働いたら負けって、もう負けてますわ。 ―お小遣い制侯爵様は、奥様が怖い―』

ふわふわ

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第十六話 売られたもの

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第十六話 売られたもの

 ラトゥール侯爵邸の倉庫は、薄暗く、ひんやりとしていた。

 そこに並んでいたはずの古い銀器の一部が、今はない。

「これは……どういうことだ」

 ギヨームは低く呟く。

 先祖代々受け継がれてきた晩餐用の銀食器。格式ある夜会で使われていた品だ。

「整理いたしました」

 背後から聞こえる落ち着いた声。

 ヴィオレーヌだった。

「整理、だと?」

「使用頻度が低く、維持費のかかるものは処分いたしました」

「処分?」

 彼は振り返る。

「売ったのか」

「はい」

 迷いのない返答。

「現在の資金効率を考えますと、保有する理由がございません」

 効率。

 その言葉は合理的だ。

 だが感情を削る。

「それは、家の歴史だ」

「歴史は記録に残ります」

「だが、物は象徴だ」

「象徴より、流動性でございます」

 彼女は静かに言う。

「今必要なのは、見せる歴史ではなく、回る資金ですわ」

 ギヨームは銀器のあった棚を見つめる。

 空白が広がっている。

 何かが欠けたように。

「私に相談もなく」

「旦那様はお忙しいでしょうから」

「忙しい?」

 思わず声が荒くなる。

「私は何もしていない」

 その言葉が、自分を刺す。

 ヴィオレーヌは一瞬だけ目を細める。

「でしたら、帳簿をご覧になりますか」

 静かな提案。

 挑発ではない。

 だが逃げ道もない。

 彼は黙る。

 帳簿を開けば、現実が数字で並ぶ。

 それを見たくない。

 見れば、自分が何をしていなかったかが明確になる。

「売却益は、債務圧縮に充てました」

 ヴィオレーヌは淡々と続ける。

「利息が軽くなります」

「……」

「長期的には、家のためでございます」

 彼は拳を握る。

 間違ってはいない。

 だが、どこか納得できない。

 売られたのは銀器だけではない。

 象徴。

 誇り。

 過去。

 それらも、数字の中に溶けていく。

 一方その頃。

 ルクセリア公爵邸では、古い絵画が修復されていた。

「保存処理が完了いたしました」

「ありがとうございます」

 エルミリアは丁寧に礼を言う。

「歴史は、大切にいたしますわ」

 売らない。

 だが守るための余裕がある。

 それは偶然ではない。

 管理の結果だ。

 夕刻。

 ラトゥール侯爵邸の庭。

 ギヨームは一人、ベンチに腰を下ろす。

 噴水の水音が静かに響く。

「私は、間違っていたのか」

 小さな呟き。

 働いたら負け。

 そう信じてきた。

 だが働かないことで、何が守れた。

 銀器は消えた。

 使用人も減った。

 発言権も薄れている。

 残ったのは――名。

 だが名も、やがて中身に従う。

「旦那様」

 ヴィオレーヌが歩み寄る。

「感傷は不要でございます」

 穏やかだが、冷たい現実。

「売却は合理的判断です」

「合理的、合理的と……」

 彼は笑う。

「貴族とは何だ」

「責任を持つ者でございます」

 その答えは、かつてエルミリアが口にしたものと同じ。

 ギヨームは気づく。

 自分が否定してきた言葉が、今、自分を支えていることを。

「私は……」

 言葉が続かない。

「旦那様は象徴でございます」

 再びその言葉。

「象徴は動きません」

 動くのは、管理者。

 夜が深まる。

 倉庫の棚は空いたまま。

 だが帳簿の数字は整っている。

 家は存続する。

 破滅はしない。

 しかし、何かが確実に売られた。

 それは銀器ではなく――

 ギヨームの、最後の余裕だった。
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