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第一部
第2章
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第2章
---
「ふむ……どうにも成績が伸びん。やはり家庭教師を替えるか」
朝食後、クラウス様が何気なくこぼした一言が、わたくしの耳にしっかりと届きました。
リーデン家の執務室。
重厚な本棚に囲まれ、資料の山に埋もれるようにして机に向かうクラウス様は、ふと手元の書類から顔を上げる。
「旦那様、それなら――わたくしにお任せくださいませ!」
「……君が、子どもたちの勉強を?」
「ええ。わたくし、こう見えて王立大学を八歳で卒業しておりますの。教育には自信がありますわ!」
「ふむ……確かに、記録では首席卒業。しかも学士号を三つ同時に取得したと聞いた」
「まぁ、そんなところですわ」
ふふん、と鼻を鳴らすわたくしに、クラウス様は少しだけ唇をゆるめて――
「――では、任せてみよう。“ママ先生”」
「旦那様までその呼び方はやめてくださいまし!!」
---
こうして、急遽リーデン侯爵邸にて“家庭内教育改革”が始まったのでした。
まず最初の対象は、末娘ルティア様。
十五歳ながら、あまり勉強に関心がなく、家庭教師を付けても途中で居眠りしたり、お菓子ばかりつまんでいたりと、集中力が続かないタイプです。
「ふあぁ……また分数……わたし、分数きらい」
「嫌いでも、避けては通れませんのよ、ルティア様」
「むぅ……」
ルティア様は、頬をふくらませながらも、ちゃんと机に座っているだけえらいと思いますわ。
「では、まず四分の一というのは何か、実際にやってみましょう」
わたくしは事前に用意しておいた焼き菓子を取り出し、ひとつを四つに割って見せました。
「これを“1”としたとき、四つに割ると“4分の1”が四つできますわね」
「……なるほど? おやつで説明されると、ちょっとわかるかも」
「で・しょ・う?」
にっこり微笑むと、ルティア様は照れくさそうに笑い返しました。
(よし、これは……手応えありですわ!)
---
翌日、ルティア様が自らお兄様たちを勉強部屋に引っ張ってくるという事件が起こりました。
「お兄ちゃんたち! ママの授業、わかりやすいよ! 聞いたほうがいいって!」
「えぇー……勉強とか気乗りしねーな……」
そう言いつつも部屋に現れたのは、三男ユリウス様。
次女マリーベル様は最初から付き添うように隣に座り、冷静に様子を見守っていました。
「で、今日は何を教えてくれるんだ、“ママ先生”?」
「まずはその呼び方を改めてくださいまし!」
「いや、だって呼びやすいし」
「全く……いいでしょう。今日は“戦術史”について。前線指揮官の判断と撤退戦術の基礎について解説いたします」
「……あれ? ママ、軍事にも詳しいの?」
「理論と歴史が好きなのです。特に失敗から学ぶ戦術分野は面白いですわ」
「“ママのくせに”なんか……すごい……」
「“くせに”ってつけないでくださいまし!」
---
授業が進むにつれて、ユリウス様の表情がどんどん真剣になっていくのが分かりました。
難しいとされる戦術史も、わたくしの講義では身近な例や会話形式で進めていくので、理解が早いのです。
「……マジで分かりやすい……。これまでの先生、何だったんだ……」
「授業のあとには、確認テストを行います。満点でなければ、おやつはおあずけですわよ?」
「ひっ、スパルタ!?」
「母として当然の裁量ですわ」
---
さらに数日後、授業を聞いていたメイドの一人がぼそっと呟くのが聞こえました。
「……あの小さい奥様、やっぱり天才だわ……」
「“小さい”は余計ですわ!!」
---
子どもたちに“先生”として頼られ始めたわたくしは、ようやくほんの少し、“母”としての立場に立てた気がしました。
(これが――わたくしの、第一歩ですのね)
---
午後の陽射しが差し込むティールームで、ルティア様がクッションを抱えたままぽつりと呟いた。
「……なんか、最近勉強が楽しくなってきたかも」
「まあ! それは素敵なことですわね」
「ママの授業、わかりやすいんだよ。たとえばケーキで説明したり、クッキーで分数を教えてくれたり」
その話に耳をそばだてていたのか、隣室からひょいと顔を出したのは――ユリウス様。
「俺さ……マジで勉強嫌いだったんだよな。暗記ばっかでさ。だけど、お前の授業は、なんつーか……面白い」
「面白い、ですって?」
「いや、面白いってのは正直な感想。特にあの“戦術史の失敗例”。あんな風に解説されると、戦争の話も“人の選択”として見られるっていうか」
「それはとても良い視点ですわ。過去から学ぶのが、教育というものですもの」
「……先生って呼んでもいい?」
「えっ?」
不意に、胸の奥がふわっと温かくなった。
それは、“母”としてではなく、“教師”として向き合ったからこそもらえた、真正面からの敬意。
「もちろんですわ。ユリウス様がそう思ってくださるなら、わたくしは“ママ先生”でも“シオン先生”でもお好きなようにお呼びくださいな」
「……シオン、か。そっちの方が呼びやすいかも」
「だ、だめですわ! 呼び捨ては旦那様の前ではやめてくださいませ!」
その日の夕方。
勉強を終えたユリウス様とルティア様が、何やら内緒話をしながら、何度もこちらを振り返っては笑っていた。
「ねぇねぇ、ママ先生って、なんか“教育ママ”っぽくて良くない?」
「それな。俺、あれ気に入ってる。ママ先生」
「またその呼び方っ……! もう、勝手に呼んでくださいまし!」
「じゃ、決まりだね。今日からママ先生!」
「決めないでくださいまし!!」
夜、クラウス様と廊下でばったり会った。
「……子どもたちが、楽しそうだったな」
「そう、ですわね……。わたくしも、教えることがこんなに嬉しいなんて、思いもしませんでしたわ」
「君は、教師に向いている。堂々として、相手の理解を引き出す力がある」
「お褒めに預かり、光栄です」
静かな廊下に、クラウス様の足音と、わたくしの鼓動が重なる。
「……家の中が穏やかになった。子どもたちの顔も、柔らかくなった」
「……それは、クラウス様の育て方が良かったからですわ」
「違う。お前が来てからだよ」
その言葉に、顔がかぁっと熱くなる。
「だ、旦那様っ! そういうことは……前触れもなく言わないでくださいませっ!」
「すまん。だが本当のことだ」
「~~~~~っ!」
思わず背を向けて早足で逃げ出す。
けれどその背後から、低く温かい声が追いかけてきた。
「ありがとう、シオン」
――胸の奥が、きゅっと痛いように、でも嬉しく跳ねた。
「私は今日から、“お姉ちゃん”です!」
それは、朝のサロンで唐突に放たれた、末娘ルティア様の宣言だった。
わたくしは紅茶を口に運ぶ寸前だったカップをぴたりと止め、にこやかに微笑んだまま、問う。
「……失礼ですけれど、どういう意味かしら?」
「だって、見た目も年齢も、私のほうが上でしょ? ママっていうより妹って感じよ、シオン」
「シオンではありません。わたくしは、“リーデン侯爵夫人”としてこの家に嫁いできたれっきとした“母”ですわ!」
「でもねー、お父様が結婚したのが十二歳の少女って、世間的には“犯罪”って呼ばれるかもしれないわよ?」
「ルティア様! その言い方は誤解を招きますわっ!」
「だって、正直そう見えるんだもん」
「……“見た目”ではなく、“立場”が大事ですの!」
---
その場に居合わせたユリウス様がソファから身を乗り出してきた。
「いやぁ、でも確かに、シオンのほうが“妹”って感じは分かる」
「ユリウス様まで……!」
「じゃあ、“妹ママ”ってことでひとつ」
「新しいジャンルを作らないでくださいまし!」
こめかみに指を当てて、頭痛をこらえるように息をつく。
その姿を見て、マリーベル様がふっと微笑んだ。
「ふふっ。でも、子どもたちの前で全力で抗議できる“母”なんて、ある意味すごいわよ?」
「……褒めているのか、からかっているのか、わかりませんわ」
「どっちも、ね」
---
お昼前、書庫で資料をまとめていると、ルティア様がしれっと隣に座ってきた。
「ねぇ、ママ。お父様のこと、好き?」
「……いきなり何をお尋ねになるのですか?」
「いや、なんとなく。ママって、“仕事”としてこの家に来たのかなーって思ってさ」
「確かに政略結婚ですし、“家の意志”として参りました。けれど……」
わたくしは少しだけ言葉を整えながら、説明を加えた。
「そもそも貴族社会では、十歳以下で婚約するのはごく普通のことですわ。家柄や政治的立場によっては、十歳前後での結婚も珍しくありませんの。わたくしの場合も、それに従ったまでのことです」
「へぇ……理屈ではわかるけど、やっぱり違和感はあるよね」
「……わたくしも、最初は驚きましたわ。でもこの家に来て、皆様と過ごす中で、本当に“家族”になりたいと思っておりますの」
「ふぅん……」
ルティア様は、しばらくわたくしの顔をじっと見つめたまま、やがて口元を緩めた。
「じゃあまあ……“ママ”って呼んであげても、いいかも」
「……“あげても”? 随分上からですわね?」
「だって、お姉ちゃんだもん」
「だからそれは認めておりませんっ!」
---
その夜、夕食後の団らん中にルティア様がふと立ち上がり、みんなの前で宣言した。
「今日から私は、“妹”じゃなくて、“ママ”をお姉ちゃんと呼びます!」
「ちょっ、ルティア様!?」
「へぇ……“お姉ちゃん”ね」
マリーベル様が、ニヤリと笑う。
「じゃあ私は“シオンお姉様”って呼ぼうかな。なんか乙女ゲームっぽくて可愛いじゃない」
「……貴族の屋敷で繰り広げられる“お姉ちゃんごっこ”って、カオスすぎるだろ……」
ユリウス様は頭を抱え、クラウス様は苦笑を浮かべながら、
「好きにしなさい」
とだけ一言、許可を出した。
結果――
リーデン邸では、“ママ”“お姉ちゃん”“シオン先生”の三称号を使い分ける、奇妙な新制度が誕生してしまったのでした。
---
---
「ママ先生、今日の授業はどれ?」
朝食後、サロンに現れたユリウス様が、まるで“部活に参加するノリ”でそう尋ねてきました。
「ふふっ。今日は“古代魔法文明史”の初級編ですわ。遺跡と伝承を中心に、現代の魔法理論にどう繋がっているかを解説いたします」
「……やっぱママ、魔法オタクだよな」
「オタクとは失礼ですわね。“探究者”と呼んでいただきたいですわ」
「了解、探究ママ」
「また新たな呼称を作らないでくださいませ!」
---
ここ最近、リーデン家では“ママ先生の勉強会”が家族イベント化していた。
場所はサロンだったり、庭だったり、ルティア様の部屋だったりと、日によって変わる。
わたくしが持ってくるテーマも多岐にわたり、魔法理論、歴史、礼儀作法、さらには“お菓子作りの科学的なコツ”にまで及んだ。
「え、卵白の泡立ちって、道具の角度とか温度でも変わるの?」
「ええ、材料の温度と空気の含ませ方がポイントですわ。このケーキはそれを応用してふわふわに仕上げましたの」
「……ママ、もう何者だよ……!」
---
そんな授業(?)が好評だったのか、ある日ついに、あの人物が現れた。
長男レオン様である。
「……少しだけ、見せてもらうぞ」
「まあ! レオン様がご見学とは。今日は“戦略論”の授業ですわ」
そう言って、わたくしは事前に用意していた盤上のミニチュア軍を並べる。
「これは戦時における“地形選択”の重要性について解説するための教材ですわ。今回は実際の戦争記録を再現してみせますの」
「……軍務につく者として、参考にはなりそうだ」
レオン様は、黙ってわたくしの説明を聞いていたが、途中から質問も加えるようになり、やがてぽつりと呟いた。
「この再現、精度が高いな。……指揮官だったら助かる部下が一人でも増えるかもしれない」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、やり甲斐がありますわ」
---
その日の夜。
ルティア様がマリーベル様とお茶をしながら言っていた。
「なんか、最近ママがこの家の中心って感じがするよね」
「……確かに。最初は“ちっちゃい奥様”って思ってたけど、今は普通に尊敬してる」
「わたしも」
「わたしも~!」
後ろからひょこっと顔を出したユリウス様が加わって、三人そろってこっちを見てくる。
「な、何ですの、その視線は……」
「感謝と敬意のまなざし?」
「プレッシャーと重圧のまなざし?」
「いや、単純に“今日のおやつ”が気になるだけのまなざし!」
「やっぱり動機が不純ですわね!? いい加減にしなさいっ!」
---
そんな騒がしい毎日のなかで――わたくしは、少しずつ実感していた。
“家庭教師”としての役目が、家族の絆を育んでいること。
“母”という言葉に、ようやくほんの少しだけ、実感を持ち始めていること。
――そして。
(わたくし、リーデン家の“母”として、ちゃんと歩き出せている気がしますわ)
それは、誰かに言ってもらったわけじゃない。
けれど、子どもたちと交わす笑顔が、何よりも確かな“答え”をくれている。
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「ふむ……どうにも成績が伸びん。やはり家庭教師を替えるか」
朝食後、クラウス様が何気なくこぼした一言が、わたくしの耳にしっかりと届きました。
リーデン家の執務室。
重厚な本棚に囲まれ、資料の山に埋もれるようにして机に向かうクラウス様は、ふと手元の書類から顔を上げる。
「旦那様、それなら――わたくしにお任せくださいませ!」
「……君が、子どもたちの勉強を?」
「ええ。わたくし、こう見えて王立大学を八歳で卒業しておりますの。教育には自信がありますわ!」
「ふむ……確かに、記録では首席卒業。しかも学士号を三つ同時に取得したと聞いた」
「まぁ、そんなところですわ」
ふふん、と鼻を鳴らすわたくしに、クラウス様は少しだけ唇をゆるめて――
「――では、任せてみよう。“ママ先生”」
「旦那様までその呼び方はやめてくださいまし!!」
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こうして、急遽リーデン侯爵邸にて“家庭内教育改革”が始まったのでした。
まず最初の対象は、末娘ルティア様。
十五歳ながら、あまり勉強に関心がなく、家庭教師を付けても途中で居眠りしたり、お菓子ばかりつまんでいたりと、集中力が続かないタイプです。
「ふあぁ……また分数……わたし、分数きらい」
「嫌いでも、避けては通れませんのよ、ルティア様」
「むぅ……」
ルティア様は、頬をふくらませながらも、ちゃんと机に座っているだけえらいと思いますわ。
「では、まず四分の一というのは何か、実際にやってみましょう」
わたくしは事前に用意しておいた焼き菓子を取り出し、ひとつを四つに割って見せました。
「これを“1”としたとき、四つに割ると“4分の1”が四つできますわね」
「……なるほど? おやつで説明されると、ちょっとわかるかも」
「で・しょ・う?」
にっこり微笑むと、ルティア様は照れくさそうに笑い返しました。
(よし、これは……手応えありですわ!)
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翌日、ルティア様が自らお兄様たちを勉強部屋に引っ張ってくるという事件が起こりました。
「お兄ちゃんたち! ママの授業、わかりやすいよ! 聞いたほうがいいって!」
「えぇー……勉強とか気乗りしねーな……」
そう言いつつも部屋に現れたのは、三男ユリウス様。
次女マリーベル様は最初から付き添うように隣に座り、冷静に様子を見守っていました。
「で、今日は何を教えてくれるんだ、“ママ先生”?」
「まずはその呼び方を改めてくださいまし!」
「いや、だって呼びやすいし」
「全く……いいでしょう。今日は“戦術史”について。前線指揮官の判断と撤退戦術の基礎について解説いたします」
「……あれ? ママ、軍事にも詳しいの?」
「理論と歴史が好きなのです。特に失敗から学ぶ戦術分野は面白いですわ」
「“ママのくせに”なんか……すごい……」
「“くせに”ってつけないでくださいまし!」
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授業が進むにつれて、ユリウス様の表情がどんどん真剣になっていくのが分かりました。
難しいとされる戦術史も、わたくしの講義では身近な例や会話形式で進めていくので、理解が早いのです。
「……マジで分かりやすい……。これまでの先生、何だったんだ……」
「授業のあとには、確認テストを行います。満点でなければ、おやつはおあずけですわよ?」
「ひっ、スパルタ!?」
「母として当然の裁量ですわ」
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さらに数日後、授業を聞いていたメイドの一人がぼそっと呟くのが聞こえました。
「……あの小さい奥様、やっぱり天才だわ……」
「“小さい”は余計ですわ!!」
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子どもたちに“先生”として頼られ始めたわたくしは、ようやくほんの少し、“母”としての立場に立てた気がしました。
(これが――わたくしの、第一歩ですのね)
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午後の陽射しが差し込むティールームで、ルティア様がクッションを抱えたままぽつりと呟いた。
「……なんか、最近勉強が楽しくなってきたかも」
「まあ! それは素敵なことですわね」
「ママの授業、わかりやすいんだよ。たとえばケーキで説明したり、クッキーで分数を教えてくれたり」
その話に耳をそばだてていたのか、隣室からひょいと顔を出したのは――ユリウス様。
「俺さ……マジで勉強嫌いだったんだよな。暗記ばっかでさ。だけど、お前の授業は、なんつーか……面白い」
「面白い、ですって?」
「いや、面白いってのは正直な感想。特にあの“戦術史の失敗例”。あんな風に解説されると、戦争の話も“人の選択”として見られるっていうか」
「それはとても良い視点ですわ。過去から学ぶのが、教育というものですもの」
「……先生って呼んでもいい?」
「えっ?」
不意に、胸の奥がふわっと温かくなった。
それは、“母”としてではなく、“教師”として向き合ったからこそもらえた、真正面からの敬意。
「もちろんですわ。ユリウス様がそう思ってくださるなら、わたくしは“ママ先生”でも“シオン先生”でもお好きなようにお呼びくださいな」
「……シオン、か。そっちの方が呼びやすいかも」
「だ、だめですわ! 呼び捨ては旦那様の前ではやめてくださいませ!」
その日の夕方。
勉強を終えたユリウス様とルティア様が、何やら内緒話をしながら、何度もこちらを振り返っては笑っていた。
「ねぇねぇ、ママ先生って、なんか“教育ママ”っぽくて良くない?」
「それな。俺、あれ気に入ってる。ママ先生」
「またその呼び方っ……! もう、勝手に呼んでくださいまし!」
「じゃ、決まりだね。今日からママ先生!」
「決めないでくださいまし!!」
夜、クラウス様と廊下でばったり会った。
「……子どもたちが、楽しそうだったな」
「そう、ですわね……。わたくしも、教えることがこんなに嬉しいなんて、思いもしませんでしたわ」
「君は、教師に向いている。堂々として、相手の理解を引き出す力がある」
「お褒めに預かり、光栄です」
静かな廊下に、クラウス様の足音と、わたくしの鼓動が重なる。
「……家の中が穏やかになった。子どもたちの顔も、柔らかくなった」
「……それは、クラウス様の育て方が良かったからですわ」
「違う。お前が来てからだよ」
その言葉に、顔がかぁっと熱くなる。
「だ、旦那様っ! そういうことは……前触れもなく言わないでくださいませっ!」
「すまん。だが本当のことだ」
「~~~~~っ!」
思わず背を向けて早足で逃げ出す。
けれどその背後から、低く温かい声が追いかけてきた。
「ありがとう、シオン」
――胸の奥が、きゅっと痛いように、でも嬉しく跳ねた。
「私は今日から、“お姉ちゃん”です!」
それは、朝のサロンで唐突に放たれた、末娘ルティア様の宣言だった。
わたくしは紅茶を口に運ぶ寸前だったカップをぴたりと止め、にこやかに微笑んだまま、問う。
「……失礼ですけれど、どういう意味かしら?」
「だって、見た目も年齢も、私のほうが上でしょ? ママっていうより妹って感じよ、シオン」
「シオンではありません。わたくしは、“リーデン侯爵夫人”としてこの家に嫁いできたれっきとした“母”ですわ!」
「でもねー、お父様が結婚したのが十二歳の少女って、世間的には“犯罪”って呼ばれるかもしれないわよ?」
「ルティア様! その言い方は誤解を招きますわっ!」
「だって、正直そう見えるんだもん」
「……“見た目”ではなく、“立場”が大事ですの!」
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その場に居合わせたユリウス様がソファから身を乗り出してきた。
「いやぁ、でも確かに、シオンのほうが“妹”って感じは分かる」
「ユリウス様まで……!」
「じゃあ、“妹ママ”ってことでひとつ」
「新しいジャンルを作らないでくださいまし!」
こめかみに指を当てて、頭痛をこらえるように息をつく。
その姿を見て、マリーベル様がふっと微笑んだ。
「ふふっ。でも、子どもたちの前で全力で抗議できる“母”なんて、ある意味すごいわよ?」
「……褒めているのか、からかっているのか、わかりませんわ」
「どっちも、ね」
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お昼前、書庫で資料をまとめていると、ルティア様がしれっと隣に座ってきた。
「ねぇ、ママ。お父様のこと、好き?」
「……いきなり何をお尋ねになるのですか?」
「いや、なんとなく。ママって、“仕事”としてこの家に来たのかなーって思ってさ」
「確かに政略結婚ですし、“家の意志”として参りました。けれど……」
わたくしは少しだけ言葉を整えながら、説明を加えた。
「そもそも貴族社会では、十歳以下で婚約するのはごく普通のことですわ。家柄や政治的立場によっては、十歳前後での結婚も珍しくありませんの。わたくしの場合も、それに従ったまでのことです」
「へぇ……理屈ではわかるけど、やっぱり違和感はあるよね」
「……わたくしも、最初は驚きましたわ。でもこの家に来て、皆様と過ごす中で、本当に“家族”になりたいと思っておりますの」
「ふぅん……」
ルティア様は、しばらくわたくしの顔をじっと見つめたまま、やがて口元を緩めた。
「じゃあまあ……“ママ”って呼んであげても、いいかも」
「……“あげても”? 随分上からですわね?」
「だって、お姉ちゃんだもん」
「だからそれは認めておりませんっ!」
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その夜、夕食後の団らん中にルティア様がふと立ち上がり、みんなの前で宣言した。
「今日から私は、“妹”じゃなくて、“ママ”をお姉ちゃんと呼びます!」
「ちょっ、ルティア様!?」
「へぇ……“お姉ちゃん”ね」
マリーベル様が、ニヤリと笑う。
「じゃあ私は“シオンお姉様”って呼ぼうかな。なんか乙女ゲームっぽくて可愛いじゃない」
「……貴族の屋敷で繰り広げられる“お姉ちゃんごっこ”って、カオスすぎるだろ……」
ユリウス様は頭を抱え、クラウス様は苦笑を浮かべながら、
「好きにしなさい」
とだけ一言、許可を出した。
結果――
リーデン邸では、“ママ”“お姉ちゃん”“シオン先生”の三称号を使い分ける、奇妙な新制度が誕生してしまったのでした。
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「ママ先生、今日の授業はどれ?」
朝食後、サロンに現れたユリウス様が、まるで“部活に参加するノリ”でそう尋ねてきました。
「ふふっ。今日は“古代魔法文明史”の初級編ですわ。遺跡と伝承を中心に、現代の魔法理論にどう繋がっているかを解説いたします」
「……やっぱママ、魔法オタクだよな」
「オタクとは失礼ですわね。“探究者”と呼んでいただきたいですわ」
「了解、探究ママ」
「また新たな呼称を作らないでくださいませ!」
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ここ最近、リーデン家では“ママ先生の勉強会”が家族イベント化していた。
場所はサロンだったり、庭だったり、ルティア様の部屋だったりと、日によって変わる。
わたくしが持ってくるテーマも多岐にわたり、魔法理論、歴史、礼儀作法、さらには“お菓子作りの科学的なコツ”にまで及んだ。
「え、卵白の泡立ちって、道具の角度とか温度でも変わるの?」
「ええ、材料の温度と空気の含ませ方がポイントですわ。このケーキはそれを応用してふわふわに仕上げましたの」
「……ママ、もう何者だよ……!」
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そんな授業(?)が好評だったのか、ある日ついに、あの人物が現れた。
長男レオン様である。
「……少しだけ、見せてもらうぞ」
「まあ! レオン様がご見学とは。今日は“戦略論”の授業ですわ」
そう言って、わたくしは事前に用意していた盤上のミニチュア軍を並べる。
「これは戦時における“地形選択”の重要性について解説するための教材ですわ。今回は実際の戦争記録を再現してみせますの」
「……軍務につく者として、参考にはなりそうだ」
レオン様は、黙ってわたくしの説明を聞いていたが、途中から質問も加えるようになり、やがてぽつりと呟いた。
「この再現、精度が高いな。……指揮官だったら助かる部下が一人でも増えるかもしれない」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、やり甲斐がありますわ」
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その日の夜。
ルティア様がマリーベル様とお茶をしながら言っていた。
「なんか、最近ママがこの家の中心って感じがするよね」
「……確かに。最初は“ちっちゃい奥様”って思ってたけど、今は普通に尊敬してる」
「わたしも」
「わたしも~!」
後ろからひょこっと顔を出したユリウス様が加わって、三人そろってこっちを見てくる。
「な、何ですの、その視線は……」
「感謝と敬意のまなざし?」
「プレッシャーと重圧のまなざし?」
「いや、単純に“今日のおやつ”が気になるだけのまなざし!」
「やっぱり動機が不純ですわね!? いい加減にしなさいっ!」
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そんな騒がしい毎日のなかで――わたくしは、少しずつ実感していた。
“家庭教師”としての役目が、家族の絆を育んでいること。
“母”という言葉に、ようやくほんの少しだけ、実感を持ち始めていること。
――そして。
(わたくし、リーデン家の“母”として、ちゃんと歩き出せている気がしますわ)
それは、誰かに言ってもらったわけじゃない。
けれど、子どもたちと交わす笑顔が、何よりも確かな“答え”をくれている。
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