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第十六話 届かぬ返書
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第十六話 届かぬ返書
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港町に朝霧が降りる頃、エルメス・シャネルは静かに目を覚ました。
窓の外は白く霞み、潮の香りだけが確かな輪郭を持っている。
昨夜、引き出しにしまった手紙の存在が、ふと胸に浮かんだ。
思い出したからといって、取り出すわけではない。
ただ、そこに“ある”と知っているだけで、心がざわつく。
「……今日は、歩きましょう」
独り言を落とし、簡素な上着を羽織る。
町の朝は早い。
魚市場ではすでに声が飛び交い、籠が運ばれ、笑い声と叱声が交じる。
エルメスは、その流れに身を置きながら、特定の目的もなく歩いた。
彼女の視線は、人の“顔”に向く。
眠気を残した漁師。
手際よく包丁を振るう老女。
子どもを叱りながらも、口元が緩む母親。
——誰もが、時間の中にいる。
王都にいた頃、彼女は“時間に抗う”魔法を使っていたと言われる。
だが実際には、抗っていたのは“否定”だった。
老いること。
変わること。
失うこと。
それらを、受け入れるための魔法。
今は、魔法を使わずとも、同じことをしている自分に気づく。
港の外れ、岩場に腰を下ろし、海を眺める。
波は規則正しく寄せては返し、
止まることも、逆流することもない。
「……ねえ」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、近所の宿で働く少女が立っていた。
まだ十にも満たない年頃だろう。
「この前の人、また来てたよ」
「この前の……?」
「王都から来たって言ってた人。
背の高い、真面目そうな人」
エルメスは、胸の奥で何かが静かに鳴るのを感じた。
「……何か、言っていた?」
少女は首をかしげる。
「うーん。
“無理に会わなくていい”って。
“伝えるだけだから”って」
それだけ言うと、少女は用事を思い出したように駆けていった。
エルメスは、しばらく海を見つめたまま、動かなかった。
——使者。
女王の決断が、もう、ここまで届いている。
それを知っても、心は波立たない。
「……会わなくていい、か」
それは、彼女にとって、何よりの配慮だった。
午後、宿に戻ると、帳場の女性が小さく会釈した。
「先ほどの方、手紙だけ置いていかれました」
差し出された封筒は、昨日のものとは違う。
だが、筆致は似ている。
王都の匂いが、そこにある。
エルメスは、受け取ったが、すぐには開かなかった。
「……ありがとうございます」
部屋に戻り、机の上に二通の手紙を並べる。
一通は、昨日のもの。
もう一通は、今朝届いたもの。
どちらも、王宮の印がある。
——読めば、道は一つ、増える。
だが、今はまだ、選ばない。
エルメスは、ペンを取り、白紙を一枚、机に置いた。
書き始めるが、宛名を書かず、すぐに手が止まる。
「……返事は、今じゃない」
それは、拒絶ではない。
保留でもない。
“今の自分を守る”という、選択だった。
夕方、港に小雨が降る。
屋根を打つ音が、一定のリズムを刻む。
エルメスは、窓辺で本を読みながら、
遠くの雷鳴を聞いた。
——王都では、きっと議論が続いている。
——自分をどう扱うべきか。
——どう戻ってもらうか。
そのどれもが、
今の彼女には、少しだけ、遠い。
夜、灯りを落とす前、
エルメスは引き出しを開け、
二通の手紙を並べて、そっと重ねた。
「……時間は、味方よ」
誰に向けた言葉でもない。
それは、
かつて多くの女性に伝えてきた言葉を、
今度は、自分自身に向けたものだった。
返書は、まだ書かれない。
だが、拒絶も、まだ、されていない。
静かな港町で、
エルメス・シャネルは、
自分の“間”を、大切に抱えたまま、
次の一歩を待っていた。
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港町に朝霧が降りる頃、エルメス・シャネルは静かに目を覚ました。
窓の外は白く霞み、潮の香りだけが確かな輪郭を持っている。
昨夜、引き出しにしまった手紙の存在が、ふと胸に浮かんだ。
思い出したからといって、取り出すわけではない。
ただ、そこに“ある”と知っているだけで、心がざわつく。
「……今日は、歩きましょう」
独り言を落とし、簡素な上着を羽織る。
町の朝は早い。
魚市場ではすでに声が飛び交い、籠が運ばれ、笑い声と叱声が交じる。
エルメスは、その流れに身を置きながら、特定の目的もなく歩いた。
彼女の視線は、人の“顔”に向く。
眠気を残した漁師。
手際よく包丁を振るう老女。
子どもを叱りながらも、口元が緩む母親。
——誰もが、時間の中にいる。
王都にいた頃、彼女は“時間に抗う”魔法を使っていたと言われる。
だが実際には、抗っていたのは“否定”だった。
老いること。
変わること。
失うこと。
それらを、受け入れるための魔法。
今は、魔法を使わずとも、同じことをしている自分に気づく。
港の外れ、岩場に腰を下ろし、海を眺める。
波は規則正しく寄せては返し、
止まることも、逆流することもない。
「……ねえ」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、近所の宿で働く少女が立っていた。
まだ十にも満たない年頃だろう。
「この前の人、また来てたよ」
「この前の……?」
「王都から来たって言ってた人。
背の高い、真面目そうな人」
エルメスは、胸の奥で何かが静かに鳴るのを感じた。
「……何か、言っていた?」
少女は首をかしげる。
「うーん。
“無理に会わなくていい”って。
“伝えるだけだから”って」
それだけ言うと、少女は用事を思い出したように駆けていった。
エルメスは、しばらく海を見つめたまま、動かなかった。
——使者。
女王の決断が、もう、ここまで届いている。
それを知っても、心は波立たない。
「……会わなくていい、か」
それは、彼女にとって、何よりの配慮だった。
午後、宿に戻ると、帳場の女性が小さく会釈した。
「先ほどの方、手紙だけ置いていかれました」
差し出された封筒は、昨日のものとは違う。
だが、筆致は似ている。
王都の匂いが、そこにある。
エルメスは、受け取ったが、すぐには開かなかった。
「……ありがとうございます」
部屋に戻り、机の上に二通の手紙を並べる。
一通は、昨日のもの。
もう一通は、今朝届いたもの。
どちらも、王宮の印がある。
——読めば、道は一つ、増える。
だが、今はまだ、選ばない。
エルメスは、ペンを取り、白紙を一枚、机に置いた。
書き始めるが、宛名を書かず、すぐに手が止まる。
「……返事は、今じゃない」
それは、拒絶ではない。
保留でもない。
“今の自分を守る”という、選択だった。
夕方、港に小雨が降る。
屋根を打つ音が、一定のリズムを刻む。
エルメスは、窓辺で本を読みながら、
遠くの雷鳴を聞いた。
——王都では、きっと議論が続いている。
——自分をどう扱うべきか。
——どう戻ってもらうか。
そのどれもが、
今の彼女には、少しだけ、遠い。
夜、灯りを落とす前、
エルメスは引き出しを開け、
二通の手紙を並べて、そっと重ねた。
「……時間は、味方よ」
誰に向けた言葉でもない。
それは、
かつて多くの女性に伝えてきた言葉を、
今度は、自分自身に向けたものだった。
返書は、まだ書かれない。
だが、拒絶も、まだ、されていない。
静かな港町で、
エルメス・シャネルは、
自分の“間”を、大切に抱えたまま、
次の一歩を待っていた。
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