そこまで書いて、エルミアは少しだけペンを止めた。
最初からそこにあるように見える。
それは花のことだ。
だが、どこか別のことにも聞こえる気がして、少しだけ頬が熱くなる。
「お嬢様」
グラハムが控えめに現れる。
「何かしら」
「王太子宮でのやり取りについて、続報が」
エルミアはペンを置いた。
「そう」
「ノエリア様が殿下へ、“何をすればよいのか”と問われたそうです」
「ええ」
「殿下は、明確なお答えをお出しになれなかったようで」
やはり、と思う。
けれどその“やはり”には、哀れみも怒りもなかった。
ただ、そうなるだろうと予想していた先へ、現実が静かにたどり着いただけだ。
「……答えられないのね」
エルミアはぽつりと言った。
「はい」
「自分が何を欲しがっているのかを、殿下ご自身が言葉にできないから」
グラハムは何も言わなかった。
だが、その沈黙は同意に近かった。
エルミアは白薔薇を見つめる。
昔の自分は、問われなくてもやるべきことが見えていた。見えすぎるほど見えていた。そしてそれを黙ってやることが、婚約者として当然だと思っていた。
今思えば、ずいぶんと歪だった。
歪だったからこそ、ノエリアは今、空っぽの場所へ立たされて苦しんでいるのかもしれない。
「お気にかかりますか」
グラハムが静かに問う。
エルミアは少し考えてから答えた。
「……少しだけ。でも、もうそれは“わたくしが埋める問い”ではないわ」
「はい」
その言葉を口にしながら、改めて自分の立ち位置がはっきりする。
向こうには、答えられない問いがある。
こちらには、届いた花と、静かに返す言葉がある。
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