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第二話 敷地内ピクニック
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第二話 敷地内ピクニック
翌朝、目覚めは驚くほど穏やかだった。
鐘の音も、急かす声もない。時間を告げるものは、カーテン越しに差し込む柔らかな光だけだった。
彼女はしばらく天井を見つめ、それから身を起こす。予定はない。約束もない。今日一日を、どう使ってもよかった。
「……外に出ましょうか」
思いつきは、唐突だった。けれど否定する理由もない。呼び鈴を鳴らし、簡単な準備を頼む。豪奢な食事は不要だった。パンと果物、温かい紅茶があれば十分だ。
庭園へ続く扉を抜けると、空気が変わった。屋内とは違う、少し冷たい朝の匂い。湿り気を帯びた土と、草の香りが混じっている。足元の砂利が、かすかに音を立てた。
公爵邸の敷地は、広大だった。整えられた庭園の向こうに、小さな森が続き、その奥には湖があると聞いている。だが、彼女はこれまで、そこへ足を運んだことがなかった。遠目に眺めるだけで、十分だと思っていたからだ。
今日は、違う。
木陰を選び、布を広げる。地面に座るという行為は、久しぶりだった。背筋を伸ばす必要も、周囲の視線を気にする必要もない。ただ、そこに座る。
紅茶を口に含むと、思いのほか香りが強く感じられた。風が、葉を揺らす音がする。遠くで、水鳥の鳴き声がした。
「……静かですわね」
昨日も、同じ言葉を口にした気がする。けれど今日の静けさは、少し違っていた。閉じられた部屋の静けさではなく、広がりのある、逃げ場のある静けさだ。
彼女は空を見上げる。雲が、ゆっくりと流れていく。その速度を、これまで気にしたことはなかった。王宮の窓から見える空は、いつも同じ場所に留まっているように見えたからだ。
ふと、奇妙な感覚にとらわれる。
――わたくしは、この場所のことを、ほとんど知りませんのね。
ここは自分の家だ。正確には、自分の家の敷地だ。それなのに、歩いたことのない道、見たことのない木々、名前も知らない花が、当たり前のように存在している。
地図なら、知っている。報告書も、読んだことがある。数字と名前としての領地は、頭に入っていた。けれど、それらは紙の上の情報でしかなかった。
風が吹き、草が揺れ、その間を光が走る。その一つ一つが、ここに確かにある現実なのだと、今になって気づく。
パンをちぎり、口に運ぶ。簡素な味だったが、不思議と満たされた。地面に座り、空を見て、食事をする。それだけのことが、こんなにも新鮮に感じられる。
「……知らないことばかりですわ」
呟きは、誰にも届かない。けれど、胸の奥に、静かに残った。
もし、この敷地の中ですら、知らない場所がこれほどあるのなら。
敷地の外には、どれほどの景色が広がっているのだろう。
彼女は、膝の上に置いた布を見つめる。そこに広げられているのは、ほんの小さな世界だ。だが、その外側には、まだ触れていない現実が続いている。
思考は、自然と外へ向かった。
領内。
自分が名を持つ土地。
けれど、領都以外の場所を、彼女はほとんど知らない。
「……少し、見に行ってみても、いいのかもしれませんわね」
決意と呼ぶほど強いものではない。ただの思いつきだ。だが、その思いつきは、風に揺れる木々のように、静かに心の中で根を下ろし始めていた。
布を畳み、立ち上がる。足元についた土を、軽く払った。
敷地内の小さなピクニックは、それだけで終わった。
けれど彼女の中では、確かに何かが始まっていた。
この場所を、知りたい。
この土地を、歩いてみたい。
それは、役目でも義務でもない。
ただ、自分自身のための、素朴な願いだった。
翌朝、目覚めは驚くほど穏やかだった。
鐘の音も、急かす声もない。時間を告げるものは、カーテン越しに差し込む柔らかな光だけだった。
彼女はしばらく天井を見つめ、それから身を起こす。予定はない。約束もない。今日一日を、どう使ってもよかった。
「……外に出ましょうか」
思いつきは、唐突だった。けれど否定する理由もない。呼び鈴を鳴らし、簡単な準備を頼む。豪奢な食事は不要だった。パンと果物、温かい紅茶があれば十分だ。
庭園へ続く扉を抜けると、空気が変わった。屋内とは違う、少し冷たい朝の匂い。湿り気を帯びた土と、草の香りが混じっている。足元の砂利が、かすかに音を立てた。
公爵邸の敷地は、広大だった。整えられた庭園の向こうに、小さな森が続き、その奥には湖があると聞いている。だが、彼女はこれまで、そこへ足を運んだことがなかった。遠目に眺めるだけで、十分だと思っていたからだ。
今日は、違う。
木陰を選び、布を広げる。地面に座るという行為は、久しぶりだった。背筋を伸ばす必要も、周囲の視線を気にする必要もない。ただ、そこに座る。
紅茶を口に含むと、思いのほか香りが強く感じられた。風が、葉を揺らす音がする。遠くで、水鳥の鳴き声がした。
「……静かですわね」
昨日も、同じ言葉を口にした気がする。けれど今日の静けさは、少し違っていた。閉じられた部屋の静けさではなく、広がりのある、逃げ場のある静けさだ。
彼女は空を見上げる。雲が、ゆっくりと流れていく。その速度を、これまで気にしたことはなかった。王宮の窓から見える空は、いつも同じ場所に留まっているように見えたからだ。
ふと、奇妙な感覚にとらわれる。
――わたくしは、この場所のことを、ほとんど知りませんのね。
ここは自分の家だ。正確には、自分の家の敷地だ。それなのに、歩いたことのない道、見たことのない木々、名前も知らない花が、当たり前のように存在している。
地図なら、知っている。報告書も、読んだことがある。数字と名前としての領地は、頭に入っていた。けれど、それらは紙の上の情報でしかなかった。
風が吹き、草が揺れ、その間を光が走る。その一つ一つが、ここに確かにある現実なのだと、今になって気づく。
パンをちぎり、口に運ぶ。簡素な味だったが、不思議と満たされた。地面に座り、空を見て、食事をする。それだけのことが、こんなにも新鮮に感じられる。
「……知らないことばかりですわ」
呟きは、誰にも届かない。けれど、胸の奥に、静かに残った。
もし、この敷地の中ですら、知らない場所がこれほどあるのなら。
敷地の外には、どれほどの景色が広がっているのだろう。
彼女は、膝の上に置いた布を見つめる。そこに広げられているのは、ほんの小さな世界だ。だが、その外側には、まだ触れていない現実が続いている。
思考は、自然と外へ向かった。
領内。
自分が名を持つ土地。
けれど、領都以外の場所を、彼女はほとんど知らない。
「……少し、見に行ってみても、いいのかもしれませんわね」
決意と呼ぶほど強いものではない。ただの思いつきだ。だが、その思いつきは、風に揺れる木々のように、静かに心の中で根を下ろし始めていた。
布を畳み、立ち上がる。足元についた土を、軽く払った。
敷地内の小さなピクニックは、それだけで終わった。
けれど彼女の中では、確かに何かが始まっていた。
この場所を、知りたい。
この土地を、歩いてみたい。
それは、役目でも義務でもない。
ただ、自分自身のための、素朴な願いだった。
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