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第三十二話 院長退任の噂
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第三十二話 院長退任の噂
その噂は、ひそやかに、しかし確実に広がっていった。
修道院の食堂で交わされる小声、回廊で立ち止まって交わされる視線、書庫で本を探すふりをしながらの沈黙。どれも決定的な言葉は含まれていないが、方向性だけは一致している。
――院長が、退くかもしれない。
カタリナが最初にその話を耳にしたのは、朝のサロンだった。
いつものように紅茶を用意していると、年配の修道女が一瞬だけ言葉を選び、控えめに切り出した。
「最近、院長様のお姿をお見かけする機会が減りまして」
「ご高齢ですものね」
カタリナは自然に応じる。
院長は長年この修道院を支えてきた人物で、政治的にも宗教的にも影響力を持っている。だが年齢は隠しようがなく、実務の多くはすでに側近に委ねられていた。
「ご体調が、というより……」
修道女はそこで言葉を切った。
続きが不要だと、互いに理解していた。
その日の午後、サロンにはいつもより人が集まっていた。
伯爵家の令嬢、未亡人となった侯爵夫人、修道院に寄進を続けている貴族の代理人。話題は表向きには芸術や書物だったが、会話の端々に、同じ影が差し pll
。
「最近、院長様の署名が減りましたわね」
「代理決裁が増えましたもの」
「次はどうなるのかしら」
誰も名を挙げない。
だが、沈黙が続くことで、逆に候補は絞られていく。
カタリナは、その流れを止めなかった。
否定も、肯定もせず、ただ話を聞く。
修道院の院長という役職は、宗教的地位であると同時に、現実的な意味を持つ。寄進の管理、土地の運用、王宮や貴族社会との調整。そのすべてが、国政と無縁ではない。
だからこそ、軽々しく名前を出すものではなかった。
夕刻、庭を歩いていると、院長本人が杖を頼りに現れた。
「おや、ここにいらしたのですか」
「ええ。少し風に当たろうと思いまして」
二人は並んで歩く。
院長は、しばらく黙ったまま、花壇を眺めていた。
「最近、皆がそわそわしていますね」
「そうでしょうか」
「ええ。長くこの場所にいれば、分かります」
そこで院長は、カタリナを見た。
「あなたは、気づいていますか」
「何を、でしょう」
「私が、いつまでここにいられるかを」
問いは穏やかだが、逃げ場はなかった。
カタリナは一拍置いて答える。
「皆、覚悟はしていると思いますわ」
「あなたも」
「……はい」
院長は、小さく笑った。
「率直ですね。嫌いではありません」
歩みを止め、静かに言葉を続ける。
「修道院は、変わる必要があります。昔のままでは、国と共に沈む」
「そう思います」
「では、変える者が必要です」
それ以上は語られなかった。
だが、その沈黙は十分だった。
その夜、カタリナは自室で一人、帳簿と書類を広げていた。
寄進の流れ、修道院が関与する土地、貴族との約束事。すでに多くの情報は彼女の手元に集まっている。
誰かが仕組んだわけではない。
ただ、必要なところに、自然と集まってきただけ。
院長退任の噂は、確定事項ではない。
だが、否定もされていない。
そして修道院の中では、誰もが同じことを感じ始めていた。
次に必要なのは、名前ではなく、役割を果たせる人物だということを。
その中心に、いつの間にかカタリナの存在があった。
彼女自身は、まだ何も宣言していない。
だが、修道院はすでに、次の時代の準備に入っていた。
その噂は、ひそやかに、しかし確実に広がっていった。
修道院の食堂で交わされる小声、回廊で立ち止まって交わされる視線、書庫で本を探すふりをしながらの沈黙。どれも決定的な言葉は含まれていないが、方向性だけは一致している。
――院長が、退くかもしれない。
カタリナが最初にその話を耳にしたのは、朝のサロンだった。
いつものように紅茶を用意していると、年配の修道女が一瞬だけ言葉を選び、控えめに切り出した。
「最近、院長様のお姿をお見かけする機会が減りまして」
「ご高齢ですものね」
カタリナは自然に応じる。
院長は長年この修道院を支えてきた人物で、政治的にも宗教的にも影響力を持っている。だが年齢は隠しようがなく、実務の多くはすでに側近に委ねられていた。
「ご体調が、というより……」
修道女はそこで言葉を切った。
続きが不要だと、互いに理解していた。
その日の午後、サロンにはいつもより人が集まっていた。
伯爵家の令嬢、未亡人となった侯爵夫人、修道院に寄進を続けている貴族の代理人。話題は表向きには芸術や書物だったが、会話の端々に、同じ影が差し pll
。
「最近、院長様の署名が減りましたわね」
「代理決裁が増えましたもの」
「次はどうなるのかしら」
誰も名を挙げない。
だが、沈黙が続くことで、逆に候補は絞られていく。
カタリナは、その流れを止めなかった。
否定も、肯定もせず、ただ話を聞く。
修道院の院長という役職は、宗教的地位であると同時に、現実的な意味を持つ。寄進の管理、土地の運用、王宮や貴族社会との調整。そのすべてが、国政と無縁ではない。
だからこそ、軽々しく名前を出すものではなかった。
夕刻、庭を歩いていると、院長本人が杖を頼りに現れた。
「おや、ここにいらしたのですか」
「ええ。少し風に当たろうと思いまして」
二人は並んで歩く。
院長は、しばらく黙ったまま、花壇を眺めていた。
「最近、皆がそわそわしていますね」
「そうでしょうか」
「ええ。長くこの場所にいれば、分かります」
そこで院長は、カタリナを見た。
「あなたは、気づいていますか」
「何を、でしょう」
「私が、いつまでここにいられるかを」
問いは穏やかだが、逃げ場はなかった。
カタリナは一拍置いて答える。
「皆、覚悟はしていると思いますわ」
「あなたも」
「……はい」
院長は、小さく笑った。
「率直ですね。嫌いではありません」
歩みを止め、静かに言葉を続ける。
「修道院は、変わる必要があります。昔のままでは、国と共に沈む」
「そう思います」
「では、変える者が必要です」
それ以上は語られなかった。
だが、その沈黙は十分だった。
その夜、カタリナは自室で一人、帳簿と書類を広げていた。
寄進の流れ、修道院が関与する土地、貴族との約束事。すでに多くの情報は彼女の手元に集まっている。
誰かが仕組んだわけではない。
ただ、必要なところに、自然と集まってきただけ。
院長退任の噂は、確定事項ではない。
だが、否定もされていない。
そして修道院の中では、誰もが同じことを感じ始めていた。
次に必要なのは、名前ではなく、役割を果たせる人物だということを。
その中心に、いつの間にかカタリナの存在があった。
彼女自身は、まだ何も宣言していない。
だが、修道院はすでに、次の時代の準備に入っていた。
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