選ばれなかった令嬢は、何も選ばずにすべてを手に入れる

ふわふわ

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第三十二話 呼び戻されない静けさ

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第三十二話 呼び戻されない静けさ

 朝、屋敷の中に流れる音が変わったことに、私はすぐ気づいた。
 鐘は鳴らない。足早な廊下の気配もない。名前を呼ぶ声が、どこからも上がらない。

 ――呼び戻されない。

 それは拒絶ではなく、沈黙だ。
 そしてこの沈黙は、思った以上に厚みがある。

 書斎に入ると、窓辺の光が机の端に留まっていた。私は椅子に腰を下ろし、しばらくその光の輪郭を眺めた。昨日まであったはずの“引き留められる予感”が、きれいに消えている。

 午前中、補佐官が控えめに入室した。

「お嬢様、念のため確認ですが……本日も、特段の予定はありません」

「はい」

「王都からの急使も……来ておりません」

 彼は、少し言葉を選ぶ。

「“戻ってほしい”という話も」

「ええ」

 私は頷いた。

「それが、今日の報告ですね」

 補佐官は微笑み、深く一礼して下がった。
 “ない”という報告が、こうも落ち着いたものになるとは、以前は想像もしなかった。

 ――呼び戻されない静けさは、完成形だ。

 昼前、私は屋敷の奥にある回廊を歩いた。壁には、過去の肖像画が並んでいる。誰もが役割を引き受け、名を背負い、期待に応えた人々だ。

 私は、一枚一枚の前で足を止めなかった。
 敬意はある。だが、回帰はない。

 午後、屋敷の門前で、久しぶりに使者が現れた。若い官吏で、表情に迷いがある。

「……お時間を、少しだけ」

 私は頷き、応接間に通した。

「呼び戻す話ですか?」

 彼は、驚いたように目を瞬かせる。

「いえ。
 正確には……“戻らない前提で、どう進めるか”の確認です」

 私は、ゆっくりと息を吐いた。

「良い変化ですね」

「はい。
 あなたが戻らないことで、判断の所在が明確になりました」

 彼は、少し照れたように続ける。

「……正直に言うと、楽になりました」

「それは、何よりです」

 短い会話だった。
 彼は、呼び戻しに来たのではない。
 呼び戻さないと決めた現実を、確かめに来ただけだ。

 夕刻、私は庭に出た。風が冷たく、空は高い。枝先が揺れ、落ち葉が一枚、足元に転がる。

 ――戻らない場所は、もう十分にある。
 ――呼び戻されない今は、過剰だ。

 それ以上、何も足さなくていい。

 夜、書斎で灯りを点ける。白紙を前にし、今日は言葉を選んだ。多くは要らない。一行で足りる。

 ――「呼び戻されない静けさは、私の居場所だ」。

 私はペンを置き、椅子から立ち上がった。

 呼び戻されないということは、孤独ではない。
 それは、戻る必要のない場所を、すでに見つけたという証だ。

 誰かの呼び声に反応しない夜は、
 驚くほど深く、呼吸ができる。

 窓を閉め、灯りを落とす。
 外は静かで、内側も静かだった。

 ――明日も、呼び戻されないだろう。

 それでいい。
 この静けさこそが、
 私が選び続けた結果なのだから。
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