選ばれなかった令嬢は、何も選ばずにすべてを手に入れる

ふわふわ

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第二十三話 名も呼ばれぬ実務

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第二十三話 名も呼ばれぬ実務

 朝の光が、机の端をなぞるように差し込んだ。
 私はその線を目で追いながら、今日という一日が、昨日と同じでも違っても構わないと感じていた。呼ばれない。名が出ない。だが、動かないわけではない。

 ――実務は、名を呼ばれなくても進む。

 書斎の引き出しから、薄い綴りを取り出す。ここ数日、私が自分のためにまとめてきた覚え書きだ。法整備の論点、契約文言の曖昧さ、期限設定の有無がもたらす影響。誰に提出する予定もない。だが、書くことで、判断は澄む。

 午前中、補佐官が控えめに入室した。

「お嬢様、特に公式な動きはありません。
 ……ただ、いくつかの部署で“運用の見直し”が始まったようです」

「私の名前は?」

「出ていません」

 私は頷いた。

「なら、問題ありません」

 補佐官は、少し首を傾げた。

「影響があるのに、名が出ない。
 それは……」

「健全です」

 私は、はっきりと言った。

「制度は、個人名で動くべきではありません」

 彼は納得したように一礼して下がった。

 昼前、私は作業室に移り、紙を広げた。今日は“結論”を書かないと決めている。代わりに、前提条件だけを列挙する。誰が決めるのか。どこまで決められるのか。例外はどこに置くのか。前提が揃えば、結論は自然に狭まる。

 ――実務とは、結論を急がない技術だ。

 午後、屋敷の門前で小さな騒ぎがあった。護衛が一人の男を連れてくる。地方の役人だという。肩書きは低いが、目は落ち着いている。

「失礼を承知で参りました。
 正式な面会ではありません。ですが……」

「名は?」

「要りません」

 即答だった。

 私は応接間に通し、短く用件を聞いた。地方での契約慣行が、中央の暫定指針と噛み合っていない。期限を設けると反発が出る。だが、設けなければ揉める。現場は板挟みだ。

「意見をください」

 彼は、正直に言った。

 私は、少し考え、答えた。

「期限を“決断”ではなく、“確認”に使ってください。
 期限までに、条件が揃っているかを確認する。揃っていなければ、進まない。
 それだけで、現場は守られます」

 彼は、目を見開いた。

「……決めない、という決め方ですね」

「はい。決めないことを、決める」

 彼は深く礼をし、名も残さず去っていった。

 夕刻、私は庭を歩いた。冬の風が、木々の枝を鳴らす。名も呼ばれぬ実務は、こうして静かに続く。誰かの拍手も、批判も伴わない。だが、現場は助かる。

 夜、書斎で灯りを点け、今日の覚え書きを閉じた。提出先はない。だが、必要な人には、必要な形で届く。名を介さずに。

 私は、白紙の端に小さく書いた。

 ――「名がないほど、実務は自由だ」。

 灯りを落とし、窓の外を見る。街は眠りに向かっている。
 私は確信していた。

 名も呼ばれぬ実務は、静かだ。
 だが、その静けさこそが、
 混乱を遠ざけ、判断を守る。

 明日も、私は呼ばれないかもしれない。
 それでいい。
 名を呼ばれずとも、進む仕事がある限り、
 私はここで、選び続ける。
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