37 / 42
第35話 名前を残さない優しさは、思い出にだけ残りますわ
しおりを挟む
第35話 名前を残さない優しさは、思い出にだけ残りますわ
夜明け前、私は焚き火の跡を丁寧に踏み消した。
赤く残っていた炭が、足裏の圧で静かに崩れ、灰へと変わる。
(……これで、十分)
灰は風に舞い、ほどなく地面と同じ色になる。
誰かが通っても、気づかないだろう。
それでいい。
名を残さない。
痕跡を誇らない。
去る者がすべきことは、いつの時代も同じだ。
朝の道は薄い霧に包まれていた。
遠くで羊の鈴が鳴り、牧人の低い声がかすかに混じる。
世界は、今日も当たり前に動いている。
(……いい朝ですわね)
歩きながら、私は思い出す。
かつての私は、この「当たり前」を守るために、
どれほどの力を振るい、どれほどの名を背負ってきたのかを。
午前、谷あいの小さな集落に辿り着いた。
石造りの家が数軒、畑と果樹、井戸がひとつ。
大きな問題は見当たらないが、余裕もない――
そんな、どこにでもある集落。
井戸のそばで、年配の女性が水桶を落とした。
「あら……」
桶は横倒しになり、水が地面に染み込んでいく。
怒りも嘆きもなく、ただ困ったような声。
「お手伝いしましょうか」
私はそう言いながら、すでに手を伸ばしていた。
女性は一瞬こちらを見て、軽く頷く。
「助かるよ」
桶を引き上げ、縁に掛ける。
力は要らない。
時間も取らない。
「ありがとうね」
「どういたしまして」
それだけ。
名を聞かれない。
素性も問われない。
(……この距離感)
かつての私は、助ければ助けるほど、
説明を求められ、理由を問われ、
やがて期待を背負わされた。
今は違う。
一息分の手助けだけを渡す。
昼前、畑の脇で子どもが転んだ。
膝に土、目に涙。
「いたい……」
私はしゃがみ込み、傷を洗い、布で軽く押さえる。
「大丈夫」
「すぐ、また走れますわ」
魔法は使わない。
治癒術も、必要ない。
子どもは不思議そうに私を見てから、
涙を拭って立ち上がった。
「……ほんとだ!」
そのまま走り去っていく。
礼も、名も、後ろ姿だけ。
(……それで、いい)
助けすぎない。
覚えさせない。
人は、自分で立った時の方が、強くなる。
午後、集落を出ようとした時、
背後から控えめな声がした。
「旅の方」
振り返ると、先ほどの女性が立っていた。
手には、小さな布袋。
「道中で食べな」
中身は、干し果実と硬いパン。
保存の利く、素朴なもの。
「……ありがとうございます」
受け取るが、返礼はしない。
返そうとすれば、勘定が生まれる。
(思い出にだけ、残ればいい)
夕方、丘の上から集落を見下ろす。
煙が一本、まっすぐ空に伸びている。
明日になれば、
彼らは今日の出来事を忘れるだろう。
忘れていい。
忘れるから、日常は軽くなる。
夜、小さな焚き火を起こし、湯を沸かす。
星は多く、音は少ない。
私は思う。
千年の転生の中で、
私は「覚えられる存在」であろうとし続けてきた。
英雄として、聖女として、象徴として。
けれど今は分かる。
名前を残さない優しさは、
歴史には残らない。
石碑にも、歌にもならない。
それでも――
誰かの一日を、ほんの少しだけ楽にする。
それで、十分だ。
私は湯を飲み干し、星空を見上げる。
明日もまた、どこかで一息分を渡すだろう。
名を名乗らず、約束もせずに。
名前を残さない優しさは、
思い出にだけ残る。
そして思い出は、
必要な時だけ、
人の背中を、そっと押すのだから
夜明け前、私は焚き火の跡を丁寧に踏み消した。
赤く残っていた炭が、足裏の圧で静かに崩れ、灰へと変わる。
(……これで、十分)
灰は風に舞い、ほどなく地面と同じ色になる。
誰かが通っても、気づかないだろう。
それでいい。
名を残さない。
痕跡を誇らない。
去る者がすべきことは、いつの時代も同じだ。
朝の道は薄い霧に包まれていた。
遠くで羊の鈴が鳴り、牧人の低い声がかすかに混じる。
世界は、今日も当たり前に動いている。
(……いい朝ですわね)
歩きながら、私は思い出す。
かつての私は、この「当たり前」を守るために、
どれほどの力を振るい、どれほどの名を背負ってきたのかを。
午前、谷あいの小さな集落に辿り着いた。
石造りの家が数軒、畑と果樹、井戸がひとつ。
大きな問題は見当たらないが、余裕もない――
そんな、どこにでもある集落。
井戸のそばで、年配の女性が水桶を落とした。
「あら……」
桶は横倒しになり、水が地面に染み込んでいく。
怒りも嘆きもなく、ただ困ったような声。
「お手伝いしましょうか」
私はそう言いながら、すでに手を伸ばしていた。
女性は一瞬こちらを見て、軽く頷く。
「助かるよ」
桶を引き上げ、縁に掛ける。
力は要らない。
時間も取らない。
「ありがとうね」
「どういたしまして」
それだけ。
名を聞かれない。
素性も問われない。
(……この距離感)
かつての私は、助ければ助けるほど、
説明を求められ、理由を問われ、
やがて期待を背負わされた。
今は違う。
一息分の手助けだけを渡す。
昼前、畑の脇で子どもが転んだ。
膝に土、目に涙。
「いたい……」
私はしゃがみ込み、傷を洗い、布で軽く押さえる。
「大丈夫」
「すぐ、また走れますわ」
魔法は使わない。
治癒術も、必要ない。
子どもは不思議そうに私を見てから、
涙を拭って立ち上がった。
「……ほんとだ!」
そのまま走り去っていく。
礼も、名も、後ろ姿だけ。
(……それで、いい)
助けすぎない。
覚えさせない。
人は、自分で立った時の方が、強くなる。
午後、集落を出ようとした時、
背後から控えめな声がした。
「旅の方」
振り返ると、先ほどの女性が立っていた。
手には、小さな布袋。
「道中で食べな」
中身は、干し果実と硬いパン。
保存の利く、素朴なもの。
「……ありがとうございます」
受け取るが、返礼はしない。
返そうとすれば、勘定が生まれる。
(思い出にだけ、残ればいい)
夕方、丘の上から集落を見下ろす。
煙が一本、まっすぐ空に伸びている。
明日になれば、
彼らは今日の出来事を忘れるだろう。
忘れていい。
忘れるから、日常は軽くなる。
夜、小さな焚き火を起こし、湯を沸かす。
星は多く、音は少ない。
私は思う。
千年の転生の中で、
私は「覚えられる存在」であろうとし続けてきた。
英雄として、聖女として、象徴として。
けれど今は分かる。
名前を残さない優しさは、
歴史には残らない。
石碑にも、歌にもならない。
それでも――
誰かの一日を、ほんの少しだけ楽にする。
それで、十分だ。
私は湯を飲み干し、星空を見上げる。
明日もまた、どこかで一息分を渡すだろう。
名を名乗らず、約束もせずに。
名前を残さない優しさは、
思い出にだけ残る。
そして思い出は、
必要な時だけ、
人の背中を、そっと押すのだから
10
あなたにおすすめの小説
婚約破棄から50年後
あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。
そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。
余命3ヶ月と言われたので静かに余生を送ろうと思ったのですが…大好きな殿下に溺愛されました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のセイラは、ずっと孤独の中生きてきた。自分に興味のない父や婚約者で王太子のロイド。
特に王宮での居場所はなく、教育係には嫌味を言われ、王宮使用人たちからは、心無い噂を流される始末。さらに婚約者のロイドの傍には、美しくて人当たりの良い侯爵令嬢のミーアがいた。
ロイドを愛していたセイラは、辛くて苦しくて、胸が張り裂けそうになるのを必死に耐えていたのだ。
毎日息苦しい生活を強いられているせいか、最近ずっと調子が悪い。でもそれはきっと、気のせいだろう、そう思っていたセイラだが、ある日吐血してしまう。
診察の結果、母と同じ不治の病に掛かっており、余命3ヶ月と宣言されてしまったのだ。
もう残りわずかしか生きられないのなら、愛するロイドを解放してあげよう。そして自分は、屋敷でひっそりと最期を迎えよう。そう考えていたセイラ。
一方セイラが余命宣告を受けた事を知ったロイドは…
※両想いなのにすれ違っていた2人が、幸せになるまでのお話しです。
よろしくお願いいたします。
他サイトでも同時投稿中です。
兄を溺愛する母に捨てられたので私は家族を捨てる事にします!
ユウ
恋愛
幼い頃から兄を溺愛する母。
自由奔放で独身貴族を貫いていた兄がようやく結婚を決めた。
しかし、兄の結婚で全てが崩壊する事になった。
「今すぐこの邸から出て行ってくれる?遺産相続も放棄して」
「は?」
母の我儘に振り回され同居し世話をして来たのに理不尽な理由で邸から追い出されることになったマリーは自分勝手な母に愛想が尽きた。
「もう縁を切ろう」
「マリー」
家族は夫だけだと思い領地を離れることにしたそんな中。
義母から同居を願い出られることになり、マリー達は義母の元に身を寄せることになった。
対するマリーの母は念願の新生活と思いきや、思ったように進まず新たな嫁はびっくり箱のような人物で生活にも支障が起きた事でマリーを呼び戻そうとするも。
「無理ですわ。王都から領地まで遠すぎます」
都合の良い時だけ利用する母に愛情はない。
「お兄様にお任せします」
実母よりも大事にしてくれる義母と夫を優先しすることにしたのだった。
旦那様。私が悪女ならば、愛人の女は何になるのかしら?
白雲八鈴
恋愛
我が公爵家主催の夜会の最中。夫が愛人を連れてやってきたのです。そして、私を悪女という理由で離縁を突きつけてきました。
離縁して欲しいというのであれば、今まで支援してきた金額を全額返済していただけません?
あら?愛人の貴女が支払ってくれると?お優しいわね。
私が悪女というのであれば、妻のいる夫の愛人に収まっている貴女は何なのかしら?
幼い頃、義母に酸で顔を焼かれた公爵令嬢は、それでも愛してくれた王太子が冤罪で追放されたので、ついていくことにしました。
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
設定はゆるくなっています、気になる方は最初から読まないでください。
ウィンターレン公爵家令嬢ジェミーは、幼い頃に義母のアイラに酸で顔を焼かれてしまった。何とか命は助かったものの、とても社交界にデビューできるような顔ではなかった。だが不屈の精神力と仮面をつける事で、社交界にデビューを果たした。そんなジェミーを、心優しく人の本質を見抜ける王太子レオナルドが見初めた。王太子はジェミーを婚約者に選び、幸せな家庭を築くかに思われたが、王位を狙う邪悪な弟に冤罪を着せられ追放刑にされてしまった。
[完結]気付いたらザマァしてました(お姉ちゃんと遊んでた日常報告してただけなのに)
みちこ
恋愛
お姉ちゃんの婚約者と知らないお姉さんに、大好きなお姉ちゃんとの日常を報告してただけなのにザマァしてたらしいです
顔文字があるけどウザかったらすみません
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
知らぬはヒロインだけ
ネコフク
恋愛
「クエス様好きです!」婚約者が隣にいるのに告白する令嬢に唖然とするシスティアとクエスフィール。
告白してきた令嬢アリサは見目の良い高位貴族の子息ばかり粉をかけて回っていると有名な人物だった。
しかも「イベント」「システム」など訳が分からない事を言っているらしい。
そう、アリサは転生者。ここが乙女ゲームの世界で自分はヒロインだと思っている。
しかし彼女は知らない。他にも転生者がいることを。
※不定期連載です。毎日投稿する時もあれば日が開く事もあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる