働いたら負けって、もう負けてますわ。 ―お小遣い制侯爵様は、奥様が怖い―』

ふわふわ

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第二十一話 初めての帳簿

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第二十一話 初めての帳簿

 ラトゥール侯爵邸の書斎。

 机の上に、分厚い帳簿が置かれていた。

 これまで何度も視界に入っていたが、開くことはなかったもの。

 ギヨームは椅子に座り、しばらくその表紙を見つめる。

「旦那様」

 背後から、ヴィオレーヌの声。

「本当にご覧になりますか」

「……ああ」

 短い返事。

 彼女は驚かない。

 ただ静かに近づき、帳簿を開く。

 整然と並ぶ数字。

 支出。

 収入。

 利息。

 返済予定。

 赤字の月が、いくつかある。

「これは……」

「改装費と夜会費用が重なった月でございます」

 淡々とした説明。

「支払いが遅れた理由も、ここに」

 指先が数字をなぞる。

 彼は眉を寄せる。

 見ていなかった。

 知ろうとしなかった。

「私は……」

 喉が乾く。

「この状態で、さらに金を動かそうとしていたのか」

「そうでございます」

 責める声ではない。

 事実の提示。

「もしあの時、ルクセリア家から資金が流れていたら」

 彼は顔を上げる。

「……どうなっていた」

「一時的に延命できたでしょう」

「延命」

「ですが、構造は変わりません」

 冷静な分析。

「問題を先送りするだけでございます」

 彼は椅子に深く座り直す。

 胸の奥が重い。

 あの夜会。

 あの宣言。

 “金を流さない冷たい女”。

 そう決めつけた。

 だが、流さなかったからこそ。

 今、家は再編できている。

「彼女は……」

 口に出しかけて、止まる。

 エルミリアの名を、ここで出すことはしない。

 だが思考は向いている。

「旦那様」

 ヴィオレーヌは帳簿を閉じる。

「これが現実でございます」

 逃げられない。

「私は、管理いたします」

 穏やかに続ける。

「ですが、当主は旦那様でございます」

 その言葉に、わずかな違いがある。

 以前は“象徴”だった。

 今は、“当主”。

「帳簿をご覧になることは、働くことではございません」

「……」

「責任を知ることです」

 彼は小さく息を吐く。

 働いたら負け。

 その言葉が、急に軽くなる。

 知らないままいることのほうが、ずっと楽だった。

 だがその楽さが、家を削っていた。

「今後の計画は」

 彼が問う。

 初めて、自分から。

 ヴィオレーヌは一瞬だけ目を細める。

「支出をさらに抑え、信用を回復いたします」

「夜会は」

「必要最小限に」

「改装は」

「当面、凍結」

 彼は頷く。

 それは華やかではない。

 だが、確実だ。

 一方。

 ルクセリア公爵邸。

 エルミリアは夕刻の報告を受けていた。

「ラトゥール侯爵様が、帳簿をご覧になったとのこと」

 彼女は一瞬、目を伏せる。

「そうですか」

 それ以上は言わない。

 責める気もない。

 救う気もない。

 選択は、それぞれのもの。

 夜。

 書斎で一人になったギヨームは、再び帳簿を開く。

 数字は冷たい。

 だが嘘をつかない。

「これが、現実か」

 小さく呟く。

 初めて、目を逸らさなかった。

 それは遅い一歩かもしれない。

 だが、初めての一歩でもあった。
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