『時間を止める女は、もういない』

ふわふわ

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第二十二話 名を持たぬ約束

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第二十二話 名を持たぬ約束


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雨上がりの港町は、空気が澄んでいた。
石畳に残る水たまりが、朝の光を映し、
小さな虹の欠片のように揺れている。

エルメス・シャネルは、宿の裏庭に置いた椅子を片づけながら、
昨夜の言葉を反芻していた。

——選ばれる覚悟。

それは、戻るか否かの二択ではない。
自分が、どこで、どう在るかを、
自分の名で引き受けること。

「……名、ね」

呟いた声は、静かに土に吸い込まれた。

この町で、彼女は名を伏せていた。
名があることで生まれる期待も、
名がもたらす役割も、
いったん、すべて置いてきた。

だが、名を持たないことは、
責任を持たないことと、同義ではない。

裏庭の扉が、控えめに叩かれる。

「……エルメスさん」

昨日、途中で帰った女性が立っていた。
今日は一人だ。
手には、小さな包み。

「昨日は……来ないって言って、
 でも、今日は……」

言葉に迷いながら、包みを差し出す。

「これ、畑で採れたの。
 お礼とかじゃなくて……
 “約束”みたいなもの」

「約束?」

女性は、照れたように笑う。

「ここに来なくても、
 自分で立つって言ったでしょ。
 だから……
 “来ない日”にも、
 あなたを思い出せるように」

包みの中には、乾燥させたハーブが入っていた。
香りは控えめで、穏やかだ。

エルメスは、しばらく言葉を失い、
やがて、静かに受け取った。

「……ありがとう」

「名前、書いてないの」

女性は、すぐに付け加える。

「あなたも、
 名を名乗らない約束だったから」

それは、
契約でも、義務でもない。

名を持たぬ約束。

女性は、それ以上何も言わず、
軽く手を振って去っていった。

昼過ぎ、港の市場では、
ちょっとした騒ぎが起きていた。

漁師の一人が、急に体調を崩したのだ。
倒れはしなかったが、顔色が悪い。

周囲が集まり、
誰かが医者を呼びに走る。

エルメスは、少し離れた場所で、
その様子を見ていた。

——行くべきか。
——行かないべきか。

名を名乗らない。
特別な力を示さない。
境界線を、守る。

自分で引いた、その線が、
今、目の前にある。

エルメスは、深く息を吸い、
一歩だけ、前に出た。

「……水を、少し」

それだけを言う。

漁師の仲間が、急いで水を差し出す。
エルメスは、受け取り、
倒れた男に渡す。

「ゆっくり、飲んで」

それ以上、何もしない。
手を触れない。
力も使わない。

——代わりに、周囲を見る。

日差し。
汗。
疲労。

「……今日は、早く切り上げた方がいい」

誰かが言う。

「そうだな……」

倒れた男は、うなずいた。

それで、十分だった。

医者が到着し、
状況は落ち着く。

誰も、エルメスに礼を言わない。
誰も、彼女を“特別”と呼ばない。

それが、
彼女にとっては、何よりの安堵だった。

夕方、宿に戻ると、
帳場の女主人が声をかけてきた。

「……今日のこと」

「はい?」

「“助けた”って、
 みんな言ってた」

エルメスは、首を振る。

「助けていません。
 水を渡しただけです」

女主人は、少し考え、
やがて、笑った。

「……そういうところだよ」

夜。
部屋で、エルメスは机に向かう。

王都への返書は、
すでに出している。

次に書くべきは、
誰宛でもない、
自分への言葉だった。

白紙に、ゆっくりと書く。

「私は、
 名に守られない場所でも、
 選び続ける」

それは、
戻るための決意ではない。

戻らないための、拒絶でもない。

どこにいても、
自分の線を引けるという、約束。

窓の外、
港町の灯りが、穏やかに瞬く。

名を持たぬ約束は、
誰にも縛られず、
しかし、確かに人と人を結んでいた。

エルメス・シャネルは、
そのことを、
今は、静かに誇りに思えた。

そして、
その誇りこそが——
やがて、
彼女が再び名を名乗る日を、
恐れずに迎えるための、
土台になるのだと。
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