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第三十一話 呼ばれない日常
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第三十一話 呼ばれない日常
---
港町の朝は、相変わらず規則正しい。
鐘が鳴り、店が開き、船が出る。
誰かの人生が大きく変わったからといって、
その順番が入れ替わることはない。
エルメス・シャネルは、
――いや、もう“シャネル”と呼ばれる必要もないのだが――
彼女は、いつもの時間に目を覚まし、
いつものように窓を開けた。
潮の匂い。
市場から届く声。
そして、自分の名を呼ぶ声がないという事実。
「……静かね」
それは、寂しさではなかった。
むしろ、確認だった。
呼ばれない。
求められない。
期待されない。
それらがない朝が、
こんなにも自然に始まることを、
彼女は、まだ少し不思議に感じていた。
身支度を整え、
宿の階段を下りる。
女主人が、帳場で新聞代わりの噂話をしている。
「昨日ね、
王都から来た人がいたのよ」
「そうですか」
「あなたを探してた」
エルメスは、足を止めない。
「……もう、
いませんって言っておいた」
女主人は、ちらりとこちらを見る。
「“エルメス様”は、ね」
エルメスは、微笑んだ。
「ありがとうございます」
それ以上、話は続かない。
それで、いい。
午前中、
彼女は港の端にある倉庫の修繕を手伝った。
正式な仕事ではない。
誰かに頼まれたわけでもない。
ただ、
手が空いていたから。
「……力仕事、できるんだな」
青年が、少し驚いた声で言う。
「ええ」
エルメスは、釘を打ちながら答える。
「できることは、
それなりに」
それ以上、説明しない。
青年も、
それ以上、聞かない。
昼、
皆で簡素な食事を取る。
干し魚と、
硬めのパン。
誰かが言う。
「最近さ、
“役に立たなきゃ”って、
思わなくなった」
別の誰かが笑う。
「それ、
役に立ってるってことじゃない?」
笑いが起きる。
エルメスは、
その輪の中にいる。
中心ではない。
端でもない。
ただ、
一人の人として。
午後、
港町の外れで、
子どもたちが遊んでいる。
棒切れを剣に見立て、
誰が強いかを競っている。
「ねえ、
見てって!」
一人の子が、
エルメスに声をかけた。
「いいですよ」
彼女は、立ち止まる。
子どもが、
得意げに剣を振る。
「どう?」
「……足が、
少し速いですね」
「ほんと?」
子どもは、
嬉しそうに目を輝かせる。
それだけ。
魔法も、
助言も、
未来の保証もない。
ただ、
今ここで、
誰かの話を聞いただけ。
夕方、
裏庭に戻る。
椅子に腰掛け、
何もせず、空を眺める。
かつての彼女なら、
この時間に、
必ず何かをしていた。
研究。
施術。
報告書。
王家への対応。
だが今は——
何もしないことが、予定に入っている。
「……呼ばれないって、
悪くない」
ぽつりと呟く。
呼ばれないから、
選ばれないから、
比較されないから。
自分の速度で、
時間が進む。
夜。
部屋に戻り、
灯りを点ける。
机の上には、
白紙のままの紙が一枚。
何かを書こうとして、
やめた。
「……今日は、
書くこともない」
それを、
不足だとは思わない。
むしろ、
満ちていると感じる。
窓の外、
港町の夜は静かだ。
誰も、
彼女を必要としていない。
それは、
敗北ではない。
ようやく、
“自分の人生”が、
他人の呼び声から、
切り離された証拠だった。
第三十一話は、
事件も、決断もない。
ただ、
一日が過ぎただけ。
けれど——
その「ただの一日」を、
誰にも奪われずに過ごせたことこそが、
何よりも確かな、前進だった。
エルメスは、
灯りを消し、
静かに目を閉じる。
明日も、
呼ばれないだろう。
だが、
それでいい。
それが、
彼女が選んだ日常だった。
---
港町の朝は、相変わらず規則正しい。
鐘が鳴り、店が開き、船が出る。
誰かの人生が大きく変わったからといって、
その順番が入れ替わることはない。
エルメス・シャネルは、
――いや、もう“シャネル”と呼ばれる必要もないのだが――
彼女は、いつもの時間に目を覚まし、
いつものように窓を開けた。
潮の匂い。
市場から届く声。
そして、自分の名を呼ぶ声がないという事実。
「……静かね」
それは、寂しさではなかった。
むしろ、確認だった。
呼ばれない。
求められない。
期待されない。
それらがない朝が、
こんなにも自然に始まることを、
彼女は、まだ少し不思議に感じていた。
身支度を整え、
宿の階段を下りる。
女主人が、帳場で新聞代わりの噂話をしている。
「昨日ね、
王都から来た人がいたのよ」
「そうですか」
「あなたを探してた」
エルメスは、足を止めない。
「……もう、
いませんって言っておいた」
女主人は、ちらりとこちらを見る。
「“エルメス様”は、ね」
エルメスは、微笑んだ。
「ありがとうございます」
それ以上、話は続かない。
それで、いい。
午前中、
彼女は港の端にある倉庫の修繕を手伝った。
正式な仕事ではない。
誰かに頼まれたわけでもない。
ただ、
手が空いていたから。
「……力仕事、できるんだな」
青年が、少し驚いた声で言う。
「ええ」
エルメスは、釘を打ちながら答える。
「できることは、
それなりに」
それ以上、説明しない。
青年も、
それ以上、聞かない。
昼、
皆で簡素な食事を取る。
干し魚と、
硬めのパン。
誰かが言う。
「最近さ、
“役に立たなきゃ”って、
思わなくなった」
別の誰かが笑う。
「それ、
役に立ってるってことじゃない?」
笑いが起きる。
エルメスは、
その輪の中にいる。
中心ではない。
端でもない。
ただ、
一人の人として。
午後、
港町の外れで、
子どもたちが遊んでいる。
棒切れを剣に見立て、
誰が強いかを競っている。
「ねえ、
見てって!」
一人の子が、
エルメスに声をかけた。
「いいですよ」
彼女は、立ち止まる。
子どもが、
得意げに剣を振る。
「どう?」
「……足が、
少し速いですね」
「ほんと?」
子どもは、
嬉しそうに目を輝かせる。
それだけ。
魔法も、
助言も、
未来の保証もない。
ただ、
今ここで、
誰かの話を聞いただけ。
夕方、
裏庭に戻る。
椅子に腰掛け、
何もせず、空を眺める。
かつての彼女なら、
この時間に、
必ず何かをしていた。
研究。
施術。
報告書。
王家への対応。
だが今は——
何もしないことが、予定に入っている。
「……呼ばれないって、
悪くない」
ぽつりと呟く。
呼ばれないから、
選ばれないから、
比較されないから。
自分の速度で、
時間が進む。
夜。
部屋に戻り、
灯りを点ける。
机の上には、
白紙のままの紙が一枚。
何かを書こうとして、
やめた。
「……今日は、
書くこともない」
それを、
不足だとは思わない。
むしろ、
満ちていると感じる。
窓の外、
港町の夜は静かだ。
誰も、
彼女を必要としていない。
それは、
敗北ではない。
ようやく、
“自分の人生”が、
他人の呼び声から、
切り離された証拠だった。
第三十一話は、
事件も、決断もない。
ただ、
一日が過ぎただけ。
けれど——
その「ただの一日」を、
誰にも奪われずに過ごせたことこそが、
何よりも確かな、前進だった。
エルメスは、
灯りを消し、
静かに目を閉じる。
明日も、
呼ばれないだろう。
だが、
それでいい。
それが、
彼女が選んだ日常だった。
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