選ばれなかった令嬢は、何も選ばずにすべてを手に入れる

ふわふわ

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第三十六話 手放したあとに残る温度

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第三十六話 手放したあとに残る温度

 朝、指先に残る感覚で、私は目を覚ました。
 夢の内容は思い出せない。だが、温度だけが確かに残っている。冷たくも、熱くもない。手放したあとに残る、体温のようなものだ。

 ――何かを手放すと、空になると思っていた。

 けれど実際には、温度が残る。
 握っていたものを離した掌に、しばらく漂う、あの感触だ。

 窓を開けると、冬の空気が静かに流れ込む。刺さるほど冷たいはずなのに、今日はやわらかい。季節が変わったわけではない。私の受け取り方が、変わったのだ。

 書斎に入り、机に手を置く。
 以前なら、ここに「何をするか」「何を決めるか」が並んでいた。今は、置かれていない。それでも、机は冷たくない。使われていないからこそ、触れる余地がある。

 午前中、補佐官が静かに入室した。

「お嬢様、本日も特段のご報告はありません」

「ありがとうございます」

 それだけで、会話は終わった。
 用件がないという事実が、もはや説明を必要としない。互いに、それを良い状態だと理解している。

 補佐官が去ったあと、私は椅子に腰を下ろし、手を膝に置いた。
 手放した役割。
 手放した判断。
 手放した期待。

 それらは、どこかへ消えたのではない。
 私の外側に戻り、世界の温度に溶けていった。

 昼前、私は屋敷の中庭へ出た。
 冬の光が、低い角度で地面を照らす。影は長く、輪郭ははっきりしている。曖昧さはない。だが、冷たさもない。

 使用人の一人が、黙って落ち葉を掃いている。
 私は声をかけなかった。
 彼も、私を見上げなかった。

 その距離感が、心地よい。

 ――手放すという行為は、距離を整えることだ。

 近すぎたものを、適切な位置へ戻す。
 遠すぎたものを、無理に引き寄せない。

 午後、私は屋敷を出て、川沿いの道を歩いた。水は澄み、流れは穏やかだ。手を浸すと、冷たい。それでも、すぐに慣れる。温度は、固定されたものではない。

 ベンチに腰を下ろし、流れを眺める。
 川は、何も握らない。
 来るものを拒まず、去るものを追わない。

 ――ああ、これでいい。

 夕刻、屋敷に戻ると、一通の短い便りが届いていた。
 差出人は書かれていない。

 「手放したあと、不思議と落ち着きました。
  何も持っていないはずなのに、温かいです」

 私は、その文を読み、静かに頷いた。
 温度は、共有できる。

 夜、書斎で灯りを点ける。
 白紙を前にし、今日は少しだけ書いた。

 ――「手放すと、温度が残る」。

 それは、後悔の熱ではない。
 執着の冷えでもない。

 ただ、確かに触れていたという事実の温度だ。

 私はペンを置き、椅子から立ち上がった。
 窓を開け、夜風を入れる。昼より冷たいはずなのに、心は穏やかだ。

 これからも、私は何かを手放すだろう。
 だが、そのたびに空になるわけではない。

 手放したあとに残る温度が、
 私が確かに生きている証として、
 静かに、掌に残り続ける。

 灯りを落とし、
 私はその温度を確かめるように、
 ゆっくりと目を閉じた。
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