婚約破棄された千年転生令嬢は、名も居場所も縛られずに生きると決めました ――助けを乞うなら条件付きですわあ

ふわふわ

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第14話 その名を呼ばれる日が来るとは思いませんでした

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第14話 その名を呼ばれる日が来るとは思いませんでした

 ガルディア王国での朝は、静かだ。
 窓を開けると、遠くで市場の準備をする音が聞こえる。鍋の触れ合う軽やかな音、パンの焼ける匂い。――平和、という言葉がこれほど具体的に感じられる場所も、そう多くはない。

(……のんびり、でしたわね)

 そう心の中で確認しながら、私は身支度を整えた。
 肩書きはない。指示もない。予定表も白紙。
 それなのに、胸の奥が満たされているのだから不思議だ。

 扉を叩く音がした。

「入って」

 現れたのは、例の青年――今では城内で“調整役”と呼ばれている人物だ。
 相変わらず、飾り気のない装い。けれど、その背筋は今日も真っ直ぐだった。

「少し、いいか」

「ええ。どうぞ」

 彼は一歩だけ中へ入り、言いにくそうに視線を外す。

「……君の名前が、街で出始めている」

 私は、思わず瞬きをした。

「名前、ですって?」

「ああ。正確には――“呼び名”だが」

 彼は短く説明した。
 疫病の後始末が進むにつれ、人々の間で「名を名乗らぬ治療師」の話が増え、
 やがて、それでは不便だという声が上がったのだという。

「“あの人”“あの方”では、伝えにくいからな」

(……あら)

 それは、予想外だった。
 英雄視は避けたい。私は、仕組みだけを残して去るつもりだったのだから。

「で、どんな呼び名かしら」

「……“静医(せいい)様”だそうだ」

 一瞬、間が空いた。
 それから私は、吹き出した。

「……あはは。ずいぶん、落ち着いた響きですわね」

「悪くないと思う」

 彼は、真面目に言った。

「奇跡ではなく、静かに治した」
「騒がず、奪わず、残した」
「そういう意味らしい」

 私は、少しだけ考える。

(千年分の人生で……そんな呼ばれ方は、初めてですわ)

 聖女。賢者。英雄。魔女。
 どれも、大きすぎて、重すぎた。

「……放っておきましょう」

 私は、微笑んだ。

「名前は、必要になった時にだけ、役に立つものです」
「今は、まだ」

 彼は納得したように頷いた。

「それでいい」

 昼。
 市場を歩いていると、何人かが私に会釈をする。
 誰も、騒がない。
 けれど、その視線には確かな信頼があった。

「……静医様、こんにちは」

 小さな声で呼ばれ、私は足を止める。
 振り向くと、以前診た子どもと、その母親が立っていた。

「今日は、もう大丈夫そうです」

「それは、良かったですわ」

 短い会話。
 それだけで、十分だった。

 夜。
 部屋に戻り、灯りを落とす。

 名前を呼ばれる。
 役割を押し付けられない形で。

(……悪くありませんわね)

 私は静かに息を吐いた。

 選ばれなくても、
 名を名乗らなくても、
 それでも、人は誰かの記憶に残る。

 そして、必要な時にだけ――
 そっと、名を呼ばれる。

「……千年かかりましたわ」

 そう呟いて、目を閉じる。

 この国で、私はまだ何者でもない。
 けれど、それこそが――
 今の私にとって、何よりの居場所だった。
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