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第八話 誰も知らない契約書
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第八話 誰も知らない契約書
王都再開発区画の現場は、いつになく静まり返っていた。
本来ならば、石材を削る音や鉄を打つ槌の響きが絶えないはずの場所だ。だがその朝、作業は一部で止まり、職人たちは腕を組んで様子を窺っている。
「石材の追加搬入が遅れている」
「港で止まっているらしい」
「保証の問題だとか……」
彼らは事情を正確に知らない。ただ、資材が来なければ仕事ができない。それだけだ。
王都の中心から少し離れたこの区画は、王国の未来を象徴する計画だった。新しい商業施設、広場、街路整備。国の威信をかけた事業。
その資金繰りを、私は三年間、影で支えてきた。
ヴァルモンド侯爵家の書斎で、私は分厚い革表紙の契約書を開く。
王都再開発区画・第二期資金保証契約。
ページの最下段に、小さく記された一文。
《追加保証人:セレスティア・ヴァルモンド》
王家の名だけでは不十分だった。
当時、国債利回りは不安定で、国外の投資家は慎重だった。再開発計画に必要な資金を引き出すためには、もう一段階の信用補完が必要だった。
そこで私の名を入れた。
侯爵家の資産を担保とする、裏保証。
それがあるからこそ、低利での借入が可能だった。
だが今。
その前提は消えた。
私は契約書を閉じる。
机の上には、王宮から届いた正式通知がある。
《保証人解除、承認済み》
冷たい文字。
当然の手続きだ。
だが、その意味を完全に理解している者は、王宮に何人いるだろう。
ノック。
「お嬢様、再開発区画の監督官が参っております」
私は頷く。
入ってきたのは、現場責任者のグレゴールだった。筋骨たくましい男だが、その顔には明らかな焦りが浮かんでいる。
「突然の訪問、失礼します」
「構いません。お掛けになって」
彼は椅子に腰を下ろすなり、切り出した。
「資金の流れが滞っています」
「具体的には」
「第二期分の融資実行が遅延。追加保証の確認が取れないと、銀行が動かないと」
私は静かに頷く。
「保証人が外れましたので」
彼の目が見開かれる。
「やはり……」
「王宮から代替保証の提示はございましたか」
「まだです」
彼は拳を握る。
「このままでは、三日以内に工事の一部を停止せざるを得ません」
三日。
数字としては短い。
だが、象徴としては十分だ。
私は机上の紙に目を落とす。
再開発計画の資金構造。
王国債四割、商会出資三割、銀行融資三割。
その融資の条件が、私の裏保証を前提に組まれていた。
保証が消えれば、金利は上がる。
金利が上がれば、予算は不足する。
「監督官」
私は顔を上げる。
「わたくし個人として、再び保証人に戻ることはできません」
「承知しています」
彼は苦々しく頷く。
「ですが、どうか王宮へ……」
「王宮の決断です」
淡々と告げる。
感情で動く問題ではない。
グレゴールはしばらく沈黙し、やがて立ち上がった。
「……分かりました。王宮の対応を待ちます」
彼が去った後、私は深く息を吐く。
これは私が望んだ展開ではない。
だが、契約は契約だ。
前提が崩れれば、条件は変わる。
夕刻、王宮で緊急会議が再び開かれたという報せが届く。
新任財務顧問は、銀行との再交渉を進めているらしい。
保証料の上乗せと引き換えに、融資条件を維持する案。
合理的だ。
だが、コストは増える。
増えた分は、どこかで削られる。
労働者の賃金か、計画規模か、将来予算か。
数字は必ず均衡を求める。
私は窓の外を見る。
夕陽が王都を赤く染めている。
あの光の下で、職人たちは今日も工具を片付け、帰路につくだろう。
彼らは知らない。
自分たちの仕事が、一枚の契約書の一文に左右されていることを。
私は再び契約書を手に取る。
自分の署名を指でなぞる。
あのとき、王国を支えるために書いた名。
今は、ただの過去の印。
胸の奥に、わずかな痛みが走る。
王太子殿下は、この契約の存在を知っていただろうか。
おそらく、知らない。
知らなくても、婚約破棄はできる。
だが、知らなければ、責任も理解できない。
夜。
再開発区画の一部停止が正式に発表された。
小さな記事。
だが、明確な事実。
王都の歯車が、ひとつ止まった。
それはまだ、致命傷ではない。
だが、確実な変化。
私は灯りを落とす前に、最後に帳簿へ目を落とした。
保証解除。
融資遅延。
工事停止。
因果は、静かに繋がっている。
誰も知らなかった契約書。
だがその一文が、王国の未来を揺らし始めていた。
王都再開発区画の現場は、いつになく静まり返っていた。
本来ならば、石材を削る音や鉄を打つ槌の響きが絶えないはずの場所だ。だがその朝、作業は一部で止まり、職人たちは腕を組んで様子を窺っている。
「石材の追加搬入が遅れている」
「港で止まっているらしい」
「保証の問題だとか……」
彼らは事情を正確に知らない。ただ、資材が来なければ仕事ができない。それだけだ。
王都の中心から少し離れたこの区画は、王国の未来を象徴する計画だった。新しい商業施設、広場、街路整備。国の威信をかけた事業。
その資金繰りを、私は三年間、影で支えてきた。
ヴァルモンド侯爵家の書斎で、私は分厚い革表紙の契約書を開く。
王都再開発区画・第二期資金保証契約。
ページの最下段に、小さく記された一文。
《追加保証人:セレスティア・ヴァルモンド》
王家の名だけでは不十分だった。
当時、国債利回りは不安定で、国外の投資家は慎重だった。再開発計画に必要な資金を引き出すためには、もう一段階の信用補完が必要だった。
そこで私の名を入れた。
侯爵家の資産を担保とする、裏保証。
それがあるからこそ、低利での借入が可能だった。
だが今。
その前提は消えた。
私は契約書を閉じる。
机の上には、王宮から届いた正式通知がある。
《保証人解除、承認済み》
冷たい文字。
当然の手続きだ。
だが、その意味を完全に理解している者は、王宮に何人いるだろう。
ノック。
「お嬢様、再開発区画の監督官が参っております」
私は頷く。
入ってきたのは、現場責任者のグレゴールだった。筋骨たくましい男だが、その顔には明らかな焦りが浮かんでいる。
「突然の訪問、失礼します」
「構いません。お掛けになって」
彼は椅子に腰を下ろすなり、切り出した。
「資金の流れが滞っています」
「具体的には」
「第二期分の融資実行が遅延。追加保証の確認が取れないと、銀行が動かないと」
私は静かに頷く。
「保証人が外れましたので」
彼の目が見開かれる。
「やはり……」
「王宮から代替保証の提示はございましたか」
「まだです」
彼は拳を握る。
「このままでは、三日以内に工事の一部を停止せざるを得ません」
三日。
数字としては短い。
だが、象徴としては十分だ。
私は机上の紙に目を落とす。
再開発計画の資金構造。
王国債四割、商会出資三割、銀行融資三割。
その融資の条件が、私の裏保証を前提に組まれていた。
保証が消えれば、金利は上がる。
金利が上がれば、予算は不足する。
「監督官」
私は顔を上げる。
「わたくし個人として、再び保証人に戻ることはできません」
「承知しています」
彼は苦々しく頷く。
「ですが、どうか王宮へ……」
「王宮の決断です」
淡々と告げる。
感情で動く問題ではない。
グレゴールはしばらく沈黙し、やがて立ち上がった。
「……分かりました。王宮の対応を待ちます」
彼が去った後、私は深く息を吐く。
これは私が望んだ展開ではない。
だが、契約は契約だ。
前提が崩れれば、条件は変わる。
夕刻、王宮で緊急会議が再び開かれたという報せが届く。
新任財務顧問は、銀行との再交渉を進めているらしい。
保証料の上乗せと引き換えに、融資条件を維持する案。
合理的だ。
だが、コストは増える。
増えた分は、どこかで削られる。
労働者の賃金か、計画規模か、将来予算か。
数字は必ず均衡を求める。
私は窓の外を見る。
夕陽が王都を赤く染めている。
あの光の下で、職人たちは今日も工具を片付け、帰路につくだろう。
彼らは知らない。
自分たちの仕事が、一枚の契約書の一文に左右されていることを。
私は再び契約書を手に取る。
自分の署名を指でなぞる。
あのとき、王国を支えるために書いた名。
今は、ただの過去の印。
胸の奥に、わずかな痛みが走る。
王太子殿下は、この契約の存在を知っていただろうか。
おそらく、知らない。
知らなくても、婚約破棄はできる。
だが、知らなければ、責任も理解できない。
夜。
再開発区画の一部停止が正式に発表された。
小さな記事。
だが、明確な事実。
王都の歯車が、ひとつ止まった。
それはまだ、致命傷ではない。
だが、確実な変化。
私は灯りを落とす前に、最後に帳簿へ目を落とした。
保証解除。
融資遅延。
工事停止。
因果は、静かに繋がっている。
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だがその一文が、王国の未来を揺らし始めていた。
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