完璧すぎると言われ婚約破棄された公爵令嬢は、白い結婚のはずの冷徹公爵にいつの間にか溺愛されていました

ふわふわ

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第25話 自覚なき一撃

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第25話 自覚なき一撃

 ノエリアは、自分が“何かをしている”という自覚が、まったくなかった。

 それが、問題だった。

 朝の執務室。

 いつも通りに用意された席。
 いつも通りに整えられた資料。
 そして、いつも通りに向かい合う――いや、並んで座るアレスト。

「……今日は、予定が詰まっていますわね」

 ノエリアは、資料を確認しながら、何気なく言った。

「ああ」

 アレストは短く答えつつ、
 彼女の手元に視線を落とす。

 彼女の指先は白く、細い。
 だが、迷いなくページをめくるその動きは、実に正確だ。

(……落ち着いている)

 それが、彼には少しだけ、眩しかった。

「午後の視察ですが」

 ノエリアが続ける。

「私も同行した方が、説明が早いかと」

 それは、合理的な判断だ。

 だが。

「……負担ではないのか」

 アレストは、無意識のうちにそう返していた。

「いいえ」

 即答。

「ここでの仕事は、
 私にとって負担ではありませんから」

 その言葉に、
 アレストの手が、ほんの一瞬止まる。

(……ここでの仕事は)

 ――“ここ”。

 彼女は、
 この屋敷を、
 この立場を、
 すでに“自分の居場所”として捉えている。

 昼。

 視察の準備を進める中で、
 ノエリアは一通の書簡を受け取った。

「……?」

 差出人を見て、
 わずかに眉をひそめる。

「どうした」

「王都からですわ」

 そう言って、内容に目を通す。

 元婚約者――
 フィリオン王太子の名は、そこにはない。

 だが。

「……遠回しですけれど」

 ノエリアは、苦笑する。

「“戻るつもりはないのか”という、
 確認のようです」

 アレストの空気が、わずかに変わった。

「……返事は」

「不要です」

 迷いのない声。

「すでに、答えは出ていますから」

 そう言って、
 書簡を静かに畳む。

 その所作に、
 未練は一切ない。

 アレストは、その横顔を見て、
 胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。

(……彼女は)

 振り返らない。

 過去に、
 一度も、縋っていない。

 それが、
 彼にはどうしようもなく――

(……誇らしい)

 午後の視察は、順調に進んだ。

 ノエリアの説明は的確で、
 現場の責任者たちも納得している。

「奥様の説明は、分かりやすいです」

「いえ。
 皆様が、きちんと仕事をしてくださっているからです」

 そう返す、その姿勢。

 上に立つ者の、
 理想的な態度。

 アレストは、少し離れた位置から、その様子を見ていた。

(……自然だ)

 彼女は、
 “奥様らしく振る舞っている”のではない。

 最初から、そういう人間だったかのようだ。

 視察の途中、
 段差のある場所に差し掛かった。

 ノエリアは、足を止める。

「……こちらは、少し注意が必要ですわね」

 そう言った直後。

 アレストは、何も言わず、手を差し出していた。

 一瞬。

 ノエリアは、迷った。

 だが。

「……ありがとうございます」

 そう言って、
 自然に、その手を取る。

 ほんの一瞬の接触。

 だが、
 その温度は、はっきりと伝わった。

 アレストは、呼吸を乱さないよう、細心の注意を払っていた。

(……無自覚)

 彼女は、
 どれほど危険な行為をしているのか、
 分かっていない。

 視察を終え、
 屋敷に戻る馬車の中。

 沈黙が、心地よく流れていた。

「……今日も、ありがとうございました」

 ノエリアが、ふとそう言う。

「何に対してだ」

「すべて、ですわ」

 そう言って、微笑む。

 その笑顔は、
 気負いも、計算もない。

 ただ――
 信頼だけでできている。

 アレストは、視線を逸らした。

(……これ以上は)

 理性が、警鐘を鳴らす。

 だが。

「……私」

 ノエリアが、続ける。

「ここへ来て、本当に良かったと思っています」

 それは、
 過去を否定する言葉ではない。

 未来を語る言葉でもない。

 ただ、
 “今”を肯定する言葉。

 ――それが、一番強い。

 アレストは、
 ついに理解した。

(……私は)

 もう、とっくに。

 彼女に、落ちている。

 だが、
 彼女自身は――

(……まったく、気づいていない)

 屋敷に戻り、
 ノエリアは自室へ向かう。

 振り返って、軽く手を振った。

「では、また後ほど」

 その何気ない仕草が、
 致命的だった。

 アレストは、その場に立ち尽くす。

(……無自覚で、ここまで)

 これはもう、
 防げない。

 ノエリア・シュヴァルツクロイツは、
 何も知らないまま、完全に、彼の心を射抜いていた。


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