『時間を止める女は、もういない』

ふわふわ

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第八話 いなくなった日

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第八話 いなくなった日


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エルメス・シャネルが王都を去った翌朝、
王国は何事もなかったかのように動き始めた。

市場は開き、鐘は鳴り、貴族たちはいつも通りの時間に起き、
いつも通りの衣装に身を包んだ。

——少なくとも、表向きは。

王都の東区、白い外壁が印象的だった建物の前に、
一人の貴婦人が立ち尽くしていた。

美容サロン《シャネル》。

扉は閉ざされ、掲げられていた看板も外されている。
そこにあったのは、丁寧に貼られた一枚の紙だけだった。

《本日をもって、当サロンは休業いたします》

「……休業、ですって?」

貴婦人は、しばらくその文字を見つめていた。
やがて、ゆっくりと扉に手を伸ばし、触れ、そして離す。

「……今日は、行くつもりでしたのに」

声が、わずかに震えた。

同じ光景が、王都のあちこちで繰り返されていた。

予約を入れていた令嬢。
久しぶりに外出する決心をした婦人。
大切な社交の前に、心を整えたかった者。

誰もが、初めて知る。

——あの人は、もう、いない。

昼を過ぎた頃、王宮では女官たちがひそひそと噂をしていた。

「ねえ、今日の女王陛下……」
「鏡をご覧になったあと、少し……」

言葉を濁す。
それだけで、察するには十分だった。

女王ルイス・クイーンは、その日、いつもより長く鏡の前に立っていた。

豪奢なドレス。
完璧に整えられた髪。
何一つ、乱れてはいない。

だが、鏡の中の自分は、どこか違って見えた。

「……」

女王は、そっと目元に触れる。

皺が増えたわけではない。
老いたわけでもない。

——ただ、“支え”が消えただけ。

それが、こんなにも心細いものだとは、
自分でも驚くほどだった。

同じ頃、貴族街の屋敷では、別の変化が起きていた。

「今日は……やめておくわ」

外出の準備をしていた夫に、妻がそう告げる。

「どうした?」

「……なんとなく」

それ以上、言葉は続かなかった。

鏡を見る時間が、少し長くなる。
ため息が、増える。
外に出る理由を、探すようになる。

それは急激な変化ではない。
だが、確実に、じわじわと広がっていた。

夕刻、社交界の集まりがあった。
いつもなら笑顔と軽やかな会話で満ちるはずの場。

だがその日は、どこか空気が重い。

「……エルメス様、いらっしゃらないのね」

誰かが、ぽつりと呟いた。

それだけで、会話が止まる。

代わりに誰かが、無理に笑う。

「大丈夫よ。
 別に、いなくても……」

だが、その言葉に、力はなかった。

その夜、ある伯爵夫人は、鏡の前で椅子に座り込んだ。

「……私、前は……」

言葉が、続かない。

あのサロンに通っていた頃、
彼女は“美しくなる”ために通っていたのではない。

——自分を、許すために。

今日は疲れている。
今日は調子が悪い。
それでもいい、と。

そう言ってくれる場所が、
もう、どこにもない。

翌日。

王宮の会議室で、魔法研究者たちが集まっていた。

「……代替は、不可能です」

白髪の老魔導士が、重く告げる。

「術式だけなら、解析はできる。
 だが、あの魔法は——」

「感情と、時間と、経験が組み合わさったものだ」

誰も、否定しなかった。

魔法とは、技術だけではない。
使い手の在り方そのものが、結果を左右する。

そして、
エルメス・シャネルほど、
“人の時間”を理解していた者はいなかった。

その事実が、
遅すぎる速度で、
王国中に浸透していく。

夜。

王宮の一室で、女王ルイスは一人、灯りを落とした部屋に座っていた。

「……引き留めなかったのは、正しかったのか」

問いかける相手はいない。

だが、答えは、
王国中の沈黙が示し始めていた。

エルメスが去った日。

それは、
王国が初めて
“彼女が何を支えていたのか”を
知る日でもあった。

気づくには、
少し遅すぎたとしても。
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