18 / 40
第18話 名前で呼ぶ理由
しおりを挟む
第18話 名前で呼ぶ理由
その変化は、あまりにも些細なことから始まった。
「ノルディス様、こちらの確認を――」
執務室で書類を受け取った瞬間、私はわずかに眉をひそめた。
「……ヴァレリアで構いません」
伝えた相手は一瞬、言葉を失い、慌てて頭を下げた。
「し、失礼しました。ヴァレリア様」
そのやり取りを、少し離れた場所でクラウスが見ていた。
会議が終わり、人が引いた後、彼は静かに口を開く。
「急だな」
「線を引いただけです」
私は資料を整えながら答えた。
「役割が変わった以上、距離も整理しないと、判断に歪みが出ます」
「距離を、縮める方向でか?」
「適切な位置に、です」
言葉は冷静だった。
だが、その意味は軽くない。
“名前で呼ぶ”という行為は、
親しみだけを意味しない。
それは、対等な立場を認めるという宣言でもある。
「公爵は、どうされますか」
私は視線を上げ、彼を見た。
「これからも、ノルディスで?」
クラウスは、わずかに考える素振りを見せた後、答える。
「……ヴァレリア」
一拍の間。
だが、その一言は、確かに空気を変えた。
不思議なことに、胸の奥が静かに揺れる。
甘さではない。
むしろ、覚悟に近い感覚だ。
「理由を、聞いても?」
私が問うと、彼は視線を逸らさずに答えた。
「名で呼ぶ相手は、責任を共有する者だ」
それ以上の説明はなかった。
だが、十分すぎる。
午後、共同名義の決裁が続いた。
署名欄に並ぶ二つの名前。
クラウス・アイゼンベルク
ヴァレリア・ノルディス
その並びを見て、ふと気づく。
これは、信頼の証であると同時に、
“逃げられない関係”でもある。
夜、城内の小さな書庫で、私は資料を探していた。
「ここにいたか」
背後から声がする。
「公爵――いえ、クラウス」
呼び直すと、彼は小さく息を吐いた。
「慣れが必要だな」
「お互いに」
静かな書庫。
本の匂いと、微かな灯り。
「ヴァレリア」
再び名を呼ばれる。
「今日の判断、正しかった」
評価とも、確認ともつかない言葉。
「結果は、これから出ます」
「それでも、だ」
彼は続ける。
「迷いがなかった。
それが、組織を安定させる」
私は一瞬、言葉を探した。
「……王都では、迷わないことが“冷たい”と言われました」
「ここでは、違う」
即答だった。
「迷わないのは、責任を引き受ける覚悟があるからだ」
胸の奥で、何かがほどける。
冷たい令嬢。
その言葉に、私は長く縛られていた。
だが今、
その“冷たさ”は、
別の名前で呼ばれている。
――信頼。
「名前で呼ぶ理由が、分かりました」
私がそう言うと、クラウスはわずかに首を傾げる。
「聞こう」
「距離を縮めるためではありません」
私は静かに続けた。
「同じ重さを、背負っていると確認するためです」
一瞬の沈黙。
「……同意する」
短い言葉。
だが、その響きは深い。
書庫を出ると、回廊には夜の静けさが広がっていた。
名前で呼ぶ。
それは、感情の告白ではない。
だが――
責任と信頼を結び直す、
最も確かな方法だった。
そして私は、理解している。
この距離の変化は、
もう後戻りできない地点を、
静かに越えたということを。
その変化は、あまりにも些細なことから始まった。
「ノルディス様、こちらの確認を――」
執務室で書類を受け取った瞬間、私はわずかに眉をひそめた。
「……ヴァレリアで構いません」
伝えた相手は一瞬、言葉を失い、慌てて頭を下げた。
「し、失礼しました。ヴァレリア様」
そのやり取りを、少し離れた場所でクラウスが見ていた。
会議が終わり、人が引いた後、彼は静かに口を開く。
「急だな」
「線を引いただけです」
私は資料を整えながら答えた。
「役割が変わった以上、距離も整理しないと、判断に歪みが出ます」
「距離を、縮める方向でか?」
「適切な位置に、です」
言葉は冷静だった。
だが、その意味は軽くない。
“名前で呼ぶ”という行為は、
親しみだけを意味しない。
それは、対等な立場を認めるという宣言でもある。
「公爵は、どうされますか」
私は視線を上げ、彼を見た。
「これからも、ノルディスで?」
クラウスは、わずかに考える素振りを見せた後、答える。
「……ヴァレリア」
一拍の間。
だが、その一言は、確かに空気を変えた。
不思議なことに、胸の奥が静かに揺れる。
甘さではない。
むしろ、覚悟に近い感覚だ。
「理由を、聞いても?」
私が問うと、彼は視線を逸らさずに答えた。
「名で呼ぶ相手は、責任を共有する者だ」
それ以上の説明はなかった。
だが、十分すぎる。
午後、共同名義の決裁が続いた。
署名欄に並ぶ二つの名前。
クラウス・アイゼンベルク
ヴァレリア・ノルディス
その並びを見て、ふと気づく。
これは、信頼の証であると同時に、
“逃げられない関係”でもある。
夜、城内の小さな書庫で、私は資料を探していた。
「ここにいたか」
背後から声がする。
「公爵――いえ、クラウス」
呼び直すと、彼は小さく息を吐いた。
「慣れが必要だな」
「お互いに」
静かな書庫。
本の匂いと、微かな灯り。
「ヴァレリア」
再び名を呼ばれる。
「今日の判断、正しかった」
評価とも、確認ともつかない言葉。
「結果は、これから出ます」
「それでも、だ」
彼は続ける。
「迷いがなかった。
それが、組織を安定させる」
私は一瞬、言葉を探した。
「……王都では、迷わないことが“冷たい”と言われました」
「ここでは、違う」
即答だった。
「迷わないのは、責任を引き受ける覚悟があるからだ」
胸の奥で、何かがほどける。
冷たい令嬢。
その言葉に、私は長く縛られていた。
だが今、
その“冷たさ”は、
別の名前で呼ばれている。
――信頼。
「名前で呼ぶ理由が、分かりました」
私がそう言うと、クラウスはわずかに首を傾げる。
「聞こう」
「距離を縮めるためではありません」
私は静かに続けた。
「同じ重さを、背負っていると確認するためです」
一瞬の沈黙。
「……同意する」
短い言葉。
だが、その響きは深い。
書庫を出ると、回廊には夜の静けさが広がっていた。
名前で呼ぶ。
それは、感情の告白ではない。
だが――
責任と信頼を結び直す、
最も確かな方法だった。
そして私は、理解している。
この距離の変化は、
もう後戻りできない地点を、
静かに越えたということを。
0
あなたにおすすめの小説
私に価値がないと言ったこと、後悔しませんね?
みこと。
恋愛
鉛色の髪と目を持つクローディアは"鉱石姫"と呼ばれ、婚約者ランバートからおざなりに扱われていた。
「俺には"宝石姫"であるタバサのほうが相応しい」そう言ってランバートは、新年祭のパートナーに、クローディアではなくタバサを伴う。
(あんなヤツ、こっちから婚約破棄してやりたいのに!)
現代日本にはなかった身分差のせいで、伯爵令嬢クローディアは、侯爵家のランバートに逆らえない。
そう、クローディアは転生者だった。現代知識で鉱石を扱い、カイロはじめ防寒具をドレス下に仕込む彼女は、冷えに苦しむ他国の王女リアナを助けるが──。
なんとリアナ王女の正体は、王子リアンで?
この出会いが、クローディアに新しい道を拓く!
※小説家になろう様でも「私に価値がないと言ったこと、後悔しませんね? 〜不実な婚約者を見限って。冷え性令嬢は、熱愛を希望します」というタイトルで掲載しています。
死に戻りの元王妃なので婚約破棄して穏やかな生活を――って、なぜか帝国の第二王子に求愛されています!?
神崎 ルナ
恋愛
アレクシアはこの一国の王妃である。だが伴侶であるはずの王には執務を全て押し付けられ、王妃としてのパーティ参加もほとんど側妃のオリビアに任されていた。
(私って一体何なの)
朝から食事を摂っていないアレクシアが厨房へ向かおうとした昼下がり、その日の内に起きた革命に巻き込まれ、『王政を傾けた怠け者の王妃』として処刑されてしまう。
そして――
「ここにいたのか」
目の前には記憶より若い伴侶の姿。
(……もしかして巻き戻った?)
今度こそ間違えません!! 私は王妃にはなりませんからっ!!
だが二度目の生では不可思議なことばかりが起きる。
学生時代に戻ったが、そこにはまだ会うはずのないオリビアが生徒として在籍していた。
そして居るはずのない人物がもう一人。
……帝国の第二王子殿下?
彼とは外交で数回顔を会わせたくらいなのになぜか親し気に話しかけて来る。
一体何が起こっているの!?
『めでたしめでたし』の、その後で
ゆきな
恋愛
シャロン・ブーケ伯爵令嬢は社交界デビューの際、ブレント王子に見初められた。
手にキスをされ、一晩中彼とダンスを楽しんだシャロンは、すっかり有頂天だった。
まるで、おとぎ話のお姫様になったような気分だったのである。
しかし、踊り疲れた彼女がブレント王子に導かれるままにやって来たのは、彼の寝室だった。
ブレント王子はお気に入りの娘を見つけるとベッドに誘い込み、飽きたら多額の持参金をもたせて、適当な男の元へと嫁がせることを繰り返していたのだ。
そんなこととは知らなかったシャロンは恐怖のあまり固まってしまったものの、なんとか彼の手を振り切って逃げ帰ってくる。
しかし彼女を迎えた継母と異母妹の態度は冷たかった。
継母はブレント王子の悪癖を知りつつ、持参金目当てにシャロンを王子の元へと送り出していたのである。
それなのに何故逃げ帰ってきたのかと、継母はシャロンを責めた上、役立たずと罵って、その日から彼女を使用人同然にこき使うようになった。
シャロンはそんな苦境の中でも挫けることなく、耐えていた。
そんなある日、ようやくシャロンを愛してくれる青年、スタンリー・クーパー伯爵と出会う。
彼女はスタンリーを心の支えに、辛い毎日を懸命に生きたが、異母妹はシャロンの幸せを許さなかった。
彼女は、どうにかして2人の仲を引き裂こうと企んでいた。
2人の間の障害はそればかりではなかった。
なんとブレント王子は、いまだにシャロンを諦めていなかったのだ。
彼女の身も心も手に入れたい欲求にかられたブレント王子は、彼女を力づくで自分のものにしようと企んでいたのである。
宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました
悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。
クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。
婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。
そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。
そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯
王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。
シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯
捨てられた公爵令嬢は氷の宰相に愛されすぎて困っています 〜婚約破棄の果てに見つけた真実の愛〜
nacat
恋愛
婚約者の王太子に「平民上がりの令嬢が」と断罪された公爵令嬢・リリアーナ。
居並ぶ貴族の前で婚約破棄を告げられ、家を追放された彼女の前に現れたのは、氷の宰相と恐れられる冷徹な美貌の青年、アラン・グレイス。
無表情で冷たいと噂された彼が見せたのは、誰も知らないほど深い優しさと狂おしいほどの独占欲だった。
最果ての領地で始まる、ざまぁと溺愛の逆転劇。
そして、王国を揺るがす陰謀の真実が明らかになるとき、二人の愛はすべてを変える――。
捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来
鍛高譚
恋愛
「君とは釣り合わない。だから、僕は王女殿下を選ぶ」
婚約者アルバート・ロンズデールに冷たく告げられた瞬間、エミリア・ウィンスレットの人生は暗転した。
王都一の名門公爵令嬢として慎ましくも誠実に彼を支えてきたというのに、待っていたのは無慈悲な婚約破棄――しかも相手は王女クラリッサ。
アルバートと王女の華やかな婚約発表の裏で、エミリアは社交界から冷遇され、"捨てられた哀れな令嬢"と嘲笑される日々が始まる。
だが、彼女は決して屈しない。
「ならば、貴方たちが後悔するような未来を作るわ」
そう決意したエミリアは、ある人物から手を差し伸べられる。
――それは、冷静沈着にして王国の正統な後継者、皇太子アレクシス・フォルベルト。
彼は告げる。「私と共に来い。……君の聡明さと誇りが、この国には必要だ」
気付けば名も知らぬ悪役令嬢に憑依して、見知らぬヒロインに手をあげていました
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
私が憑依した身体の持ちは不幸のどん底に置かれた悪役令嬢でした
ある日、妹の部屋で見つけた不思議な指輪。その指輪をはめた途端、私は見知らぬ少女の前に立っていた。目の前には赤く腫れた頬で涙ぐみ、こちらをじっと見つめる可憐な美少女。そして何故か右手の平が痛む私。もしかして・・今私、この少女を引っ叩いたの?!そして何故か頭の中で響き渡る謎の声の人物と心と体を共存することになってしまう。憑依した身体の持ち主はいじめられっ娘の上に悪役令嬢のポジションに置かれている。見るに見かねた私は彼女を幸せにする為、そして自分の快適な生活を手に入れる為に自ら身体を張って奮闘する事にした―。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています。
[完結]7回も人生やってたら無双になるって
紅月
恋愛
「またですか」
アリッサは望まないのに7回目の人生の巻き戻りにため息を吐いた。
驚く事に今までの人生で身に付けた技術、知識はそのままだから有能だけど、いつ巻き戻るか分からないから結婚とかはすっかり諦めていた。
だけど今回は違う。
強力な仲間が居る。
アリッサは今度こそ自分の人生をまっとうしようと前を向く事にした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる