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第1話 婚約破棄は、最高のスタート地点
しおりを挟む玉座の間は、いつも通りに豪奢だった。
磨き上げられた大理石の床、天井から垂れ下がる重厚なシャンデリア、左右に並ぶ貴族たちの視線。そのすべてが、「ここで重要な出来事が起きます」と声高に主張している。
――なるほど。
アルフェッタ・アルファロメオは、静かに息を吸った。
数日前、唐突に前世の記憶を取り戻した。それは世界を変える知識でも、便利な発明の設計図でもなかった。ただ、「これは物語でよく見る展開だ」と理解できる視点が、ぽつりと頭の中に増えただけだ。
正面に立つのは、王太子エラン・ロータス。
わざとらしい咳払いのあと、彼は満足げに口を開いた。
「アルフェッタ・アルファロメオ公爵令嬢」
一歩前に出る。
背筋を伸ばし、顔を上げる。自分でも不思議なほど、心は落ち着いていた。
「本日をもって、君との婚約を破棄する」
ざわり、と空気が揺れた。
貴族たちの間に走るのは、驚きと期待と、ほんの少しの好奇心。公爵令嬢の婚約破棄は、十分すぎるほどの“話題”だ。
――来ましたわ。
(異世界転生名物、婚約破棄イベント……)
(どうしよう、なんだかワクワクしてきましたわ)
胸の奥が、きゅっと弾む。
普通なら悲劇とされる場面だ。泣き崩れ、縋り、恨み言の一つも言うのが“正解”なのだろう。
けれど、アルフェッタの考えは違った。
幸運イベントも、不幸イベントも。
どちらも「楽しむために存在する」。
ならばこれは――
自由への合図であり、物語が動き出す音であり、新しい遊び場が開く瞬間だ。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
形式通りに尋ねると、王太子は待っていましたと言わんばかりに頷いた。
「君は優秀すぎる。政務の場でも、学問の場でも、非の打ちどころがない」
一瞬、間を置く。
「だが――可愛げがない」
……はい、出ました。
(きましたわ、テンプレ理由)
(そして、これは建前。裏にはだいたい、別の女性がいますのよね)
妙に納得してしまい、怒りも悲しみも湧いてこない。
アルフェッタは、ゆっくりと一礼した。
「承知いたしました」
あまりにもあっさりした返答に、王太子がわずかに目を見開く。
「……異議はないのか?」
「ございませんわ」
声は静かで、感情の揺れもない。
「殿下がそうお決めになった。それだけのことですもの」
ざわめきが広がる。
泣かない。責めない。取り乱さない。周囲が期待していた“悲劇の公爵令嬢”は、どこにもいなかった。
――あれ?
――もっと荒れるのでは?
そんな戸惑いが、視線となって突き刺さる。
アルフェッタはそれらを気にも留めず、もう一度だけ丁寧に頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」
踵を返し、玉座の間を後にする。
重厚な扉が閉まった、その瞬間――
「……ふふ」
思わず、笑みがこぼれた。
長い廊下には、誰もいない。
確認してから、彼女はスカートを軽く持ち上げる。
スキップ。
もう一度、スキップ。
「あしたから、何をしようかしら……」
婚約はなくなった。
だが、公爵令嬢という立場も、資金も、時間も、何一つ失っていない。むしろ、面倒な制約が一つ消えただけだ。
歩きながら、ふと思う。
(異世界転生は大流行だって聞きますけれど)
(それでも、実際に体験できる人は圧倒的に少ないはず)
だから――
(こんな幸運、全力で楽しまなければ損ですわ)
幸運なら、遠慮なく味わえばいい。
不幸なら、角度を変えて楽しめばいい。
それだけのこと。
「せっかく異世界に来たのですもの」
廊下を進みながら、彼女は小さく呟く。
「世界のほうに、付き合ってもらいましょう」
攻略するつもりも、救うつもりもない。
ただ、この異世界転生生活を――
全力で、楽しむために。
アルフェッタ・アルファロメオは、軽やかな足取りで歩き続けた。
ここから始まるのは、復讐でも改革でもない。
――彼女が世界を満喫する物語だ。
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