働いたら負けって、もう負けてますわ。 ―お小遣い制侯爵様は、奥様が怖い―』

ふわふわ

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第二十六話 小遣い帳の意味

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第二十六話 小遣い帳の意味

 ラトゥール侯爵邸の朝は、いつの間にか整然としていた。

 以前のように、朝から出入りする商人の声や、急ぎ足の従者のざわめきはない。

 静かだ。

 だが、それは衰えではない。

 落ち着きだ。

 書斎の机の上に、小さな冊子が置かれている。

 革張りの、簡素な一冊。

 ギヨームはそれを見つめていた。

「本日からでございます」

 向かいに立つヴィオレーヌが言う。

「……本当に必要か」

「ええ」

 きっぱりと。

「旦那様の自由裁量費の記録でございます」

 小遣い帳。

 その言葉は使わない。

 だが意味は同じ。

 ギヨームは苦々しく冊子を開く。

 日付。

 用途。

 金額。

 空白が並ぶ。

「侯爵が、これをつけるのか」

「侯爵であられるからこそ、でございます」

 淡々とした声。

「家を守る立場にある方が、ご自身の支出を把握されぬのは不自然でございます」

 不自然。

 彼は眉をひそめる。

 これまで“不自然”だったのは、どちらだ。

 記録を見ない当主か。

 管理する妻か。

「……書けばよいのだな」

「はい。簡潔で結構です」

 彼はペンを取る。

 昨夜の支出を思い出す。

 書き込む。

 ほんの数行。

 それだけ。

 だが奇妙な感覚がある。

 自分の行動が、紙に残る。

 曖昧ではなく。

 言い訳ではなく。

 記録として。

 ペンを置く。

「これで満足か」

「満足ではございません」

 ヴィオレーヌは微笑む。

「始まりでございます」

 始まり。

 その言葉に、彼は小さく息を吐く。

 かつて“働く”と聞けば、農地に立つ姿や商売の声を想像した。

 だが今は違う。

 これは肉体労働ではない。

 だが責任だ。

 一方。

 ルクセリア公爵邸では、別の書類がまとめられていた。

「次期投資の最終確認でございます」

 エルミリアは静かに目を通す。

 数字は整っている。

 無理はない。

 彼女は署名をする。

 働いている。

 だが、彼女はそれを“働いている”とは言わない。

 責任を果たしているだけ。

 午後。

 ラトゥール侯爵邸の応接間。

 若い貴族が訪ねてきた。

「侯爵様、最近は堅実だとか」

 どこか探るような視線。

 ギヨームは落ち着いて答える。

「堅実であることは、恥ではない」

「ですが、地味では?」

「地味でも、崩れぬ」

 短い言葉。

 以前のような虚勢はない。

 若い貴族は言葉に詰まり、帰っていく。

 扉が閉まる。

 ヴィオレーヌが静かに言う。

「よろしゅうございました」

「何がだ」

「見せる必要のない強さを、見せなかったことです」

 彼は苦笑する。

 強さとは何か。

 金をばらまくことか。

 王に泣きつくことか。

 違う。

 守ること。

 崩さないこと。

 夕刻。

 再び書斎。

 小遣い帳が机の上にある。

 彼はそれを閉じる。

 小さな冊子。

 だが軽くない。

「働いたら負け、か」

 呟きが静かに落ちる。

 違う。

 無責任でいることこそ、負けだったのかもしれない。

 窓の外、庭は整えられている。

 豪奢ではない。

 だが荒れてもいない。

 侯爵邸の灯りが、今日も静かに灯る。

 小さな冊子は、その灯りの一部だった。
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