婚約破棄された千年転生令嬢は、名も居場所も縛られずに生きると決めました ――助けを乞うなら条件付きですわあ

ふわふわ

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第31話 名を持たない者の明日は、静かに始まりますわ

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第31話 名を持たない者の明日は、静かに始まりますわ



 朝露が、草の先で細かく光っていた。
 宿を出ると、空気はひんやりと澄み、肺の奥まで新しい息が行き渡る。

(……良い朝ですわ)

 私は軽く肩を回し、街道へ足を向けた。
 行き先は、相変わらず決めていない。
 地図も、予定も、使命もない。
 それでも歩けるのは、もう「行かねばならない場所」がないからだ。

 思えば、千年の転生のほとんどは、
 「呼ばれたから行く」
 「期待されたから応える」
 その繰り返しだった。

 聖女として祀られ、
 賢者として恐れられ、
 英雄として利用される。

 名を与えられた瞬間から、
 私は私ではなくなった。

(……それが、今は)

 ただの旅人。
 誰かの物語の中心ではない存在。

 午前、川沿いの道を進む。
 水辺では村人たちが洗濯をし、
 子どもたちが石を投げて遊んでいる。

「おはようございます」

 声をかけられ、私は頷く。

「ええ、おはよう」

 それだけで終わる挨拶。
 私の素性を探る視線はない。
 期待も、警戒もない。

(……こんなに、楽だったのですね)

 少し先で、古い木橋の補修作業が行われていた。
 若者が板を運び、年配の者が静かに指示を出す。

「そこ、釘をもう一本」
「よし、それでいい」

 誰も偉そうに振る舞わない。
 誰も奇跡を求めない。
 ただ、今日を回すための判断をしている。

 私は立ち止まり、しばらく眺めた。

(……ちゃんと、世界は回っていますわね)

 英雄がいなくても。
 聖女が奇跡を起こさなくても。

 昼前、道端で簡単な食事を取る。
 乾いたパンと果実、水。
 豪華ではないが、十分だ。

 食べながら、ふと思う。

 もし、あの国が再び混乱したら?
 もし、別の土地で同じ過ちが起きたら?

 答えは、以前なら即座に出ただろう。
 ――私が行く。

 だが今は、違う。

(判断するのは、その場の人)

 私は、助言ならする。
 頼まれれば、手を貸す。
 けれど、決断を奪わない。
 背負い込まない。
 象徴にならない。

 それは冷たさではない。
 相手を、対等な存在として扱うということだ。

 午後、小さな町に入る。
 掲示板には、祭りの告知や仕事の募集が貼られている。

「収穫祭、三日後開催」
「菓子職人・臨時手伝い募集」

 私は、思わず足を止めた。

(……お菓子作り、ですか)

 千年前なら、
 そんな紙切れを見る余裕すらなかった。

 けれど今は、
 「やってみようかしら」と思える。

 英雄譚には、決して載らない一日。
 だが、私がずっと欲しかったのは、
 こういう選択肢だった。

 夕方、宿に戻ると、女将が声をかけてくる。

「旅の方、明日も泊まりますか?」

「ええ」
 私は微笑んだ。
「少し、ゆっくりしますわ」

 夜。
 窓辺に腰掛け、街の灯りを眺める。

 どれも小さく、
 どれも控えめで、
 それでも確かに続いている。

 かつて私は、
 世界を照らす“強い光”であろうとした。

 けれど今は分かる。

 世界を支えているのは、
 名もなき、無数の灯りだ。

(……私も、その一つでいい)

 名を持たない者の明日は、
 静かに始まり、
 静かに終わる。

 誰にも奪われず、
 誰にも押し付けられない時間。

 私は灯りを落とし、目を閉じた。

 ――これでいい。
 それ以上の結末は、いらない。

 明日もまた、
 名を持たないまま、
 世界の片隅で息をする。

 それが、
 千年転生して辿り着いた、
 私の“自由”なのだから。
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