婚約破棄? それより南方貿易が忙しいのですが

ふわふわ

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第四話 署名の重さ

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第四話 署名の重さ

「読む必要があるか?」

王太子ディルクは、羊皮紙をひらひらと振った。

南方連合との通商条約改訂案。
関税率、航路優先権、紛争処理条項、債務保証条項。

どれも国家の根幹に関わる内容だ。

「殿下、第五条と第八条は特にご確認を」

私は穏やかに言う。

「第五条は港湾使用料の優遇条件、第八条は債務不履行時の――」

「細かい」

彼は遮る。

「どうせ南方の連中が有利になるよう書いているのだろう?」

「双方の利益均衡を図った条文です」

「均衡など不要だ。我が国が上だ」

彼は羽根ペンを取る。

躊躇なく。

読みもせず。

署名欄に名前を書き、王家の国璽を押す。

重い音が、机に響いた。

それは、国家の責任の音。

だが彼は満足げに笑う。

「これでいい。次だ」

書類は束ねられ、正式文書として保管される。

魔導記録装置も、淡く光を残している。

私はゆっくりと視線を落とす。

第八条。

債務不履行時、人的担保による清算を認める。

その条文は、彼の署名で確定した。

彼は知らない。

知らないまま、国家を縛った。

「ハーレイ」

彼が軽く顎を上げる。

「お前がいると楽だな。面倒な書類は全部処理してくれる」

処理。

私は頷く。

「殿下のご負担を軽減できて光栄です」

「王族は大局を見る存在だ。細部に囚われてはならぬ」

細部。

細部こそが、国家を動かす。

条文一行で戦争が起きる。

一つの語句で同盟が崩れる。

だが彼は大局を語り、条文を捨てる。

「南方連合など、我が国に依存している」

彼は立ち上がる。

「香料を売るしか能がない連中だ」

香料。
砂糖。
薬草。
海上輸送網。

王都の商人は南方の信用証券で動いている。

信用。

それを築くのは時間だ。

壊すのは、一言。

「蛮族の契約など信用できぬ」

彼は言う。

だが契約は、すでに成立している。

彼の署名で。

執務室を出ると、侍女が控えていた。

「記録の写しを、公爵家の文庫へ」

「かしこまりました」

廊下を歩く足音が、やけに静かに響く。

王太子は気づいていない。

署名とは、言葉よりも重いことに。

「お嬢様」

財務官が追いつく。

「第八条の件ですが」

「確認済みです」

「よろしいのですか」

私は足を止める。

「殿下が自らご承認なさいました」

法は感情を見ない。

署名を見ます。

王太子は玉座の間で、平民娘に新しい宝石を与えているらしい。

「ほら、南方産だ。蛮族の作る装飾品だが、悪くない」

悪くない。

その蛮族が、今や最大債権者。

皮肉だ。

私は王城の窓辺に立つ。

港の方角に視線を向ける。

南方船団の帆が風を受けている。

彼らは契約を重んじる。

侮辱は忘れない。

そして署名は、必ず履行させる。

王太子は思っている。

自分は常に守られると。

王族だから。

だが条文は王族も縛る。

王籍があれば。

もしそれがなくなったら?

私は目を閉じる。

感情は不要。

処理のみ。

侮辱発言。
外交悪化。
債務増加。
署名完了。

すべて整い始めている。

夕刻。

南方連合からの正式返信が届く。

文面は丁寧。

だが冷たい。

「貴国王太子殿下のご署名を確認いたしました。条約は完全に成立しております」

完全に。

逃げ道はない。

私は小さく頷く。

「保管を」

署名の重さを、彼はまだ知らない。

国璽の音は軽かった。

だがその響きは、遠くまで届いている。

王太子ディルクは、自らの手で首に縄をかけた。

そしてその縄が何でできているかも、理解していない。

私は静かに呟く。

「承知いたしました、殿下」

それは同意ではない。

確定だ。

終わりに向けた、確定。
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