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第1章 追放令嬢と十二歳の継母
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アルテリア公爵家は王都からやや離れた郊外に、広大な庭園と白亜の城館を構えていた。その門をくぐると、まるで一幅の絵のように手入れの行き届いた薔薇の花壇と噴水が目を引く。さらにその奥には、古の建築様式を取り入れた格調高い邸宅が佇んでいる。この屋敷は、長らくアルテリア公爵家の繁栄と権威の象徴だった。
しかし、そこに生まれ育った私は、今やここでの居場所を大きく揺るがされていた。
私――ジョゼフィーヌ・アルテリアは二十二歳。アルテリア公爵家の第一令嬢として生まれ、幼い頃から“品行方正に”と厳しく育てられてきた。それでも、かつては穏やかな母の笑顔とともに、それなりに安らぎを感じることもできていた。
それが変わったのは、母が病に倒れ、逝去したあの日。公爵――つまり私の父は、母を失った悲しみからなのか、心ここにあらずといった様子で日々を送っていた。そしてその数か月後、私を含む周囲の誰もが予想だにしなかった人物を、新たな妻として迎え入れる。
名をメリンダという。驚くべきことに、彼女はまだ十二歳という年端もいかぬ少女だった。王立学院に通う学生のようなあどけない顔立ち。だが、そんな外見とは裏腹に、彼女はわがままで自己中心的という噂を耳にしていた。
実際、メリンダは当家にやってきた初日から“好き勝手”を始め、父もあれよあれよという間に振り回されてしまったのだ。いま思えば、父自身、母を亡くして完全に心の支えを失っていたのだろう。そこをメリンダに取り入られた、というのが正しい見方かもしれない。
私は母の死から立ち直りきれていない父を責めることなどできず、ただ見守るしかなかった。ただし、メリンダがどれだけ傍若無人に振る舞おうと、「年端のいかない子供だから」と多めに見るように言われてきたのも事実。
だが、そんな甘い扱いは、次第にこの屋敷全体を彼女の思うがままに変えていく。
薔薇の花壇はメリンダが「虫がいや」と言い出せば引き抜かれ、代わりに彼女好みの派手な花が植えられた。食事も好き嫌いが激しく、毎日のように使用人が新しい料理を用意しなければ気が済まない。どれほど浪費になろうとも、公爵は「メリンダの好みに合わせるのだ」と言って聞かない。
さらには、私が慈善活動の一環で開いていた近隣の子供たちへの読み聞かせ会や、使用人への勉強会を「くだらない時間の無駄」と断じ、私に中止を通達してくる。もちろん、それはこの屋敷を仕切る公爵夫人としての“命令”だった。
私はこれまで当主である父の指示に従ってきたし、その背後で糸を引くのがメリンダだということもわかっていた。けれど、どうあっても父はメリンダの言うことに従い、私の意見は聞き入れられない。結果的に、私がこの家で担ってきた役割も、次第に奪われていくように感じられた。
――そして、決定的な出来事が起きる。
ある日の午前中、私は書斎で手紙の整理をしていた。祖母が遺した蔵書や資料などを管理することも、もはや私にしかできない重要な仕事だった。といっても、公的には公爵夫人であるメリンダが管轄すべきことなのだが、彼女はまったく興味を示さない。むしろ書類仕事を「読みづらくてやっていられないわ」と投げ出す始末で、結局は私が代わりにやっていた。
そんなとき、書斎の扉を勢いよく開け放って入ってきたのは、メリンダその人だった。いつもなら執事を呼んで私を呼び出すのに、やけに珍しい。
ツインテールに結った淡い茶髪を揺らしながら、彼女はルビーのような瞳を吊り上げ、怒りを込めた様子で私を睨みつけた。
「ジョゼフィーヌ! あなた、勝手に私の部屋に入ったわね?」
私はペンを持ったまま、首を傾げた。
「いいえ。そんなことはしていませんよ、メリンダ……いえ、母様」
いまだに「母様」と呼ぶことには抵抗があるが、正式な夫人となった以上、公の場ではそう呼ばねばならないのが筋だ。
しかし、メリンダはその呼び方さえ気に入らないのか、「気持ち悪いわね」と吐き捨てるような視線を向けてくる。
「うそよ。私の部屋に飾っていた花瓶の花がなくなってたの。きっとあなたが何かしたんでしょ? あれ、私のお気に入りだったのに!」
「花が、ですか。そういえば、今朝、メイドのイザベルが部屋の掃除に向かっていました。傷んだ花を取り替えたのかもしれません。あなたは昨日から部屋を使わずに別の部屋にいたと聞きましたが……」
「だからって、勝手に触られるなんて許せない! そもそも、私の部屋にあったものなのよ? どうしてあなたに指図されなきゃいけないの!」
まるで道理の通らない幼子のように怒るメリンダに、私はやんわりと言葉を継ぐ。
「私が直接命じたわけではありません。イザベルの判断でしょう。花を定期的に取り替えるのは当家の習わしでもあります」
「……習わし、ね。私が気に入ってるんだから、そのままにしておけばいいでしょうが!」
メリンダは怒鳴った後、涙を浮かべながら大げさに足を踏み鳴らす。いや、正直なところ、本当に泣いているのかただ怒りを演出しているのか、私には判断がつかない。
そこへ、ちょうど部屋の外を通りかかった父――アルテリア公爵が、慌てた足取りでやってきた。公爵は私たちを見るや否や、まるで子供をあやすような柔和な声を向ける。
「メリンダ、どうしたんだい? そんなに声を荒らげて……」
「だって! ジョゼフィーヌが私の部屋に勝手に入ったんですもの! お気に入りの花も捨てられていたし……それなのに彼女は知らばっくれて!」
父は私を見ると困ったように眉を下げ、「本当なのか?」と問いかける。
「いいえ、私は入っていませんし、花を捨てたのも私ではありません。メイドのイザベルが部屋の掃除と花の取り替えをしたのでしょう。決して悪意があったわけではないはずです」
「そうなのか……」
父は渋い顔をする。メリンダは瞳を潤ませながら、
「あなたの娘は、私に恥をかかせたのよ? どうにか言ってあげてよ!」
と言わんばかりに父の胸元にしがみつく。十二歳とはいえ、その態度は演技臭く、そしてどこか小悪魔的でもあった。
「わかったわかった。ジョゼフィーヌ、言いつけもなく部屋に入るのは配慮が足りなかったな。たとえメイドが勝手にしたことでも、おまえがしっかり管理しないと」
そうやって、私に全責任を押し付ける形で、父はメリンダをなだめる。
「申し訳ありません」
私は苦い思いを押し殺し、頭を下げた。公爵令嬢として、理不尽な相手にも礼儀を失わず、波風を立てないこと。これが私が幼い頃から叩き込まれてきた“公爵家の令嬢たるものの心得”だった。
だが、その胸中には悔しさとやりきれない思いが渦巻いていた。
――どうして父は、私の言葉を信じてくれないのだろう。
私のことなど、もう眼中にないのだろうか。
メリンダが公爵夫人になって以来、父との会話も激減した。ただでさえ母を失った悲しみを共有する時間がなかったというのに、メリンダが来てからはなおさら私は蚊帳の外である。いつの間にか、使用人からも「公爵のご機嫌はメリンダ様次第」などと囁かれ、私もあまり口出しできなくなった。
そんな日々が続く中、決定打となる知らせがもたらされたのは、それからほどなくしてのことだった。
ある朝、私は例のごとく書斎で書類を確認していた。アルテリア公爵領には、領内の経営、農作物の輸送、交易ギルドとの契約書など、膨大な書類がある。これらの管理や更新は本来、公爵かその補佐役が行うべきなのだが、父はメリンダの相手に忙しく、取り合ってはくれない。いや、公爵として表向きの場には顔を出すが、その背後でこまごまと発生する作業は私が担っているのが実情だった。
とはいえ私は、公爵家の令嬢として当然の責務だと思っていたし、仕事自体にやりがいを感じてもいた。母が生きている頃は、彼女と一緒にこれらの文書に目を通し、改善策を講じたこともある。だから、現在のような父の変化には、戸惑いと悲しさが募るばかりだった。
そのとき、執事のクラレンスが部屋へと入ってきて、低い声で言う。
「ジョゼフィーヌ様、公爵が呼んでおられます。今すぐ大広間へ」
「父が? わかりました。すぐに向かいます」
執事は無表情のまま一礼して去った。その横顔はどこか張り詰めているようにも見える。大広間へ向かう途中、胸の奥で不吉な予感がした。私を呼び出すなんて、ここしばらくなかったことだからだ。メリンダが機嫌を悪くしたときなどは、たいてい父が書斎へ来るか、使いをよこすだけで済ませる。大広間で正式に呼びつけられるというのは、一体何事なのだろう。
大広間の扉を開けると、そこには父とメリンダが並んで座っていた。真紅の絨毯が敷かれた床をゆっくりと歩きながら、私はおそるおそるふたりの姿を見つめる。
父は豪華な紋章入りの椅子に腰掛け、深く息を吐きながら私に目を向けた。メリンダはいつもと変わらず、鼻でせせら笑うように私を見ている。
「父上、いかがなさいましたか」
私は礼をとってそう尋ねる。すると父は少し視線を逸らして、まるで言いづらそうに口を開く。
「……ジョゼフィーヌ、おまえに話がある。大事な話だ」
嫌な沈黙が走る。メリンダがくすっと小さく笑った。その笑みは、あからさまな勝利宣言のようにも見える。
「実はな……隣国のガレラスタ王国の王子、フォルテ殿下との縁談が正式に決まった。おまえは殿下の婚約者として隣国へ向かうのだ」
一瞬、頭が真っ白になる。
「……婚約、ですか。私が……?」
目を瞬かせながら父を見つめるが、彼の表情はどこか落ち着きを欠いていた。まるで自分で決めたことではない、と言いたげな曖昧さ。
一方、メリンダは私の反応をおもしろがるかのように、にたりと口元を歪めている。
「おめでとう、ジョゼフィーヌ。これであんたもお姫様になれるかもしれないわね」
「メリンダ……」
思わず彼女の名を呼びかける。まるで私を家から追い出したいかのように、これまで何度も嫌がらせをしてきた。これがその最終手段なのだろうか。だが、普通なら歓迎すべき婚約話を、どうして私はこんなにも恐ろしく感じるのだろう。
父が言葉を継ぐ。
「フォルテ殿下はガレラスタ王国の第二王子で、知性と品格を兼ね備えたご立派なお方だそうだ。もし縁談がうまくまとまれば、我が国とガレラスタとの関係も飛躍的によくなる……。これはな、王からも強く勧められていることなのだよ」
「王……ガレリア陛下が?」
私の胸はさらにざわつく。
我が国とガレラスタ王国は近年、領土問題で激しく揉めていた。小競り合いのような争いが何度も起き、国境付近の村々に被害が出ているとも聞く。王同士の話し合いこそあるが、抜本的な解決策は見つかっていない。そんな中、両国を結ぶ政治的手段としての政略結婚は、決して珍しくはないだろう。
ただ、なぜ私なのか。公爵家といえど、わざわざフォルテ王子が望むほどの価値が私にあるとは思えなかった。
――もしかして、これは私を“人質”として差し出すのではないだろうか。
そんな思考が脳裏をかすめる。私の母国――エルシオン王国のガレリア王が、ガレラスタ王国との交渉材料として私を送り込む。それならば、ガレラスタ王国側も何らかの形で譲歩を見せざるを得ないかもしれない。
私の顔に動揺の色が浮かんでいたのか、メリンダが自慢げに鼻を鳴らす。
「ふふん、驚いた? 隣国の王子様との婚約が決まるなんて、普通なら嬉しくて小躍りするところじゃない?」
「…………」
笑みも言葉も出ない。私はただ父を見つめた。
「父上、それは私の意志は関係ないのですか……? 私にも気持ちというものがあります。いきなり隣国の王子との婚約を告げられても、どう受け止めればいいのか……」
父は浮かない顔でひとつ息を吐く。
「王の決断とあらば、公爵家の娘として拒否はできまい。おまえには重責を担ってもらうことになるが、これも国や領民のためだ。……頼むよ、ジョゼフィーヌ」
言外に、「おまえが断る選択肢などない」と告げられたも同然だった。
――私はその一言を聞いて、悟った。
ここで抵抗をしても無意味だ。否、もはや私には何も期待されていないのかもしれない。父が見ているのはもう、私ではなく幼い継母メリンダと、そして自分自身の立場だけだ。
それでも、私は公爵家の令嬢として育てられたプライドがある。母を失っても、家柄に恥じぬよう、これまで家の仕事を支え続けてきた。ならば、今さら弱音を吐くより、与えられた立場で最善を尽くすしかないのだろうか。
父やメリンダを見返したい気持ちもあるが、それよりも何よりも、私はただ無力感を抱いていた。
「……承知しました。婚約のお話、引き受けます」
私がそう告げると、メリンダは面白そうにくつくつと笑う。
「まあ、最初から断るなんてできっこないけど。あはは、これでやっとこの屋敷も静かになるわね。あんたが消えてくれれば、私も気楽に暮らせるもの」
その無邪気とも邪悪ともつかない笑みを見て、私は胸中で苛立ちを覚えたが、言い返すことはなかった。ただ呆然と立ち尽くしていると、父が椅子から立ち上がり、そっと私の肩に手を置く。
「すまないな、ジョゼフィーヌ……。しかし、これはおまえにとっても良い縁談だと思う。フォルテ殿下は誠実なお方だそうだ。おまえならば、きっと立派に隣国で務めを果たせるだろう」
その言葉に、私は小さくうなずくだけだった。頭の中では、“国や家のため”という言葉が渦を巻く。これまで父や周囲に教え込まれた「公爵家の令嬢である以上、己を犠牲にしてでも国に尽くすべし」という教え。それを守れば、いつか褒めてもらえる。いつか認められると信じていた。
だがいま、その信念はぐらついている。私の犠牲は、誰かの利益となるのだろうか。それとも、結局は父や王にとって都合のいい“駒”でしかないのか――。
話はそこで一旦終わり、私は自室に戻った。しばらくして侍女のアンナが私の部屋を訪れる。
「お嬢様、大丈夫ですか……? こんな急なお話、私もびっくりしました」
彼女は幼少のころから私に仕えてくれた侍女だ。母が亡くなったときも傍らで支えてくれた心強い味方。私は小さく笑みを返した。
「ありがとう、アンナ。驚いたけれど、仕方ないわ。これが私の道なのだとしたら、受け入れるしかない……」
「ですが……お嬢様は本当にそれでいいんですか?」
アンナは悲しそうに眉を寄せる。私は自分が抱えた複雑な気持ちを打ち明けたくなったが、それを言ってしまえば取り乱してしまいそうだったから、ぐっと堪えた。
「ううん。正直、まだ自分でもわからない。でも、公爵家の娘として生まれた以上、あまり自分の意思を通すことは許されないわ。今までもそうだったもの」
「……お嬢様」
アンナの瞳には涙が浮かんでいた。それを見て、私も危うく感情がこぼれ落ちそうになる。けれど、ここで取り乱してはいけない。あとで自分ひとりになったときに、思いきり泣けばいい。
「準備をしなくてはならないわね。ガレラスタ王国へ、いつ出発かしら……」
「早ければ来週にも、と聞きました。フォルテ殿下自らのご招待状が届くそうで……」
「そんなに早く……そう」
メリンダが余計なことを言って、早急に進めたのだろうか。あるいはガレリア王が急いでいるのか。どちらにせよ、私には多くの時間が残されていない。
アンナはぎゅっと私の手を握る。
「お嬢様、私もご一緒させてください。隣国へ行っても、私にできることがあればなんでもします」
「それは……ありがとう。でも、父とメリンダが許すかどうか……」
「お嬢様がお望みなら、私はどこへでもついていきます。もちろん、公爵家を辞する覚悟もできています」
彼女の決意に、胸が熱くなる。たとえどんな仕打ちを受けようとも、私のそばにいようとしてくれる侍女がいる。それは何よりもの救いだった。
「アンナ、ありがとう……。あなたがいてくれるなら、きっと私は大丈夫」
そう言いながら、私はそっと彼女の手を握り返す。心細さが少しだけ緩和される思いだった。
その日の夜、私は母の肖像画の前に立っていた。母が生きていた頃は、この部屋で一緒に過ごす時間も長かった。今はわずかに残る面影だけが、私を励ましてくれるような気がする。
「お母様……。私は本当に、このまま隣国へ行ってもいいのかしら」
静かな部屋の中、問いかけに返事はない。ただ、母の優しい笑顔の肖像が私を見下ろしている。
私は瞼を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。母がもし生きていたら、「あなたの幸せを第一に考えなさい」と言ってくれただろうか。それとも、「国や家のために生きるのが公爵家の務め」というのだろうか。
答えはもう、どこにもない。それでも私は、自分にできることをするしかない。
「大丈夫。きっと、私は一人じゃない……」
そう自分に言い聞かせ、私は部屋を後にした。明日は馬車の手配や荷造りなど、やるべきことが山ほどある。いつまでも悲しみに浸ってはいられないのだ。
翌朝、早速婚約の話は公式に公表され、私がガレラスタ王国へ向かう日取りも決まった。公爵家の使用人たちの間では、瞬く間に噂が広がる。
「ジョゼフィーヌ様が隣国の王子と婚約なさるなんて……さすが公爵令嬢ね」
「でも、なにやら急なお話みたい。まさか政略結婚だったりして……」
そんな囁きが耳に届くが、私はあえて笑みを作って過ごした。表情だけでも平静を装っておかないと、皆まで不安にさせてしまう。
メリンダはというと、私が見えるところでは相変わらず私を侮蔑するような視線を向けてくるが、これまでのようにちょっかいを出してくることは減った。自分の目的――私を屋敷から追い出す――が達成されるからだろう。
父は「婚礼の衣装代は必要なだけ使うように」と言ってくれたが、その表情はどこか空虚だ。まるで、そこには一片の寂しさもないように見えた。何より、母が亡くなって以来、父ときちんと向き合ったことがない。私も父が何を考えているのかわからないし、父も私に踏み込むことはない。それがいっそう、孤独を深める。
私には、家族と呼べる絆はもう残っていないのだろうか――。そんな思いが何度も頭をかすめた。
それから数日の準備期間は慌ただしく過ぎていった。アンナとともに持っていく荷物をまとめ、ガレラスタ王国で必要となるであろう礼服や書類を整える。
やがて、私は出発の日の朝、屋敷の前に停められた馬車を見つめながら、一つ息をついた。並べられたトランクや荷箱の数々を確認し、馬車の御者に挨拶する。
「お嬢様、荷物はすべて揃いました」
アンナが小走りに私へ報告する。彼女も一緒に馬車へ乗り込む予定だ。
「ありがとう、アンナ。……さて、行きましょうか」
私は背筋を伸ばして馬車に近づく。すると、玄関から足音が聞こえ、振り返るとそこには父とメリンダが立っていた。
父は申し訳なさそうな面持ちで口を開く。
「……ジョゼフィーヌ、本当にすまない。だが、これはおまえにとっても良い機会だと信じている。どうか元気でな」
まるで他人事のような言葉。私は心の奥底で「本心からそう思っているのか」と問いただしたくなるが、結局は何も言わず「行ってまいります」と頭を下げるだけだった。
メリンダは髪をなびかせながら、嘲笑とも取れる笑みを浮かべる。
「気をつけてね。まぁ、殿下との結婚が破談にならないように努力するのよ? 国と国のことなんだから」
最後まで嫌味を忘れないとは。けれど私は、それに動じない。
「ええ、心配なく。メリンダ――いえ、母様もお元気で」
するとメリンダはさも気持ち悪いものでも見たように、顔を背けてしまった。
馬車へと乗り込むと、アンナもあとに続いて座る。扉が閉まる前にちらりと父の姿が視界に入ったが、彼は下を向いたままで、目を合わせようとしなかった。
やがて御者の「出発します」という声とともに、馬車ががたん、と動き始める。サラサラと流れる冷たい朝の風が、頬をかすめる。
私は窓から外の景色を眺めながら、かつては慣れ親しんだこの庭や門が、遠ざかっていくのを感じた。母がこだわって育てていた薔薇の庭は、今はメリンダ好みの花に取り替えられてしまっている。それでも、遠目には美しい花々が風に揺れていた。
――さようなら、アルテリア公爵家。
心の中でそう別れを告げる。いま私が感じているのは、悲しみだろうか。それとも安堵だろうか。それさえ判然としない。ただ一つはっきりしているのは、このまま家にいても何も変わらなかっただろう、ということ。
いずれにせよ、私は公爵令嬢という肩書のまま、ガレラスタ王国の王子との婚約者として送られる。今後の人生がどうなるかはわからないが、それでも前に進むしかない。
馬車は石畳の道をコトコトと進んでいく。アンナがさりげなくハンカチを差し出してくれた。
「お嬢様、涙が……」
指摘されて初めて、自分が泣いていることに気がついた。さっきまで平気だと思っていたのに、実際にこうして馬車が動き始めると、自分でも抑えようのない感情が込み上げる。
「……ありがとう。情けないわね、もう公爵家の令嬢ではなくなるのに」
「そんなことはありません。お嬢様はずっとお嬢様です」
アンナは優しく微笑む。その表情に、救われる思いだった。
こうして私は、公爵家を後にした。十二歳の継母メリンダに疎まれ、父の庇護からも切り離される形で、隣国へ嫁ぐための道を歩み始めたのだ。
――これが私の運命だというのなら、受け入れるしかない。
自分にそう言い聞かせながら、私は馬車の窓越しに、遠ざかっていくアルテリア公爵家の屋敷を最後まで見つめ続けた。母の面影を宿すはずだった家は、今ではすっかり別の色に染まっている。
やがて曲がり角を曲がり、視界から完全にその姿が消え去ったとき、私は小さく息をついた。
(ここから先、私はどうなるのかしら……)
怖さもある。だが、もう後戻りはできない。
王都を抜け、国境を越え、私はガレラスタ王国へ向かう。そこではどのような人々がいて、どのような生活が待っているのか。まだ想像すらつかない。
ただ一つわかるのは、私は“公爵令嬢”という身分を捨てるのではなく、それを手段として使われるということ。王同士の思惑がどう絡んでいるかはわからないが、私が自分の生き方を取り戻すためには、やはり自らの足で立ち、道を切り拓くしかない。
(そうよ、私は道具じゃない。いつか、必ず――)
そう決意を固めたところで、アンナがそっと声をかける。
「お嬢様、お疲れではありませんか? 長い旅ですから、少し眠ってお身体を休めください」
「ありがとう、アンナ。……そうね、少し休もうかしら」
私はアンナに微笑みかけ、そのまま瞼を閉じる。馬車の揺れに身を任せながら、浅い眠りに落ちていく。
なぜか母の優しい声が聞こえたような気がした。それは幻聴に違いない。けれど、その夢の中で、私は少しだけ救われているような心持ちだった。
こうして、私――ジョゼフィーヌ・アルテリアの“追放”にも近い形での旅立ちは幕を開ける。
十二歳の継母に追いやられた公爵令嬢。その先には、ガレラスタ王国という未知の地での新たな生活と、フォルテ王子という婚約者が待っている。
だが、まだこの時点では、私の運命がどれほど大きな陰謀や策謀に巻き込まれているかを知る由もなかった。
それでも私は、わずかな希望を胸に、そして隠しきれない不安を抱えながら、馬車の中で静かに息を潜める。
――これは私が最初に払う犠牲なのか、それとも新たな再出発なのか。答えを得るのは、まだもう少し先のことになりそうだ。
しかし、そこに生まれ育った私は、今やここでの居場所を大きく揺るがされていた。
私――ジョゼフィーヌ・アルテリアは二十二歳。アルテリア公爵家の第一令嬢として生まれ、幼い頃から“品行方正に”と厳しく育てられてきた。それでも、かつては穏やかな母の笑顔とともに、それなりに安らぎを感じることもできていた。
それが変わったのは、母が病に倒れ、逝去したあの日。公爵――つまり私の父は、母を失った悲しみからなのか、心ここにあらずといった様子で日々を送っていた。そしてその数か月後、私を含む周囲の誰もが予想だにしなかった人物を、新たな妻として迎え入れる。
名をメリンダという。驚くべきことに、彼女はまだ十二歳という年端もいかぬ少女だった。王立学院に通う学生のようなあどけない顔立ち。だが、そんな外見とは裏腹に、彼女はわがままで自己中心的という噂を耳にしていた。
実際、メリンダは当家にやってきた初日から“好き勝手”を始め、父もあれよあれよという間に振り回されてしまったのだ。いま思えば、父自身、母を亡くして完全に心の支えを失っていたのだろう。そこをメリンダに取り入られた、というのが正しい見方かもしれない。
私は母の死から立ち直りきれていない父を責めることなどできず、ただ見守るしかなかった。ただし、メリンダがどれだけ傍若無人に振る舞おうと、「年端のいかない子供だから」と多めに見るように言われてきたのも事実。
だが、そんな甘い扱いは、次第にこの屋敷全体を彼女の思うがままに変えていく。
薔薇の花壇はメリンダが「虫がいや」と言い出せば引き抜かれ、代わりに彼女好みの派手な花が植えられた。食事も好き嫌いが激しく、毎日のように使用人が新しい料理を用意しなければ気が済まない。どれほど浪費になろうとも、公爵は「メリンダの好みに合わせるのだ」と言って聞かない。
さらには、私が慈善活動の一環で開いていた近隣の子供たちへの読み聞かせ会や、使用人への勉強会を「くだらない時間の無駄」と断じ、私に中止を通達してくる。もちろん、それはこの屋敷を仕切る公爵夫人としての“命令”だった。
私はこれまで当主である父の指示に従ってきたし、その背後で糸を引くのがメリンダだということもわかっていた。けれど、どうあっても父はメリンダの言うことに従い、私の意見は聞き入れられない。結果的に、私がこの家で担ってきた役割も、次第に奪われていくように感じられた。
――そして、決定的な出来事が起きる。
ある日の午前中、私は書斎で手紙の整理をしていた。祖母が遺した蔵書や資料などを管理することも、もはや私にしかできない重要な仕事だった。といっても、公的には公爵夫人であるメリンダが管轄すべきことなのだが、彼女はまったく興味を示さない。むしろ書類仕事を「読みづらくてやっていられないわ」と投げ出す始末で、結局は私が代わりにやっていた。
そんなとき、書斎の扉を勢いよく開け放って入ってきたのは、メリンダその人だった。いつもなら執事を呼んで私を呼び出すのに、やけに珍しい。
ツインテールに結った淡い茶髪を揺らしながら、彼女はルビーのような瞳を吊り上げ、怒りを込めた様子で私を睨みつけた。
「ジョゼフィーヌ! あなた、勝手に私の部屋に入ったわね?」
私はペンを持ったまま、首を傾げた。
「いいえ。そんなことはしていませんよ、メリンダ……いえ、母様」
いまだに「母様」と呼ぶことには抵抗があるが、正式な夫人となった以上、公の場ではそう呼ばねばならないのが筋だ。
しかし、メリンダはその呼び方さえ気に入らないのか、「気持ち悪いわね」と吐き捨てるような視線を向けてくる。
「うそよ。私の部屋に飾っていた花瓶の花がなくなってたの。きっとあなたが何かしたんでしょ? あれ、私のお気に入りだったのに!」
「花が、ですか。そういえば、今朝、メイドのイザベルが部屋の掃除に向かっていました。傷んだ花を取り替えたのかもしれません。あなたは昨日から部屋を使わずに別の部屋にいたと聞きましたが……」
「だからって、勝手に触られるなんて許せない! そもそも、私の部屋にあったものなのよ? どうしてあなたに指図されなきゃいけないの!」
まるで道理の通らない幼子のように怒るメリンダに、私はやんわりと言葉を継ぐ。
「私が直接命じたわけではありません。イザベルの判断でしょう。花を定期的に取り替えるのは当家の習わしでもあります」
「……習わし、ね。私が気に入ってるんだから、そのままにしておけばいいでしょうが!」
メリンダは怒鳴った後、涙を浮かべながら大げさに足を踏み鳴らす。いや、正直なところ、本当に泣いているのかただ怒りを演出しているのか、私には判断がつかない。
そこへ、ちょうど部屋の外を通りかかった父――アルテリア公爵が、慌てた足取りでやってきた。公爵は私たちを見るや否や、まるで子供をあやすような柔和な声を向ける。
「メリンダ、どうしたんだい? そんなに声を荒らげて……」
「だって! ジョゼフィーヌが私の部屋に勝手に入ったんですもの! お気に入りの花も捨てられていたし……それなのに彼女は知らばっくれて!」
父は私を見ると困ったように眉を下げ、「本当なのか?」と問いかける。
「いいえ、私は入っていませんし、花を捨てたのも私ではありません。メイドのイザベルが部屋の掃除と花の取り替えをしたのでしょう。決して悪意があったわけではないはずです」
「そうなのか……」
父は渋い顔をする。メリンダは瞳を潤ませながら、
「あなたの娘は、私に恥をかかせたのよ? どうにか言ってあげてよ!」
と言わんばかりに父の胸元にしがみつく。十二歳とはいえ、その態度は演技臭く、そしてどこか小悪魔的でもあった。
「わかったわかった。ジョゼフィーヌ、言いつけもなく部屋に入るのは配慮が足りなかったな。たとえメイドが勝手にしたことでも、おまえがしっかり管理しないと」
そうやって、私に全責任を押し付ける形で、父はメリンダをなだめる。
「申し訳ありません」
私は苦い思いを押し殺し、頭を下げた。公爵令嬢として、理不尽な相手にも礼儀を失わず、波風を立てないこと。これが私が幼い頃から叩き込まれてきた“公爵家の令嬢たるものの心得”だった。
だが、その胸中には悔しさとやりきれない思いが渦巻いていた。
――どうして父は、私の言葉を信じてくれないのだろう。
私のことなど、もう眼中にないのだろうか。
メリンダが公爵夫人になって以来、父との会話も激減した。ただでさえ母を失った悲しみを共有する時間がなかったというのに、メリンダが来てからはなおさら私は蚊帳の外である。いつの間にか、使用人からも「公爵のご機嫌はメリンダ様次第」などと囁かれ、私もあまり口出しできなくなった。
そんな日々が続く中、決定打となる知らせがもたらされたのは、それからほどなくしてのことだった。
ある朝、私は例のごとく書斎で書類を確認していた。アルテリア公爵領には、領内の経営、農作物の輸送、交易ギルドとの契約書など、膨大な書類がある。これらの管理や更新は本来、公爵かその補佐役が行うべきなのだが、父はメリンダの相手に忙しく、取り合ってはくれない。いや、公爵として表向きの場には顔を出すが、その背後でこまごまと発生する作業は私が担っているのが実情だった。
とはいえ私は、公爵家の令嬢として当然の責務だと思っていたし、仕事自体にやりがいを感じてもいた。母が生きている頃は、彼女と一緒にこれらの文書に目を通し、改善策を講じたこともある。だから、現在のような父の変化には、戸惑いと悲しさが募るばかりだった。
そのとき、執事のクラレンスが部屋へと入ってきて、低い声で言う。
「ジョゼフィーヌ様、公爵が呼んでおられます。今すぐ大広間へ」
「父が? わかりました。すぐに向かいます」
執事は無表情のまま一礼して去った。その横顔はどこか張り詰めているようにも見える。大広間へ向かう途中、胸の奥で不吉な予感がした。私を呼び出すなんて、ここしばらくなかったことだからだ。メリンダが機嫌を悪くしたときなどは、たいてい父が書斎へ来るか、使いをよこすだけで済ませる。大広間で正式に呼びつけられるというのは、一体何事なのだろう。
大広間の扉を開けると、そこには父とメリンダが並んで座っていた。真紅の絨毯が敷かれた床をゆっくりと歩きながら、私はおそるおそるふたりの姿を見つめる。
父は豪華な紋章入りの椅子に腰掛け、深く息を吐きながら私に目を向けた。メリンダはいつもと変わらず、鼻でせせら笑うように私を見ている。
「父上、いかがなさいましたか」
私は礼をとってそう尋ねる。すると父は少し視線を逸らして、まるで言いづらそうに口を開く。
「……ジョゼフィーヌ、おまえに話がある。大事な話だ」
嫌な沈黙が走る。メリンダがくすっと小さく笑った。その笑みは、あからさまな勝利宣言のようにも見える。
「実はな……隣国のガレラスタ王国の王子、フォルテ殿下との縁談が正式に決まった。おまえは殿下の婚約者として隣国へ向かうのだ」
一瞬、頭が真っ白になる。
「……婚約、ですか。私が……?」
目を瞬かせながら父を見つめるが、彼の表情はどこか落ち着きを欠いていた。まるで自分で決めたことではない、と言いたげな曖昧さ。
一方、メリンダは私の反応をおもしろがるかのように、にたりと口元を歪めている。
「おめでとう、ジョゼフィーヌ。これであんたもお姫様になれるかもしれないわね」
「メリンダ……」
思わず彼女の名を呼びかける。まるで私を家から追い出したいかのように、これまで何度も嫌がらせをしてきた。これがその最終手段なのだろうか。だが、普通なら歓迎すべき婚約話を、どうして私はこんなにも恐ろしく感じるのだろう。
父が言葉を継ぐ。
「フォルテ殿下はガレラスタ王国の第二王子で、知性と品格を兼ね備えたご立派なお方だそうだ。もし縁談がうまくまとまれば、我が国とガレラスタとの関係も飛躍的によくなる……。これはな、王からも強く勧められていることなのだよ」
「王……ガレリア陛下が?」
私の胸はさらにざわつく。
我が国とガレラスタ王国は近年、領土問題で激しく揉めていた。小競り合いのような争いが何度も起き、国境付近の村々に被害が出ているとも聞く。王同士の話し合いこそあるが、抜本的な解決策は見つかっていない。そんな中、両国を結ぶ政治的手段としての政略結婚は、決して珍しくはないだろう。
ただ、なぜ私なのか。公爵家といえど、わざわざフォルテ王子が望むほどの価値が私にあるとは思えなかった。
――もしかして、これは私を“人質”として差し出すのではないだろうか。
そんな思考が脳裏をかすめる。私の母国――エルシオン王国のガレリア王が、ガレラスタ王国との交渉材料として私を送り込む。それならば、ガレラスタ王国側も何らかの形で譲歩を見せざるを得ないかもしれない。
私の顔に動揺の色が浮かんでいたのか、メリンダが自慢げに鼻を鳴らす。
「ふふん、驚いた? 隣国の王子様との婚約が決まるなんて、普通なら嬉しくて小躍りするところじゃない?」
「…………」
笑みも言葉も出ない。私はただ父を見つめた。
「父上、それは私の意志は関係ないのですか……? 私にも気持ちというものがあります。いきなり隣国の王子との婚約を告げられても、どう受け止めればいいのか……」
父は浮かない顔でひとつ息を吐く。
「王の決断とあらば、公爵家の娘として拒否はできまい。おまえには重責を担ってもらうことになるが、これも国や領民のためだ。……頼むよ、ジョゼフィーヌ」
言外に、「おまえが断る選択肢などない」と告げられたも同然だった。
――私はその一言を聞いて、悟った。
ここで抵抗をしても無意味だ。否、もはや私には何も期待されていないのかもしれない。父が見ているのはもう、私ではなく幼い継母メリンダと、そして自分自身の立場だけだ。
それでも、私は公爵家の令嬢として育てられたプライドがある。母を失っても、家柄に恥じぬよう、これまで家の仕事を支え続けてきた。ならば、今さら弱音を吐くより、与えられた立場で最善を尽くすしかないのだろうか。
父やメリンダを見返したい気持ちもあるが、それよりも何よりも、私はただ無力感を抱いていた。
「……承知しました。婚約のお話、引き受けます」
私がそう告げると、メリンダは面白そうにくつくつと笑う。
「まあ、最初から断るなんてできっこないけど。あはは、これでやっとこの屋敷も静かになるわね。あんたが消えてくれれば、私も気楽に暮らせるもの」
その無邪気とも邪悪ともつかない笑みを見て、私は胸中で苛立ちを覚えたが、言い返すことはなかった。ただ呆然と立ち尽くしていると、父が椅子から立ち上がり、そっと私の肩に手を置く。
「すまないな、ジョゼフィーヌ……。しかし、これはおまえにとっても良い縁談だと思う。フォルテ殿下は誠実なお方だそうだ。おまえならば、きっと立派に隣国で務めを果たせるだろう」
その言葉に、私は小さくうなずくだけだった。頭の中では、“国や家のため”という言葉が渦を巻く。これまで父や周囲に教え込まれた「公爵家の令嬢である以上、己を犠牲にしてでも国に尽くすべし」という教え。それを守れば、いつか褒めてもらえる。いつか認められると信じていた。
だがいま、その信念はぐらついている。私の犠牲は、誰かの利益となるのだろうか。それとも、結局は父や王にとって都合のいい“駒”でしかないのか――。
話はそこで一旦終わり、私は自室に戻った。しばらくして侍女のアンナが私の部屋を訪れる。
「お嬢様、大丈夫ですか……? こんな急なお話、私もびっくりしました」
彼女は幼少のころから私に仕えてくれた侍女だ。母が亡くなったときも傍らで支えてくれた心強い味方。私は小さく笑みを返した。
「ありがとう、アンナ。驚いたけれど、仕方ないわ。これが私の道なのだとしたら、受け入れるしかない……」
「ですが……お嬢様は本当にそれでいいんですか?」
アンナは悲しそうに眉を寄せる。私は自分が抱えた複雑な気持ちを打ち明けたくなったが、それを言ってしまえば取り乱してしまいそうだったから、ぐっと堪えた。
「ううん。正直、まだ自分でもわからない。でも、公爵家の娘として生まれた以上、あまり自分の意思を通すことは許されないわ。今までもそうだったもの」
「……お嬢様」
アンナの瞳には涙が浮かんでいた。それを見て、私も危うく感情がこぼれ落ちそうになる。けれど、ここで取り乱してはいけない。あとで自分ひとりになったときに、思いきり泣けばいい。
「準備をしなくてはならないわね。ガレラスタ王国へ、いつ出発かしら……」
「早ければ来週にも、と聞きました。フォルテ殿下自らのご招待状が届くそうで……」
「そんなに早く……そう」
メリンダが余計なことを言って、早急に進めたのだろうか。あるいはガレリア王が急いでいるのか。どちらにせよ、私には多くの時間が残されていない。
アンナはぎゅっと私の手を握る。
「お嬢様、私もご一緒させてください。隣国へ行っても、私にできることがあればなんでもします」
「それは……ありがとう。でも、父とメリンダが許すかどうか……」
「お嬢様がお望みなら、私はどこへでもついていきます。もちろん、公爵家を辞する覚悟もできています」
彼女の決意に、胸が熱くなる。たとえどんな仕打ちを受けようとも、私のそばにいようとしてくれる侍女がいる。それは何よりもの救いだった。
「アンナ、ありがとう……。あなたがいてくれるなら、きっと私は大丈夫」
そう言いながら、私はそっと彼女の手を握り返す。心細さが少しだけ緩和される思いだった。
その日の夜、私は母の肖像画の前に立っていた。母が生きていた頃は、この部屋で一緒に過ごす時間も長かった。今はわずかに残る面影だけが、私を励ましてくれるような気がする。
「お母様……。私は本当に、このまま隣国へ行ってもいいのかしら」
静かな部屋の中、問いかけに返事はない。ただ、母の優しい笑顔の肖像が私を見下ろしている。
私は瞼を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。母がもし生きていたら、「あなたの幸せを第一に考えなさい」と言ってくれただろうか。それとも、「国や家のために生きるのが公爵家の務め」というのだろうか。
答えはもう、どこにもない。それでも私は、自分にできることをするしかない。
「大丈夫。きっと、私は一人じゃない……」
そう自分に言い聞かせ、私は部屋を後にした。明日は馬車の手配や荷造りなど、やるべきことが山ほどある。いつまでも悲しみに浸ってはいられないのだ。
翌朝、早速婚約の話は公式に公表され、私がガレラスタ王国へ向かう日取りも決まった。公爵家の使用人たちの間では、瞬く間に噂が広がる。
「ジョゼフィーヌ様が隣国の王子と婚約なさるなんて……さすが公爵令嬢ね」
「でも、なにやら急なお話みたい。まさか政略結婚だったりして……」
そんな囁きが耳に届くが、私はあえて笑みを作って過ごした。表情だけでも平静を装っておかないと、皆まで不安にさせてしまう。
メリンダはというと、私が見えるところでは相変わらず私を侮蔑するような視線を向けてくるが、これまでのようにちょっかいを出してくることは減った。自分の目的――私を屋敷から追い出す――が達成されるからだろう。
父は「婚礼の衣装代は必要なだけ使うように」と言ってくれたが、その表情はどこか空虚だ。まるで、そこには一片の寂しさもないように見えた。何より、母が亡くなって以来、父ときちんと向き合ったことがない。私も父が何を考えているのかわからないし、父も私に踏み込むことはない。それがいっそう、孤独を深める。
私には、家族と呼べる絆はもう残っていないのだろうか――。そんな思いが何度も頭をかすめた。
それから数日の準備期間は慌ただしく過ぎていった。アンナとともに持っていく荷物をまとめ、ガレラスタ王国で必要となるであろう礼服や書類を整える。
やがて、私は出発の日の朝、屋敷の前に停められた馬車を見つめながら、一つ息をついた。並べられたトランクや荷箱の数々を確認し、馬車の御者に挨拶する。
「お嬢様、荷物はすべて揃いました」
アンナが小走りに私へ報告する。彼女も一緒に馬車へ乗り込む予定だ。
「ありがとう、アンナ。……さて、行きましょうか」
私は背筋を伸ばして馬車に近づく。すると、玄関から足音が聞こえ、振り返るとそこには父とメリンダが立っていた。
父は申し訳なさそうな面持ちで口を開く。
「……ジョゼフィーヌ、本当にすまない。だが、これはおまえにとっても良い機会だと信じている。どうか元気でな」
まるで他人事のような言葉。私は心の奥底で「本心からそう思っているのか」と問いただしたくなるが、結局は何も言わず「行ってまいります」と頭を下げるだけだった。
メリンダは髪をなびかせながら、嘲笑とも取れる笑みを浮かべる。
「気をつけてね。まぁ、殿下との結婚が破談にならないように努力するのよ? 国と国のことなんだから」
最後まで嫌味を忘れないとは。けれど私は、それに動じない。
「ええ、心配なく。メリンダ――いえ、母様もお元気で」
するとメリンダはさも気持ち悪いものでも見たように、顔を背けてしまった。
馬車へと乗り込むと、アンナもあとに続いて座る。扉が閉まる前にちらりと父の姿が視界に入ったが、彼は下を向いたままで、目を合わせようとしなかった。
やがて御者の「出発します」という声とともに、馬車ががたん、と動き始める。サラサラと流れる冷たい朝の風が、頬をかすめる。
私は窓から外の景色を眺めながら、かつては慣れ親しんだこの庭や門が、遠ざかっていくのを感じた。母がこだわって育てていた薔薇の庭は、今はメリンダ好みの花に取り替えられてしまっている。それでも、遠目には美しい花々が風に揺れていた。
――さようなら、アルテリア公爵家。
心の中でそう別れを告げる。いま私が感じているのは、悲しみだろうか。それとも安堵だろうか。それさえ判然としない。ただ一つはっきりしているのは、このまま家にいても何も変わらなかっただろう、ということ。
いずれにせよ、私は公爵令嬢という肩書のまま、ガレラスタ王国の王子との婚約者として送られる。今後の人生がどうなるかはわからないが、それでも前に進むしかない。
馬車は石畳の道をコトコトと進んでいく。アンナがさりげなくハンカチを差し出してくれた。
「お嬢様、涙が……」
指摘されて初めて、自分が泣いていることに気がついた。さっきまで平気だと思っていたのに、実際にこうして馬車が動き始めると、自分でも抑えようのない感情が込み上げる。
「……ありがとう。情けないわね、もう公爵家の令嬢ではなくなるのに」
「そんなことはありません。お嬢様はずっとお嬢様です」
アンナは優しく微笑む。その表情に、救われる思いだった。
こうして私は、公爵家を後にした。十二歳の継母メリンダに疎まれ、父の庇護からも切り離される形で、隣国へ嫁ぐための道を歩み始めたのだ。
――これが私の運命だというのなら、受け入れるしかない。
自分にそう言い聞かせながら、私は馬車の窓越しに、遠ざかっていくアルテリア公爵家の屋敷を最後まで見つめ続けた。母の面影を宿すはずだった家は、今ではすっかり別の色に染まっている。
やがて曲がり角を曲がり、視界から完全にその姿が消え去ったとき、私は小さく息をついた。
(ここから先、私はどうなるのかしら……)
怖さもある。だが、もう後戻りはできない。
王都を抜け、国境を越え、私はガレラスタ王国へ向かう。そこではどのような人々がいて、どのような生活が待っているのか。まだ想像すらつかない。
ただ一つわかるのは、私は“公爵令嬢”という身分を捨てるのではなく、それを手段として使われるということ。王同士の思惑がどう絡んでいるかはわからないが、私が自分の生き方を取り戻すためには、やはり自らの足で立ち、道を切り拓くしかない。
(そうよ、私は道具じゃない。いつか、必ず――)
そう決意を固めたところで、アンナがそっと声をかける。
「お嬢様、お疲れではありませんか? 長い旅ですから、少し眠ってお身体を休めください」
「ありがとう、アンナ。……そうね、少し休もうかしら」
私はアンナに微笑みかけ、そのまま瞼を閉じる。馬車の揺れに身を任せながら、浅い眠りに落ちていく。
なぜか母の優しい声が聞こえたような気がした。それは幻聴に違いない。けれど、その夢の中で、私は少しだけ救われているような心持ちだった。
こうして、私――ジョゼフィーヌ・アルテリアの“追放”にも近い形での旅立ちは幕を開ける。
十二歳の継母に追いやられた公爵令嬢。その先には、ガレラスタ王国という未知の地での新たな生活と、フォルテ王子という婚約者が待っている。
だが、まだこの時点では、私の運命がどれほど大きな陰謀や策謀に巻き込まれているかを知る由もなかった。
それでも私は、わずかな希望を胸に、そして隠しきれない不安を抱えながら、馬車の中で静かに息を潜める。
――これは私が最初に払う犠牲なのか、それとも新たな再出発なのか。答えを得るのは、まだもう少し先のことになりそうだ。
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