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第三話 地図の外側
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第三話 地図の外側
執務室に入るのは、久しぶりだった。
婚約が解消されてから、ここを使う理由がなかったわけではない。ただ、急ぎの案件も、誰かに求められる判断もなく、自然と足が遠のいていただけだ。
机の上は、整えられている。書類は分類され、地図は丁寧に広げられ、何も滞ってはいない。彼女がいなくても、屋敷は機能していた。
それでも――。
壁際の棚から、一枚の地図を取り出す。
公爵領全域を示したものだ。領都を中心に、街道、村、川、山が描き込まれている。見慣れた線と記号。何度も目を通してきたはずの図面だった。
彼女は椅子に腰を下ろし、地図の端に指を置く。
この川は、どんな音がするのだろう。
この村は、朝どんな匂いがするのだろう。
この山道は、雲に近いのだろうか。
記号は答えない。
地図は正確だ。距離も、高低差も、交易路も、すべて把握できる。けれど、そこには風も、温度も、人の声も描かれていない。
ふと、敷地内で感じた土の感触を思い出す。
草の匂い。
紅茶の湯気。
雲の流れる速さ。
――あれは、地図にはありませんでしたわね。
指先が、領都から外へと滑っていく。街道沿いに、小さな村がいくつも連なっている。報告書では、いつも数行で済まされていた場所だ。
「問題なし」
「収穫量、平年並み」
「特記事項なし」
それで十分だと思っていた。役目としては、それで足りていたからだ。
けれど、今は違う。
彼女は地図を見つめながら、考える。
視察、と呼ぶほど大げさなものではない。
調査でも、改革でもない。
ただ、歩いてみる。
見てみる。
触れてみる。
それだけでいい。
「……少し、出かけてみましょうか」
声に出すと、その言葉は思ったよりも軽かった。決意というほどの重さはない。ただ、自然に浮かんだ選択肢を、そのまま口にしただけだ。
窓の外を見る。庭園の向こうで、木々が揺れている。敷地内でさえ、昨日まで知らなかった景色があったのだ。ならば、敷地の外には、どれほどの「知らない」があるのだろう。
地図を丁寧に畳み、机に置く。
長い旅に出る必要はない。
最初は、日帰りでもいい。
馬車で半日、歩いて半日。
宿に泊まるなら、一泊二日。
そんな小さな旅から始めればいい。
誰かに許可を求める必要はなかった。
誰かに説明する義務も、今の彼女にはない。
ただ一つ、思い浮かぶのは――。
「……視察、ということにしておきましょうか」
それなら、周囲も納得するだろう。名目はどうでもいい。大切なのは、外へ出るという事実だ。
彼女は立ち上がり、執務室を後にする。廊下は静かで、足音がやけに大きく響いた。
この屋敷に戻る場所があることを、彼女はもう知っている。だからこそ、外へ出られる。
旅は、まだ始まっていない。
けれど、地図の外側へ向かう道は、すでに心の中に引かれていた。
それは逃避ではなく、義務でもない。
ただ、知らない世界に手を伸ばすための、ささやかな一歩だった。
執務室に入るのは、久しぶりだった。
婚約が解消されてから、ここを使う理由がなかったわけではない。ただ、急ぎの案件も、誰かに求められる判断もなく、自然と足が遠のいていただけだ。
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それでも――。
壁際の棚から、一枚の地図を取り出す。
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記号は答えない。
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ふと、敷地内で感じた土の感触を思い出す。
草の匂い。
紅茶の湯気。
雲の流れる速さ。
――あれは、地図にはありませんでしたわね。
指先が、領都から外へと滑っていく。街道沿いに、小さな村がいくつも連なっている。報告書では、いつも数行で済まされていた場所だ。
「問題なし」
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それで十分だと思っていた。役目としては、それで足りていたからだ。
けれど、今は違う。
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調査でも、改革でもない。
ただ、歩いてみる。
見てみる。
触れてみる。
それだけでいい。
「……少し、出かけてみましょうか」
声に出すと、その言葉は思ったよりも軽かった。決意というほどの重さはない。ただ、自然に浮かんだ選択肢を、そのまま口にしただけだ。
窓の外を見る。庭園の向こうで、木々が揺れている。敷地内でさえ、昨日まで知らなかった景色があったのだ。ならば、敷地の外には、どれほどの「知らない」があるのだろう。
地図を丁寧に畳み、机に置く。
長い旅に出る必要はない。
最初は、日帰りでもいい。
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そんな小さな旅から始めればいい。
誰かに許可を求める必要はなかった。
誰かに説明する義務も、今の彼女にはない。
ただ一つ、思い浮かぶのは――。
「……視察、ということにしておきましょうか」
それなら、周囲も納得するだろう。名目はどうでもいい。大切なのは、外へ出るという事実だ。
彼女は立ち上がり、執務室を後にする。廊下は静かで、足音がやけに大きく響いた。
この屋敷に戻る場所があることを、彼女はもう知っている。だからこそ、外へ出られる。
旅は、まだ始まっていない。
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ただ、知らない世界に手を伸ばすための、ささやかな一歩だった。
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