婚約破棄で異世界転生を100倍楽しむ方法 ‐漫画喫茶は教育機関ではありません‐

ふわふわ

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第16話 ……そんな知識、無かったわ

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第16話 ……そんな知識、無かったわ

 アルフェッタは、読書部屋の椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。

 机の上には、何も書かれていない紙が一枚。
 ペンもある。
 だが、インクにはまだ触れていない。

(前世知識を売らない)

 そう決めたのは、昨日だ。
 気分ではない。結論だ。

 それでも――

(では、私に“売れる知識”があったかしら?)

 その問いが、今になって浮かんできた。

 アルフェッタは、天井を見上げる。

 前世の自分。
 特別な研究者でも、技術者でもない。
 政治や経済を動かす立場でもなかった。

 どこにでもいる、普通の社会人。

(思い出してみましょうか)

 前世で知っていたこと。
 できたこと。

 料理――
 家庭料理はできる。
 だが、革新的かと言われれば違う。

(この世界の料理長のほうが、ずっと上ですわね)

 農業――
 知識は断片的。
 育てたことも、少しだけ。

(専門家には、敵いません)

 道具や仕組み――
 便利なものは知っている。
 だが、それを一から再現できるかと問われれば、怪しい。

(……作れませんわね)

 火薬?
 蒸気機関?
 医療技術?

 名前は知っている。
 原理も、ぼんやりと。

 だが、それをこの世界で実用化するには、
 知識も、時間も、責任も足りない。

 アルフェッタは、ふっと笑った。

「……そんな知識、ありませんでしたわね」

 声に出して言うと、驚くほど気が楽になった。

 前世知識で無双する転生者。
 確かに、魅力的な物語だ。

 けれどそれは――

(“知っている人”の話)

 全員がそうではない。

 知識がなければ、無理に探す必要もない。
 できないことを、できるふりをする必要もない。

(私は、私ですわ)

 万能ではない。
 革命家でもない。
 英雄でもない。

 ただ――
 楽しむことは、知っている。

 アルフェッタは、窓の外を見る。

 庭では、使用人たちがいつも通りに動いている。
 森も、川も、昨日と同じ姿でそこにある。

(それで、十分では?)

 前世では、「何ができるか」で自分を測っていた。
 役に立つか。
 価値があるか。

 だが今は、違う。

(ここでは、“どう在るか”ですわ)

 静かでいること。
 無理をしないこと。
 自分が心地いい場所を選ぶこと。

 それは、前世の知識ではない。
 けれど、前世の経験があったからこそ分かる。

 アルフェッタは、紙を手に取り、端を軽く指で叩いた。

(売れる知識は、ない)
(でも、無駄な経験は、ありませんでしたわね)

 忙しさに疲れたこと。
 評価に縛られたこと。
 「やらなければならない」に追われたこと。

 それらすべてが、今の判断基準になっている。

(だから私は)

(“頑張らない”を選べる)

 その選択は、意外と難しい。
 何もしないことは、不安を呼ぶ。

 だが、今の彼女には、それを受け止める余裕があった。

 侍女が、そっと扉を叩く。

「アルフェッタ様、お茶をお持ちしました」

「ありがとう」

 カップを受け取り、香りを楽しむ。

 このお茶も、特別な製法ではない。
 新しい知識も、工夫もない。

 それでも、美味しい。

(知識がなくても)
(楽しめるものは、たくさんありますわね)

 アルフェッタは、小さく息を吐いた。

 肩の力が、完全に抜けた感覚。

 無理をしない。
 背伸びをしない。
 できないことを、認める。

(……ずいぶん、大人になりましたわ)

 前世の自分よりも。
 そして、この世界の多くの貴族よりも。

 異世界転生生活十六日目。
 アルフェッタは今日、何も始めていない。

 だが確実に――
 「できない自分」を、心から受け入れた。

 それは、
 この先で「できること」を見つけるための、
 いちばん大切な準備だった。
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