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第十一話 署名の日
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第十一話 署名の日
王宮の執務室は、朝から異様な静けさに包まれていた。重厚な机の上に並べられた書類の束が、その理由を雄弁に物語っている。祝賀のために使われるはずの赤い絨毯は敷かれておらず、壁に掛けられた王家の紋章さえ、今日はどこか重く見えた。
エドワードは机の前に座り、無言で書類を見つめていた。そこに記された条文は、すでに何度も目を通したはずのものだ。それでも、視線は自然と同じ行をなぞってしまう。関税権の譲渡、鉱山収益の分配、金銭補償の額。どれもが、彼の想像していた「責任の取り方」をはるかに超えていた。
扉が静かに開き、王家の法務官が一礼して入室する。
「殿下。アルヴェルト公爵家の方々がお揃いです」
エドワードは短く息を吐いた。
「……通してくれ」
ほどなくして、カタリナと顧問弁護士ローレンス、記録官が入ってきた。彼女の表情は変わらない。昨日までと同じ、落ち着いた顔だ。勝者の余裕でも、敗者の諦念でもない。ただ、予定された手続きをこなす者の顔だった。
「本日は、清算書類への署名をお願いに参りました」
ローレンスが淡々と告げる。
「内容については、すでに双方で確認済みです。本日の作業は形式的なものとなります」
形式的。その言葉に、エドワードの胸が小さく痛んだ。自分の人生を左右する出来事が、形式的な作業として処理されていく。その現実が、何よりも重かった。
王家の法務官が、机の上にペンを置く。
「では、署名を」
一瞬、エドワードの手が止まった。ここで署名すれば、すべてが確定する。拒否権はないと理解していても、指先が僅かに震えた。
「……君は」
不意に、彼は顔を上げてカタリナを見た。
「本当に、これでいいのか」
問いは弱々しく、どこか縋るようだった。
カタリナは、少しだけ目を伏せ、それから静かに答えた。
「殿下。これは、良いか悪いかの問題ではございません」
彼女は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「契約が結ばれ、破られ、清算される。それだけのことです」
ローレンスが補足する。
「感情を挟めば判断を誤ります。今日行われるのは、王家と公爵家の関係を、法的に正しい形に戻す作業です」
エドワードは、唇を噛みしめた。彼はようやく理解し始めていた。自分が夜会で宣言した婚約破棄は、物語のクライマックスではなかった。ただの前触れに過ぎなかったのだ。
彼はペンを手に取る。
一枚目の書類に署名する。その音が、やけに大きく響いた。
二枚目、三枚目。ページをめくるたびに、王家の資産が、静かに削られていく。誰かが怒鳴ることも、止めに入ることもない。ただ、記録官が淡々と日付を書き込み、署名を確認する。
最後の書類に署名を終えたとき、エドワードは深く息を吐いた。
「……これで、終わりか」
カタリナは、静かに首を横に振る。
「いいえ。これで、ようやく始まりですわ」
その言葉に、彼は顔を上げる。
「王家は、これからこの条件で国を運営していくことになります。私たちは、すでに契約を終えましたが、殿下は結果と共に生きていかなければならない」
それは、責める口調ではなかった。むしろ、淡々とした事実確認だった。
ローレンスが書類をまとめる。
「以上をもって、婚約契約に関するすべての清算は完了しました」
王家の法務官は、静かに頭を下げた。
「……確かに、受け取りました」
その一言で、王家の資産は実質的に半減した。帳簿の上の数字が減っただけではない。王家が当然のように持っていた余裕と、選択肢そのものが削ぎ落とされたのだ。
カタリナは一礼し、踵を返す。
「本日は、これで失礼いたします」
彼女は振り返らなかった。執務室を出る足取りは軽くも重くもなく、ただ迷いがなかった。
扉が閉じたあと、エドワードはしばらく動けずにいた。机の上には、署名済みの書類と、使い終えたペンだけが残されている。
夜会で語った「真実の愛」は、ここにはなかった。代わりに残ったのは、契約を破った者が支払う現実の重みだけだった。
この日、王家は正式に理解した。
婚約破棄とは、物語の終わりではない。署名という形で記録された瞬間から始まる、長い現実の入口なのだと。
王宮の執務室は、朝から異様な静けさに包まれていた。重厚な机の上に並べられた書類の束が、その理由を雄弁に物語っている。祝賀のために使われるはずの赤い絨毯は敷かれておらず、壁に掛けられた王家の紋章さえ、今日はどこか重く見えた。
エドワードは机の前に座り、無言で書類を見つめていた。そこに記された条文は、すでに何度も目を通したはずのものだ。それでも、視線は自然と同じ行をなぞってしまう。関税権の譲渡、鉱山収益の分配、金銭補償の額。どれもが、彼の想像していた「責任の取り方」をはるかに超えていた。
扉が静かに開き、王家の法務官が一礼して入室する。
「殿下。アルヴェルト公爵家の方々がお揃いです」
エドワードは短く息を吐いた。
「……通してくれ」
ほどなくして、カタリナと顧問弁護士ローレンス、記録官が入ってきた。彼女の表情は変わらない。昨日までと同じ、落ち着いた顔だ。勝者の余裕でも、敗者の諦念でもない。ただ、予定された手続きをこなす者の顔だった。
「本日は、清算書類への署名をお願いに参りました」
ローレンスが淡々と告げる。
「内容については、すでに双方で確認済みです。本日の作業は形式的なものとなります」
形式的。その言葉に、エドワードの胸が小さく痛んだ。自分の人生を左右する出来事が、形式的な作業として処理されていく。その現実が、何よりも重かった。
王家の法務官が、机の上にペンを置く。
「では、署名を」
一瞬、エドワードの手が止まった。ここで署名すれば、すべてが確定する。拒否権はないと理解していても、指先が僅かに震えた。
「……君は」
不意に、彼は顔を上げてカタリナを見た。
「本当に、これでいいのか」
問いは弱々しく、どこか縋るようだった。
カタリナは、少しだけ目を伏せ、それから静かに答えた。
「殿下。これは、良いか悪いかの問題ではございません」
彼女は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「契約が結ばれ、破られ、清算される。それだけのことです」
ローレンスが補足する。
「感情を挟めば判断を誤ります。今日行われるのは、王家と公爵家の関係を、法的に正しい形に戻す作業です」
エドワードは、唇を噛みしめた。彼はようやく理解し始めていた。自分が夜会で宣言した婚約破棄は、物語のクライマックスではなかった。ただの前触れに過ぎなかったのだ。
彼はペンを手に取る。
一枚目の書類に署名する。その音が、やけに大きく響いた。
二枚目、三枚目。ページをめくるたびに、王家の資産が、静かに削られていく。誰かが怒鳴ることも、止めに入ることもない。ただ、記録官が淡々と日付を書き込み、署名を確認する。
最後の書類に署名を終えたとき、エドワードは深く息を吐いた。
「……これで、終わりか」
カタリナは、静かに首を横に振る。
「いいえ。これで、ようやく始まりですわ」
その言葉に、彼は顔を上げる。
「王家は、これからこの条件で国を運営していくことになります。私たちは、すでに契約を終えましたが、殿下は結果と共に生きていかなければならない」
それは、責める口調ではなかった。むしろ、淡々とした事実確認だった。
ローレンスが書類をまとめる。
「以上をもって、婚約契約に関するすべての清算は完了しました」
王家の法務官は、静かに頭を下げた。
「……確かに、受け取りました」
その一言で、王家の資産は実質的に半減した。帳簿の上の数字が減っただけではない。王家が当然のように持っていた余裕と、選択肢そのものが削ぎ落とされたのだ。
カタリナは一礼し、踵を返す。
「本日は、これで失礼いたします」
彼女は振り返らなかった。執務室を出る足取りは軽くも重くもなく、ただ迷いがなかった。
扉が閉じたあと、エドワードはしばらく動けずにいた。机の上には、署名済みの書類と、使い終えたペンだけが残されている。
夜会で語った「真実の愛」は、ここにはなかった。代わりに残ったのは、契約を破った者が支払う現実の重みだけだった。
この日、王家は正式に理解した。
婚約破棄とは、物語の終わりではない。署名という形で記録された瞬間から始まる、長い現実の入口なのだと。
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