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第二十七話 広がる噂、縮まる距離
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第二十七話 広がる噂、縮まる距離
辺境伯がヴァレンティア公爵邸を訪れた翌日、王都の空気はまたひとつ形を変えていた。
誰かが大声で言いふらしたわけではない。
新聞に載るわけでも、広場で噂になるわけでもない。
けれど、社交界というのはそういうものではないのだ。誰がどこへ立ち寄ったか。どの邸に、どれほど自然な顔で出入りしたか。そうしたことは、声高に語られなくとも、水に落ちた雫のように静かに広がっていく。
そして今、広がっているのは――。
「辺境伯様、本当に公爵邸へ?」
「ええ。商会との打ち合わせのついでと聞きましたけれど」
「ついで、で公爵邸へ立ち寄る方ではないでしょうに」
「まあ、それはそうですわね」
そんな会話が、夫人たちのあいだで上品に交わされる。
露骨ではない。
けれど、意味は十分だ。
ルヴァンシュ辺境伯が、エルミア・ヴァレンティアのもとを訪れた。
しかも、社交の大広間ではなく、彼女の邸へ。
その事実は、王都の目のよい者たちにとって、思っていた以上に大きな意味を持っていた。
ヴァレンティア公爵邸では、その日の朝も静かな時間が流れていた。
エルミアは温室の小卓で、昨夜書いた返書をもう一度読み返している。
本日はお立ち寄りくださり、ありがとうございました。
白薔薇も、見ていただけて嬉しかったです。
短いお時間でしたけれど、温室がいつもより少しだけあたたかく感じられました。
そこまで書いたあと、最後の一文をどうするか、まだ少し迷っていた。
またお会いできるのを楽しみにしております。
そう書いてしまいたい気持ちはあった。
けれど、それはまだ少しだけ正直すぎる気もする。
いや、もう十分に正直な文面なのかもしれないが。
「お嬢様」
温室の入口からマリアンヌが声をかけた。
「朝のお使いが戻りました」
「何かあったの?」
「伯爵夫人方のあいだで、昨日のご来訪が少し話題になっているようです」
エルミアは小さく息をついた。
やはりそうか、と思う。
隠せるはずもないとはわかっていた。むしろ隠そうとしていない。けれど、こうして“少し話題”と聞くと、やはり少しだけ頬が熱くなる。
「……どんなふうに?」
「皆様、ずいぶんと穏やかなご関心をお持ちだそうです」
その言い方に、エルミアはわずかに目を細めた。
「穏やかな、ね」
「はい。決して下世話な形ではなく、“あら、自然ですこと”という感じかと」
それを聞いて、胸のどこかが少しだけほどけた。
自然。
その言葉は最近よく聞く。
慈善晩餐会でも、席順でも、そして今も。
王太子の婚約者でいた頃には、どれだけ整えても“自然”とは少し違う緊張がつきまとっていた。けれどカイゼルとのあいだには、それがない。
だから、そう見えるのだろう。
「……変に騒がれていないなら、それでいいわ」
「左様でございます」
マリアンヌはそう言って、控えめに付け加えた。
「ただ、侯爵夫人の一人が“ようやく正しい並びを見た気がする”と」
エルミアは今度こそ完全に言葉を失った。
それはあまりに、あからさまだ。
けれど、否定もできない。
「お嬢様?」
「なんでもないわ……ちょっと、予想より直球だっただけ」
マリアンヌはそれ以上触れなかった。
さすがに、その辺りの機微はよくわかっているらしい。
一方、王太子宮では、その“穏やかな噂”が別の重さを持って届いていた。
セオドールは朝の執務机で、ひどく不機嫌そうに書類をめくっていた。
理由は明白だ。
辺境伯の王都入り。
ヴァレンティア公爵邸への立ち寄り。
そして、それが妙に好意的な空気で受け止められていること。
「……勝手なことを」
小さく吐き捨てる。
だがその言葉は、誰に向けたものなのか自分でも曖昧だった。
辺境伯に対してか。
噂を広げる夫人たちに対してか。
それとも、自分の手から離れたエルミアに対してか。
そこへ侍従長が、いつも以上に慎重な顔で進み出た。
「殿下、本日の午後、北部修道院支援に関する打ち合わせが」
「わかっている」
「先方は、ヴァレンティア公爵家も関与される前提で話を進めたい意向のようです」
セオドールの手が止まる。
「……またか」
何をするにも、最近はそこへ行き着く。
慈善。
後援。
社交。
贈答。
どこを見ても、ヴァレンティア公爵家とエルミアの名が出る。
しかも今は、それに辺境伯まで絡み始めている。
自分は王太子なのに。
なのに、まるで周囲の流れが自分を中心に回っていないように感じる。
その感覚が、どうしようもなく不愉快だった。
「殿下」
今度は別の声がした。
入ってきたのはノエリアだった。
以前より少しだけ控えめな装いだ。たぶん礼法教師に何か言われたのだろう。色も飾りも抑えられている。だが、その控えめさが彼女に“整い”を与えているかといえば、まだ微妙だった。
ぎこちなさのほうが先に見える。
それに気づいた瞬間、セオドールはまた胸の内に嫌なものを感じた。
比べたくないのに、比べてしまう。
「何だ」
短く問うと、ノエリアは一瞬だけ表情を曇らせたが、それでも言った。
「本日の午後、少しだけ礼法教師との確認を続けたいと……」
「好きにしろ」
返答はあまりに素っ気なかった。
ノエリアは唇をきゅっと結ぶ。
最近、彼のこういう言い方が増えた。
冷たく突き放すわけではない。だが、そこに“自分のことを見てくれている”感じが薄れている。返事はあるのに、心が向いていない。
それが何よりつらかった。
「殿下は……お忙しいのですね」
おそるおそるそう言うと、セオドールは書類から顔を上げずに答える。
「そうだ」
そこで会話は終わった。
ノエリアは立ち尽くしたまま、どうしていいかわからなくなる。
前なら、ここで何かもう一言あった。
無理をするな、とか。
終わったら顔を見せろ、とか。
そういう、ささやかな温度が。
今はそれがない。
そして、その失われた温度を誰のせいにしていいのかもわからない。
自分が足りないからなのか。
殿下が変わってしまったのか。
それとも――。
そこまで考えたところで、ノエリアは頭を振った。
考えたくなかった。
エルミアの影がそこにあるなんて、認めたくない。
認めたくないのに、最近は何をしていても、結局そこへ戻ってしまう。
同じ頃、ルシエ侯爵夫人の屋敷では、夫人たちが昼食後の軽い談笑をしていた。
話題は季節の催しから始まり、自然に王都の人の動きへ移っていく。
「辺境伯様も、ずいぶんはっきりなさいましたわね」
ある夫人が上品に言う。
「はっきり、というほどではありませんでしょう」
と別の夫人が微笑む。
「でも、商会との打ち合わせのついでに、わざわざ公爵邸へお立ち寄りになったのでしょう?」
「ええ。そして公爵令嬢様のほうも、ごく自然にお迎えしたとか」
「まあ」
その“まあ”には、いろいろな意味が含まれていた。
驚き。
納得。
そして少しの期待。
ルシエ侯爵夫人は、その空気を見てゆっくりとカップを置く。
「今の王都では、派手な恋より、静かな並びのほうが好まれるのでしょう」
誰もすぐには返さない。
だが、皆その言葉を理解していた。
真実の愛だと声高に叫ぶ者たちより、自然に隣へ立って、空気を乱さない者たちのほうが、今はずっと魅力的に見える。
そしてその差は、日ごとにはっきりしてきている。
夕方、ヴァレンティア公爵邸に戻ったエルミアは、ルシエ侯爵夫人から届いた短い伝言を受け取っていた。
“辺境伯様とのご様子、皆様たいへん自然だとお感じのようです”
本当に、この夫人たちは必要以上に率直だ。
エルミアはカードを見つめたまま、しばらく黙った。
自然。
またその言葉だ。
けれど、そのたびに少しずつ意味が深くなる気がする。
慈善晩餐会での会話も。
温室での時間も。
自分が笑う時、無理に整えなくてもそのままでいられることも。
どれも、確かに自然だった。
「お嬢様」
グラハムが夜の報告を携えて現れる。
「今日はどんな報告かしら」
「王太子宮は相変わらずでございます」
紙を受け取る。
北部修道院支援の打ち合わせでも、セオドールは具体の話で詰まりがちだったこと。ノエリアは礼法の練習を続けているが、空回り気味であること。そして、辺境伯の公爵邸訪問が、静かだが確実に“感じのよい話題”として広がっていること。
エルミアは一枚ずつ読み終え、最後の紙を閉じた。
「……向こうは重くなって、こちらは軽くなるのね」
「はい」
「同じ社交界の中にいるのに、不思議だわ」
グラハムは少しも不思議ではなさそうに答える。
「無理をして場を繕う者と、無理なく場に馴染む者の違いかと」
たしかにその通りだ。
王太子とノエリアの並びは、今の社交界では“少し息が詰まる”ものとして見られ始めている。
一方で、自分とカイゼルのあいだにあるのは、むしろ緊張をほどく種類の空気なのだろう。
その差は、思っていた以上に大きい。
「お嬢様」
グラハムが、珍しく少しだけやわらかな声で言う。
「何かお考えですか」
エルミアは白薔薇と、隣の小花を見た。
「ええ。少しだけ」
「どのような?」
少し迷ったが、隠すほどでもない気がした。
「……わたくし、あの方の隣にいる自分を、前より自然に思い描けるようになってきたの」
口にしてしまうと、思っていた以上に静かな事実として胸に落ちた。
グラハムは驚いたような顔もしない。
「左様でございますか」
「その返事、今日はやけに落ち着いているわね」
「いえ。かなり以前から、そうなるのではないかと」
「あなた、本当に全部見ているのね」
「仕事でございますので」
まったく、たちが悪い。
けれど、その落ち着いた返しのおかげで、気恥ずかしさは少しだけやわらいだ。
夜が更け、温室の灯りだけがやさしく花を照らす頃、エルミアはカイゼル宛ての返書を封じた。
会えて嬉しかったこと。
温室があたたかく感じられたこと。
また白薔薇の見頃のうちに来てほしいと思っていること。
そこまでは書かなかったけれど、その気持ちはたしかに文の隙間へ滲んでいる気がした。
広がる噂は、もう止まらないのだろう。
辺境伯と公爵令嬢。
自然な並び。
静かな隣。
そうした言葉が、誰かの口からまた誰かへ伝わっていく。
けれど今のエルミアは、それをただ恥ずかしく思うだけではなかった。
もし皆がそう感じているのだとしたら、それはたぶん、自分自身も同じように感じ始めているからなのだ。
辺境伯がヴァレンティア公爵邸を訪れた翌日、王都の空気はまたひとつ形を変えていた。
誰かが大声で言いふらしたわけではない。
新聞に載るわけでも、広場で噂になるわけでもない。
けれど、社交界というのはそういうものではないのだ。誰がどこへ立ち寄ったか。どの邸に、どれほど自然な顔で出入りしたか。そうしたことは、声高に語られなくとも、水に落ちた雫のように静かに広がっていく。
そして今、広がっているのは――。
「辺境伯様、本当に公爵邸へ?」
「ええ。商会との打ち合わせのついでと聞きましたけれど」
「ついで、で公爵邸へ立ち寄る方ではないでしょうに」
「まあ、それはそうですわね」
そんな会話が、夫人たちのあいだで上品に交わされる。
露骨ではない。
けれど、意味は十分だ。
ルヴァンシュ辺境伯が、エルミア・ヴァレンティアのもとを訪れた。
しかも、社交の大広間ではなく、彼女の邸へ。
その事実は、王都の目のよい者たちにとって、思っていた以上に大きな意味を持っていた。
ヴァレンティア公爵邸では、その日の朝も静かな時間が流れていた。
エルミアは温室の小卓で、昨夜書いた返書をもう一度読み返している。
本日はお立ち寄りくださり、ありがとうございました。
白薔薇も、見ていただけて嬉しかったです。
短いお時間でしたけれど、温室がいつもより少しだけあたたかく感じられました。
そこまで書いたあと、最後の一文をどうするか、まだ少し迷っていた。
またお会いできるのを楽しみにしております。
そう書いてしまいたい気持ちはあった。
けれど、それはまだ少しだけ正直すぎる気もする。
いや、もう十分に正直な文面なのかもしれないが。
「お嬢様」
温室の入口からマリアンヌが声をかけた。
「朝のお使いが戻りました」
「何かあったの?」
「伯爵夫人方のあいだで、昨日のご来訪が少し話題になっているようです」
エルミアは小さく息をついた。
やはりそうか、と思う。
隠せるはずもないとはわかっていた。むしろ隠そうとしていない。けれど、こうして“少し話題”と聞くと、やはり少しだけ頬が熱くなる。
「……どんなふうに?」
「皆様、ずいぶんと穏やかなご関心をお持ちだそうです」
その言い方に、エルミアはわずかに目を細めた。
「穏やかな、ね」
「はい。決して下世話な形ではなく、“あら、自然ですこと”という感じかと」
それを聞いて、胸のどこかが少しだけほどけた。
自然。
その言葉は最近よく聞く。
慈善晩餐会でも、席順でも、そして今も。
王太子の婚約者でいた頃には、どれだけ整えても“自然”とは少し違う緊張がつきまとっていた。けれどカイゼルとのあいだには、それがない。
だから、そう見えるのだろう。
「……変に騒がれていないなら、それでいいわ」
「左様でございます」
マリアンヌはそう言って、控えめに付け加えた。
「ただ、侯爵夫人の一人が“ようやく正しい並びを見た気がする”と」
エルミアは今度こそ完全に言葉を失った。
それはあまりに、あからさまだ。
けれど、否定もできない。
「お嬢様?」
「なんでもないわ……ちょっと、予想より直球だっただけ」
マリアンヌはそれ以上触れなかった。
さすがに、その辺りの機微はよくわかっているらしい。
一方、王太子宮では、その“穏やかな噂”が別の重さを持って届いていた。
セオドールは朝の執務机で、ひどく不機嫌そうに書類をめくっていた。
理由は明白だ。
辺境伯の王都入り。
ヴァレンティア公爵邸への立ち寄り。
そして、それが妙に好意的な空気で受け止められていること。
「……勝手なことを」
小さく吐き捨てる。
だがその言葉は、誰に向けたものなのか自分でも曖昧だった。
辺境伯に対してか。
噂を広げる夫人たちに対してか。
それとも、自分の手から離れたエルミアに対してか。
そこへ侍従長が、いつも以上に慎重な顔で進み出た。
「殿下、本日の午後、北部修道院支援に関する打ち合わせが」
「わかっている」
「先方は、ヴァレンティア公爵家も関与される前提で話を進めたい意向のようです」
セオドールの手が止まる。
「……またか」
何をするにも、最近はそこへ行き着く。
慈善。
後援。
社交。
贈答。
どこを見ても、ヴァレンティア公爵家とエルミアの名が出る。
しかも今は、それに辺境伯まで絡み始めている。
自分は王太子なのに。
なのに、まるで周囲の流れが自分を中心に回っていないように感じる。
その感覚が、どうしようもなく不愉快だった。
「殿下」
今度は別の声がした。
入ってきたのはノエリアだった。
以前より少しだけ控えめな装いだ。たぶん礼法教師に何か言われたのだろう。色も飾りも抑えられている。だが、その控えめさが彼女に“整い”を与えているかといえば、まだ微妙だった。
ぎこちなさのほうが先に見える。
それに気づいた瞬間、セオドールはまた胸の内に嫌なものを感じた。
比べたくないのに、比べてしまう。
「何だ」
短く問うと、ノエリアは一瞬だけ表情を曇らせたが、それでも言った。
「本日の午後、少しだけ礼法教師との確認を続けたいと……」
「好きにしろ」
返答はあまりに素っ気なかった。
ノエリアは唇をきゅっと結ぶ。
最近、彼のこういう言い方が増えた。
冷たく突き放すわけではない。だが、そこに“自分のことを見てくれている”感じが薄れている。返事はあるのに、心が向いていない。
それが何よりつらかった。
「殿下は……お忙しいのですね」
おそるおそるそう言うと、セオドールは書類から顔を上げずに答える。
「そうだ」
そこで会話は終わった。
ノエリアは立ち尽くしたまま、どうしていいかわからなくなる。
前なら、ここで何かもう一言あった。
無理をするな、とか。
終わったら顔を見せろ、とか。
そういう、ささやかな温度が。
今はそれがない。
そして、その失われた温度を誰のせいにしていいのかもわからない。
自分が足りないからなのか。
殿下が変わってしまったのか。
それとも――。
そこまで考えたところで、ノエリアは頭を振った。
考えたくなかった。
エルミアの影がそこにあるなんて、認めたくない。
認めたくないのに、最近は何をしていても、結局そこへ戻ってしまう。
同じ頃、ルシエ侯爵夫人の屋敷では、夫人たちが昼食後の軽い談笑をしていた。
話題は季節の催しから始まり、自然に王都の人の動きへ移っていく。
「辺境伯様も、ずいぶんはっきりなさいましたわね」
ある夫人が上品に言う。
「はっきり、というほどではありませんでしょう」
と別の夫人が微笑む。
「でも、商会との打ち合わせのついでに、わざわざ公爵邸へお立ち寄りになったのでしょう?」
「ええ。そして公爵令嬢様のほうも、ごく自然にお迎えしたとか」
「まあ」
その“まあ”には、いろいろな意味が含まれていた。
驚き。
納得。
そして少しの期待。
ルシエ侯爵夫人は、その空気を見てゆっくりとカップを置く。
「今の王都では、派手な恋より、静かな並びのほうが好まれるのでしょう」
誰もすぐには返さない。
だが、皆その言葉を理解していた。
真実の愛だと声高に叫ぶ者たちより、自然に隣へ立って、空気を乱さない者たちのほうが、今はずっと魅力的に見える。
そしてその差は、日ごとにはっきりしてきている。
夕方、ヴァレンティア公爵邸に戻ったエルミアは、ルシエ侯爵夫人から届いた短い伝言を受け取っていた。
“辺境伯様とのご様子、皆様たいへん自然だとお感じのようです”
本当に、この夫人たちは必要以上に率直だ。
エルミアはカードを見つめたまま、しばらく黙った。
自然。
またその言葉だ。
けれど、そのたびに少しずつ意味が深くなる気がする。
慈善晩餐会での会話も。
温室での時間も。
自分が笑う時、無理に整えなくてもそのままでいられることも。
どれも、確かに自然だった。
「お嬢様」
グラハムが夜の報告を携えて現れる。
「今日はどんな報告かしら」
「王太子宮は相変わらずでございます」
紙を受け取る。
北部修道院支援の打ち合わせでも、セオドールは具体の話で詰まりがちだったこと。ノエリアは礼法の練習を続けているが、空回り気味であること。そして、辺境伯の公爵邸訪問が、静かだが確実に“感じのよい話題”として広がっていること。
エルミアは一枚ずつ読み終え、最後の紙を閉じた。
「……向こうは重くなって、こちらは軽くなるのね」
「はい」
「同じ社交界の中にいるのに、不思議だわ」
グラハムは少しも不思議ではなさそうに答える。
「無理をして場を繕う者と、無理なく場に馴染む者の違いかと」
たしかにその通りだ。
王太子とノエリアの並びは、今の社交界では“少し息が詰まる”ものとして見られ始めている。
一方で、自分とカイゼルのあいだにあるのは、むしろ緊張をほどく種類の空気なのだろう。
その差は、思っていた以上に大きい。
「お嬢様」
グラハムが、珍しく少しだけやわらかな声で言う。
「何かお考えですか」
エルミアは白薔薇と、隣の小花を見た。
「ええ。少しだけ」
「どのような?」
少し迷ったが、隠すほどでもない気がした。
「……わたくし、あの方の隣にいる自分を、前より自然に思い描けるようになってきたの」
口にしてしまうと、思っていた以上に静かな事実として胸に落ちた。
グラハムは驚いたような顔もしない。
「左様でございますか」
「その返事、今日はやけに落ち着いているわね」
「いえ。かなり以前から、そうなるのではないかと」
「あなた、本当に全部見ているのね」
「仕事でございますので」
まったく、たちが悪い。
けれど、その落ち着いた返しのおかげで、気恥ずかしさは少しだけやわらいだ。
夜が更け、温室の灯りだけがやさしく花を照らす頃、エルミアはカイゼル宛ての返書を封じた。
会えて嬉しかったこと。
温室があたたかく感じられたこと。
また白薔薇の見頃のうちに来てほしいと思っていること。
そこまでは書かなかったけれど、その気持ちはたしかに文の隙間へ滲んでいる気がした。
広がる噂は、もう止まらないのだろう。
辺境伯と公爵令嬢。
自然な並び。
静かな隣。
そうした言葉が、誰かの口からまた誰かへ伝わっていく。
けれど今のエルミアは、それをただ恥ずかしく思うだけではなかった。
もし皆がそう感じているのだとしたら、それはたぶん、自分自身も同じように感じ始めているからなのだ。
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