「侯爵令嬢はお気に入りの書架で王太子を攻略中」

ふわふわ

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第3章 3-1 夜の書庫と、人ならざる気配

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第3章 3-1 夜の書庫と、人ならざる気配

 その夜、フィレーナはどうしても眠れなかった。

 胸の奥に残る、あの気配。
 書庫で見つけた“古王国史”の本が放っていた微かな光。
 そして、廊下で感じた背後の視線。

(……考えすぎなのかしら。でも……)

 ベッドの上で膝を抱え、月明かりの射す窓を見つめる。
 王城での生活に慣れてきた矢先に、“正体の知れない影”を感じてしまった。

 眠りにつくには、心が落ち着かなかった。

 時間はすでに深夜近く。
 王城の廊下は、灯りの魔石がほのかに揺れ、静寂が濃く漂う。

 フィレーナはそっとベッドから降り、薄手のショールを羽織った。

(……少しだけ、書庫に行ってみましょう。落ち着くかもしれないわ)

 王城内の主要な部屋は深夜でも施錠されることは少ない。
 図書室も例外ではない。
 ただし、深夜の出入りは推奨されないため、使用人に見つかれば注意されることだろう。

 しかし、今はどうしても――本に触れたくなった。

 ***

 廊下は昼間とはまるで違う表情を見せていた。

 薄闇。
 静けさ。
 階段の影が長く伸び、城そのものが眠っているようだった。

(……わたくし、深夜の城内を歩くのは初めてですわね)

 心臓が早鐘を打つ。
 けれど、その恐怖よりも“本の気配”に呼び寄せられる感覚が強かった。

 やがて、図書室へ続く廊下に差し掛かった時――
 ふっと、冷たい風が吹き抜けた。

「え……?」

 廊下の窓はすべて閉じられている。
 風が吹くはずはない。

 しかし、確かに自分の頬をなでた“冷気”があった。

(……また、あの気配)

 喉がひりつくほど緊張した瞬間――

「誰か……いるの?」

 かすかに声を出してみた。
 返事はない。

(気のせい……?)

 そう思い込んで歩き出した――その時。

 ――コツン。

 靴の先に、硬いものが当たった。

「……え?」

 足元を見ると、小さな金属片が落ちていた。
 指先で拾い上げると、それは“黒い金具”だった。

 紋章は削れ、焦げた匂いがする。

(これは……書架の固定具……?)

 図書室の古い棚に使われているものと似ている。

(どうして、こんな廊下に……)

 胸にざわり、と不安が広がった。

 早く図書室へ行こう――
 フィレーナは金具をショールのポケットに入れ、歩みを早めた。

 ***

 図書室の扉の前まで来ると、薄く光が漏れていた。

(……灯り? こんな時間に?)

 誰かが残っているのだろうか。
 あるいは、魔石の光が消え忘れたのか。

 フィレーナはそっと耳を寄せた。

 ――しゅう、しゅぅぅ……

 微かな、息のような音。

(人……?)

 不安と好奇心が入り混じる。

「し、失礼します……」

 小さな声で呟き、扉をゆっくり開けた。

 ――瞬間。

 背筋に冷たいものが走る。

 図書室の奥で、淡い光が揺れていた。
 まるで、人影のような形に見える。

(な、なに……?)

 フィレーナはその場に釘付けになった。

 光は書架の一つの前で揺れ、
 そして――ゆっくりと棚に触れる“ように”動いた。

「あの……!」

 勇気を振り絞って声をかけた。

 光は突然、ぴたりと動きを止めた。
 次の瞬間――

 ――ひゅうっ!!

 鋭い風が吹きつけ、フィレーナの髪が舞い上がる。
 図書室の魔石灯が一斉に明滅し、影が踊る。

「きゃっ!」

 思わず身を抱えたその時――

「フィレーナ!」

 名前を呼ぶ声に振り返ると、図書室の入口にリュシアンが立っていた。
 深紅の外套を翻し、強い魔力をまとっている。

「下がれ!」

 リュシアンの声が響いた瞬間、
 金色の光がフィレーナを包み込んだ。

 同時に、揺れていた影の光は一瞬でかき消えた。

 魔石灯も静かに光を取り戻す。

 まるで“何もなかった”かのように。

「殿下……今のは……」

「大丈夫か? どこも怪我は?」

 リュシアンはフィレーナの肩をつかみ、必死に確かめるように見つめた。

「わ、わたくしは大丈夫です……。ですが……今のは……」

「……君が感じた通りだ。
 あれは“人ならざるものの気配”だ」

 フィレーナは息を呑む。

「王城内に……何かがいるのですか?」

「普通は感じることができない。
 だが……記録魔術師の血を引く者は、“書に宿る魔の痕跡”を感じることがある」

「書に……宿る魔?」

 殿下は深く頷いた。

「古い書物には、時に“影”が宿ることがある。
 それは魔術の残滓であり、怨念のようなものだ。
 王城でも完全に浄化できぬ本がいくつか存在している」

 フィレーナの背には冷たい汗が流れた。

「わ、わたくし……そんなものに近づいて……」

「だから言ったのだ、奥へ立ち入るなと」

 リュシアンの声には、怒りではなく――強い心配が滲んでいた。

 彼はそっとフィレーナの肩を抱き寄せる。

「怖かっただろう。……よく無事でいてくれた」

(……殿下……)

 心が緩み、張り詰めていた恐怖が涙となって滲む。

 リュシアンはフィレーナを離し、真剣な瞳で言った。

「もう夜の書庫には近づくな。
 君は書の魔に“好かれやすい”」

「好かれ……やすい?」

「君の血が、呼び寄せてしまうのだ。
 そしてそれは……君が本来持つ“力”が、目覚め始めているという証拠でもある」

 胸がざわりと震える。

(わたくしの力が……覚醒……?)

 殿下は続けた。

「――だが安心しろ。
 君がどれほどの力を持っていようと、私は必ず守る」

 その言葉は、冷たくなっていた指先の奥まで響いていった。

(……この方のそばなら、きっと大丈夫)

 そう思えるほど、リュシアンの瞳は強く、優しかった。

 フィレーナは震える手を胸に当て、小さく頷いた。

「殿下……ありがとうございます。
 もう二度と……勝手に書庫へ来たりしませんわ」

「そうしてくれ。
 ……君の身に何かあれば、私は――」

 言葉を途切れさせ、殿下はフィレーナの髪をそっと撫でた。

「……夜は危険だ。部屋まで送ろう」

 フィレーナは深く礼をし、殿下のあとについて歩き出す。

 図書室の扉が閉まる直前――
 棚の奥で、かすかに“黒い影”が揺れたのが見えた。

(……やっぱり、何かがいる)

 その“影”は、フィレーナの存在を確かに見つめていた。

 不吉な予兆を抱えつつ、夜の王城に足音が響いていった。


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