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第11話 静かな訪問者と、最初の一歩
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第11話 静かな訪問者と、最初の一歩
婚約発表から三日が経った。
驚くほど、何も起きなかった。
屋敷に押しかける来客はなく、王城からの使者も姿を見せない。
噂話は外で勝手に膨らんでいるのだろうが、少なくともアルトワ家の中は、以前と変わらぬ静けさを保っていた。
(……拍子抜けするほどですわね)
私は午前の光が差し込む居間で、ソファに身を沈めていた。
膝の上には本。
テーブルには、淹れたての紅茶。
完璧な午前だ。
――その均衡が、ほんの少しだけ揺れたのは、控えめなノック音だった。
「お嬢様」
マルタが、やや緊張を含んだ声で呼ぶ。
「どうしましたの?」
「……グラーフ侯爵がお見えです」
私は、ぱちりと瞬きをした。
「侯爵が?」
「はい。事前の連絡はなく、“少し顔を出しただけ”とのことですが……」
その言い回しに、私は思わず小さく笑ってしまった。
(本当に、余計なことをなさらない方ですわね)
「お通ししてくださいな」
マルタは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いた。
「かしこまりました」
数分後、庭に面した小さな応接間に、アルベリク・フォン・グラーフ侯爵の姿があった。
相変わらず、静かな佇まい。
騒がしさとは、無縁の空気をまとっている。
「突然で、失礼しました」
私が入室すると、彼は立ち上がり、簡潔にそう言った。
「いえ。ご用があって来てくださったのでしょう?」
「はい。ただ……発表後、直接顔を合わせておくべきだと思いまして」
その理由は、分かりやすかった。
婚約が“書面上の関係”で終わらないことを、確認するため。
けれど、距離を詰めすぎないため。
彼らしい判断だ。
互いに席につき、紅茶が運ばれる。
一口含んでから、侯爵は口を開いた。
「周囲は、何か言っていますか」
「いいえ。特に」
私は正直に答えた。
「私の耳に入る範囲では、静かなものです」
「それは結構」
彼は短く頷く。
「余計な圧力がかかるなら、こちらで処理します」
――“盾になる”という言葉を、彼は相変わらず淡々と使う。
それが誇張でも、恩着せがましさでもないのが、不思議だった。
「ありがとうございます」
私は、静かに礼を述べた。
「ですが……今のところ、本当に問題はありませんの」
「ならば、それが最善です」
合理的な答え。
しばし、沈黙が落ちる。
居心地の悪さはない。
むしろ、言葉を足す必要がない沈黙だった。
「……一つ、確認しておきたいことがあります」
私が、先に切り出した。
「はい」
「今後、私たちはどの程度、顔を合わせることになりますの?」
少しだけ踏み込んだ問いだ。
侯爵は、すぐに答えなかった。
ほんの一瞬、考え、それから言う。
「必要最低限です」
その答えに、私は少しだけ笑った。
「安心しました」
「安心されるとは思いませんでしたが」
「私にとっては、とても重要ですわ」
そう言うと、彼はわずかに目を細めた。
「……ですが」
侯爵は続ける。
「“全く会わない”というのも、現実的ではありません」
「ええ。それは分かっています」
「ですから、提案があります」
私は、自然と姿勢を正した。
「月に一度程度。食事か、お茶の時間を」
「……定期的に?」
「はい。形式ではなく、確認のために」
確認。
その言葉が、妙にしっくり来た。
関係を深めるためではない。
崩れていないか、無理が生じていないか。
「……分かりましたわ」
私は、少し考えてから頷いた。
「それなら、負担になりません」
「では、それで」
合意は、それだけで成立した。
契約書も、誓約もない。
ただ、互いの生活を尊重するという、暗黙の了解。
それが、この関係の基盤だ。
しばらくして、侯爵は立ち上がった。
「今日は、これで」
「もう、お帰りになるのですか?」
「ええ。長居は不要でしょう」
私は、思わず微笑んだ。
「その通りですわ」
玄関まで見送ると、侯爵は一度だけ立ち止まり、振り返った。
「……あなたが無理をしていないか、それだけが気がかりでした」
その言葉は、驚くほど率直だった。
「していませんわ」
私は、はっきりと答える。
「今の私は、とても楽です」
侯爵は、それを聞いてから、静かに頷いた。
「それなら、よかった」
それだけ言って、彼は去っていった。
静寂が戻る。
私は、玄関ホールに一人残り、少しだけ考えた。
(……最初の一歩、ですわね)
大きな変化ではない。
劇的な出来事でもない。
けれど、確かに。
“婚約者”という言葉に、初めて実感が伴った。
それでも、私の日常は壊れない。
午後には紅茶を飲み、
本を読み、
いつも通り、少し眠る。
変わったのは、
「何かあっても、一人で受け止めなくていい」という事実だけ。
それは、とても静かで、
とても大きな違いだった。
婚約発表から三日が経った。
驚くほど、何も起きなかった。
屋敷に押しかける来客はなく、王城からの使者も姿を見せない。
噂話は外で勝手に膨らんでいるのだろうが、少なくともアルトワ家の中は、以前と変わらぬ静けさを保っていた。
(……拍子抜けするほどですわね)
私は午前の光が差し込む居間で、ソファに身を沈めていた。
膝の上には本。
テーブルには、淹れたての紅茶。
完璧な午前だ。
――その均衡が、ほんの少しだけ揺れたのは、控えめなノック音だった。
「お嬢様」
マルタが、やや緊張を含んだ声で呼ぶ。
「どうしましたの?」
「……グラーフ侯爵がお見えです」
私は、ぱちりと瞬きをした。
「侯爵が?」
「はい。事前の連絡はなく、“少し顔を出しただけ”とのことですが……」
その言い回しに、私は思わず小さく笑ってしまった。
(本当に、余計なことをなさらない方ですわね)
「お通ししてくださいな」
マルタは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いた。
「かしこまりました」
数分後、庭に面した小さな応接間に、アルベリク・フォン・グラーフ侯爵の姿があった。
相変わらず、静かな佇まい。
騒がしさとは、無縁の空気をまとっている。
「突然で、失礼しました」
私が入室すると、彼は立ち上がり、簡潔にそう言った。
「いえ。ご用があって来てくださったのでしょう?」
「はい。ただ……発表後、直接顔を合わせておくべきだと思いまして」
その理由は、分かりやすかった。
婚約が“書面上の関係”で終わらないことを、確認するため。
けれど、距離を詰めすぎないため。
彼らしい判断だ。
互いに席につき、紅茶が運ばれる。
一口含んでから、侯爵は口を開いた。
「周囲は、何か言っていますか」
「いいえ。特に」
私は正直に答えた。
「私の耳に入る範囲では、静かなものです」
「それは結構」
彼は短く頷く。
「余計な圧力がかかるなら、こちらで処理します」
――“盾になる”という言葉を、彼は相変わらず淡々と使う。
それが誇張でも、恩着せがましさでもないのが、不思議だった。
「ありがとうございます」
私は、静かに礼を述べた。
「ですが……今のところ、本当に問題はありませんの」
「ならば、それが最善です」
合理的な答え。
しばし、沈黙が落ちる。
居心地の悪さはない。
むしろ、言葉を足す必要がない沈黙だった。
「……一つ、確認しておきたいことがあります」
私が、先に切り出した。
「はい」
「今後、私たちはどの程度、顔を合わせることになりますの?」
少しだけ踏み込んだ問いだ。
侯爵は、すぐに答えなかった。
ほんの一瞬、考え、それから言う。
「必要最低限です」
その答えに、私は少しだけ笑った。
「安心しました」
「安心されるとは思いませんでしたが」
「私にとっては、とても重要ですわ」
そう言うと、彼はわずかに目を細めた。
「……ですが」
侯爵は続ける。
「“全く会わない”というのも、現実的ではありません」
「ええ。それは分かっています」
「ですから、提案があります」
私は、自然と姿勢を正した。
「月に一度程度。食事か、お茶の時間を」
「……定期的に?」
「はい。形式ではなく、確認のために」
確認。
その言葉が、妙にしっくり来た。
関係を深めるためではない。
崩れていないか、無理が生じていないか。
「……分かりましたわ」
私は、少し考えてから頷いた。
「それなら、負担になりません」
「では、それで」
合意は、それだけで成立した。
契約書も、誓約もない。
ただ、互いの生活を尊重するという、暗黙の了解。
それが、この関係の基盤だ。
しばらくして、侯爵は立ち上がった。
「今日は、これで」
「もう、お帰りになるのですか?」
「ええ。長居は不要でしょう」
私は、思わず微笑んだ。
「その通りですわ」
玄関まで見送ると、侯爵は一度だけ立ち止まり、振り返った。
「……あなたが無理をしていないか、それだけが気がかりでした」
その言葉は、驚くほど率直だった。
「していませんわ」
私は、はっきりと答える。
「今の私は、とても楽です」
侯爵は、それを聞いてから、静かに頷いた。
「それなら、よかった」
それだけ言って、彼は去っていった。
静寂が戻る。
私は、玄関ホールに一人残り、少しだけ考えた。
(……最初の一歩、ですわね)
大きな変化ではない。
劇的な出来事でもない。
けれど、確かに。
“婚約者”という言葉に、初めて実感が伴った。
それでも、私の日常は壊れない。
午後には紅茶を飲み、
本を読み、
いつも通り、少し眠る。
変わったのは、
「何かあっても、一人で受け止めなくていい」という事実だけ。
それは、とても静かで、
とても大きな違いだった。
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