選ばれなかった令嬢は、何も選ばずにすべてを手に入れる

ふわふわ

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第三十八話 選ばなかった未来が、背中を押す

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第三十八話 選ばなかった未来が、背中を押す

 朝、私は少しだけ早く目を覚ました。
 理由はない。外が騒がしかったわけでも、夢に起こされたわけでもない。ただ、目が覚めただけだ。

 ――選ばなかった未来が、もう背後に立っている。

 そんな感覚が、ふと胸に浮かんだ。

 窓を開けると、空は澄んでいた。
 冬の終わりが近づくと、空気は不思議な張りを帯びる。冷たいが、拒絶ではない。動く準備が整った空気だ。

 私はその中に立ち、深く息を吸った。

 書斎に入る。机の上は変わらない。
 何もない。
 だが、その「何もない」が、今日はいつもより重く感じられた。

 ――何もない、という状態は、始まりの直前だ。

 午前中、補佐官が静かに入ってきた。

「お嬢様、念のための確認です」

「はい」

「これまで“戻らなかった判断”について、現場からの問い合わせが続いていましたが……本日をもって、それも落ち着いたようです」

「そうですか」

 私は頷いた。
 問い合わせが終わるということは、判断が根づいたということだ。

「皆、“戻らない前提”で動き始めました」

 補佐官は、少し感慨深そうに言った。

「……もう、あなたが戻る余地を想定していません」

 私は、その言葉を静かに受け取った。

「それで、いいのです」

 戻る余地が想定されなくなったとき、
 人は初めて前だけを見る。

 補佐官が退室した後、私は椅子に腰を下ろし、両手を膝に置いた。
 背後に、何かの気配を感じる。

 振り返っても、誰もいない。
 だが確かに、背中が押されている。

 ――それは、選ばなかった未来だ。

 もし、あのとき選んでいたら。
 もし、あの役割を引き受けていたら。
 もし、戻っていたら。

 そのすべての可能性が、今は“過去にならなかった未来”として、背後に並んでいる。

 そして、どれも私を引き戻そうとはしない。
 ただ、静かに背中を押す。

 昼前、私は屋敷の外へ出た。
 目的地は決めていない。だが、歩き出す方向だけは自然と定まった。

 坂道を上り、少し高い場所へ向かう。
 息は切れない。歩幅も一定だ。

 頂上に着くと、街が一望できた。
 王都も、郊外も、すべてが視界に入る。

 私は思う。
 もし、どれか一つの未来を選んでいたら、
 この景色の一部しか、見えなかっただろう。

 選ばなかったからこそ、
 私は全体を見下ろしている。

 午後、屋敷に戻ると、一通の書状が届いていた。
 差出人は、以前から交流のあった人物――だが、肩書きはない。

 「あなたが選ばなかった道を、私は選びました。
  怖さはありますが、後悔はありません。
  あなたが背中を向けてくれたから、前に進めました」

 私は、その文を読み、そっと目を閉じた。

 選ばなかった未来は、無駄ではない。
 誰かの選択の余白になる。

 夕刻、私は作業室に入り、久しぶりに長く座った。
 白紙を前にするが、今日は書かない。

 代わりに、心の中で言葉を確かめる。

 ――選ばなかった未来は、私を責めない。
 ――私を引き止めない。
 ――ただ、前へ押す。

 それは、不思議な感覚だ。
 失われたはずの可能性が、
 今になって力を持つ。

 夜、書斎で灯りを点ける。
 私は白紙の端に、一行だけ書いた。

 ――「選ばなかった未来は、背中に立つ」。

 それは、追いかけてくる影ではない。
 逃げる必要もない。

 むしろ、
 立ち止まりそうになったとき、
 そっと背中を支えてくれる存在だ。

 私はペンを置き、椅子から立ち上がった。

 明日、私は何かを選ぶかもしれない。
 だが、それは過去の可能性を裏切る行為ではない。

 選ばなかった未来が、
 私を許し、
 私を押し、
 私を前へ送ってくれる。

 窓を開けると、夜風が穏やかに流れ込んだ。

 ――私は、もう怖くない。

 背後に立つ未来が、
 確かに、私を支えているのだから。

 その感覚を胸に、
 私は静かに灯りを落とした。
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