『婚約破棄された令嬢ですが、気づけば王国の基準になっていました』

ふわふわ

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第十話 物価の影

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第十話 物価の影

 王都の朝は、いつもより少しだけ重かった。

 市場に並ぶ野菜の値札が、昨日よりわずかに書き換えられている。パン屋の前には、普段より長い列ができていた。

「昨日より二銅貨高いじゃないか」

「仕入れが上がってるんだよ。港が不安定だと聞いたぞ」

「王宮は何をしているんだ」

 声は荒れてはいない。怒号でもない。

 ただ、戸惑いと苛立ちが滲んでいる。

 それはまだ小さな影。

 だが、影は確実に伸びている。

 ヴァルモンド侯爵家の書斎で、私は最新の物価指数報告を受け取った。

 小麦価格、前月比三・八%上昇。

 建材価格、二・五%上昇。

 輸入香辛料、四%上昇。

「……想定通り」

 私は静かに呟く。

 交易保証料の引き上げと港湾使用料の増加が、そのまま反映されている。

 税制改正が拍車をかける形だ。

 机の上に広げた計算表に、新たな数字を書き加える。

 このまま推移すれば、三ヶ月後には庶民の生活費が一割近く増える。

 暴動には至らない。

 だが、支持率は下がる。

 王太子の“愛の決断”は、生活の現実の前で色褪せる。

 ノックの音がした。

「お嬢様、ローデン商会のエリアス様がお見えです」

「お通しして」

 入ってきたエリアスの表情は、前回よりも硬い。

「状況はご存じかと」

「ええ」

 彼は席に着くと、低い声で言った。

「港湾使用料の引き上げが、想定以上に影響しています。商会としては、航路の一部を隣国へ切り替える案を検討せざるを得ません」

「合理的ですわ」

 私は淡々と返す。

「王都は依然として大市場ですが、利幅が縮めば他国へ向かうのは自然な流れです」

 彼はじっと私を見る。

「……王宮から、復帰の打診は?」

「ございません」

「もしあれば」

「条件次第です」

 エリアスは小さく笑う。

「商人のような答えですね」

「数字に従うだけですわ」

 彼は立ち上がる前に、ぽつりと漏らした。

「王都は、あなたを軽く見ていた」

 私は何も答えなかった。

 軽視というより、見えていなかったのだ。

 影にいる者は、評価されにくい。

 夕刻、父が戻る。

「パン価格の上昇で、王都南区で小競り合いがあった」

「負傷者は」

「軽傷のみ」

 私はほっと息を吐く。

「まだ制御可能です」

「だが、民衆の不満は溜まる」

「ええ」

 税制改正は、象徴としては強い。

 だが、効果は遅く、痛みは即時。

 王宮は今、数字と世論の板挟みにある。

 夜、王都中心部の灯りがいつもより暗く見えた。

 気のせいかもしれない。

 だが、空気は確かに重い。

 私は帳簿を開き、ヴァルモンド家の資産構成を再度確認する。

 王国債の一部売却は正解だった。

 交易商会株の比率も微調整済み。

 守りは固い。

 けれど。

 胸の奥に、わずかな痛みがある。

 これは私の勝利ではない。

 私はただ、前提が崩れたことを予測していたに過ぎない。

 王太子殿下は、今何を考えているのだろう。

 愛を選び、強い決断を示し、税を上げ、動いた。

 だが、物価は上がり続けている。

 数字は静かに積み重なる。

 小さな上昇が重なり、やがて生活を圧迫する。

 物価の影は、目には見えにくい。

 だが確実に広がる。

 私は窓を閉め、静かに灯りを落とす。

 王国はまだ崩れていない。

 だが、足元の地面は、少しずつ柔らかくなっている。

 その沈み込みに気づく者が、どれだけいるのか。

 夜の静寂の中で、私はひとり、次の数字を待っていた。
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