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1 卒業舞踏会の宣告
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1 卒業舞踏会の宣告
王立学園の大広間は、今夜ばかりはいつも以上に華やいでいた。
天井から降りるいくつもの硝子灯が黄金色の光を落とし、磨き抜かれた床には、踊る男女の姿が鏡のように映り込んでいる。
卒業舞踏会。
若き貴族たちが学園を巣立つ夜であり、同時に、未来の縁談や派閥の空気が静かに定まる夜でもあった。
アリアベル・フォルティスは、その中心にあっても騒がず、ただ静かに佇んでいた。
淡い銀青のドレスは華美すぎず、それでいて彼女の気品を損なわない。胸元にも首元にも過剰な宝飾はないのに、なぜか誰より目を引く。
作り込まれた愛らしさではなく、生まれついた品格と、長い時間をかけて磨かれた所作がそう見せるのだろう。
第一王太子の婚約者。
未来の王太子妃。
フォルティス公爵家の嫡女。
そのどれを取っても、彼女は今夜の主役の一人であるはずだった。
はずだった、というのは――少し前から、大広間を満たす空気に妙なざわめきが混じっていたからだ。
視線が集まっている。
それも、祝福や羨望とは少し違う、妙に落ち着かない視線だった。
アリアベルは気づかぬふりをしたまま、壁際の卓に置かれたグラスへ指先を伸ばす。
その手が止まったのは、すぐ近くで、誰かがひそやかに息を呑んだからだった。
「……始まるのね」
誰かの囁きが聞こえた。
その意味を考えるより早く、会場の空気が大きく揺れた。
第一王太子ユリヴェールが、広間の中央へ進み出たのだ。
彼は今夜もよく目立っていた。金糸を織り込んだ正装は王族として相応しく、整った顔立ちは人目を引く。知らない者が見れば、絵姿のように華やかな王子に見えただろう。
だが、アリアベルは知っている。
その笑みの軽さも。
物事を深く考えず、その場の感情で決める幼さも。
そして、周囲が整えたものを自分の力だと信じて疑わない浅さも。
ユリヴェールの隣には、ひとりの少女が寄り添っていた。
リネット・ブラン。
アリアベルの従妹であり、最近になって王太子の周囲へ頻繁に出入りするようになった娘だ。
淡い桃色のドレスを着た彼女は、今にも消え入りそうなほど儚げに俯いている。大きな瞳はうっすらと涙に濡れ、その姿だけ見れば、誰もが庇いたくなる可憐な少女にしか見えなかった。
会場にざわめきが走る。
アリアベルは、ようやくグラスから指を離した。
逃げる必要はない。
目を逸らす必要もない。
今さら驚くほど、愚かではいられなかった。
ユリヴェールは大広間を見渡し、ことさらに響く声で告げた。
「皆の者、聞いてもらいたい」
音楽が止む。
話し声も止む。
ざわめきだけが、波のようにひいていった。
ユリヴェールは満足そうに微笑み、それからまっすぐアリアベルを見た。
「アリアベル・フォルティス。私はお前との婚約を、本日この場で破棄する」
一瞬、時が止まったようだった。
次の瞬間には、あちこちで息を呑む音が上がる。
貴婦人たちの扇が止まり、若い令息令嬢たちは目を見開いたまま動けない。年長の貴族たちでさえ、露骨には顔に出さぬまでも、驚きを隠しきれていなかった。
公の場で。
しかも卒業舞踏会の最中に。
第一王太子が、婚約者を断罪するように婚約破棄を宣言するなど、前代未聞だった。
それでも、アリアベルは眉ひとつ動かさなかった。
ただ静かに、ユリヴェールを見返す。
その無反応が、かえって会場の緊張を高めた。
ユリヴェールは、その落ち着きが気に入らなかったのか、わずかに声を強めた。
「お前は長年にわたり、リネットを陰で虐げ、侮辱し、社交の場でも恥をかかせ続けてきた。私はそれを見過ごすことはできない」
アリアベルは一度だけ瞬きをした。
――そう来ましたのね。
予想していなかったわけではない。
むしろ、ここしばらくの不自然な噂と、リネットの露骨な接近ぶりを見ていれば、何かしら仕掛けてくることはわかっていた。
だが、ここまで安っぽい筋書きを、まさか本当に大広間の中央でお披露目するとは思わなかった。
少しだけ、呆れた。
リネットが、か細い声を漏らす。
「や、やめてください、殿下……。お姉様にも、ご事情が……」
その言葉に含まれた芝居がかったためらいに、周囲の何人かが顔をしかめた。
だが若い貴族たちの中には、すっかり彼女の雰囲気に呑まれている者もいる。
「なんてこと……」 「フォルティス公爵令嬢が?」 「でも、リネット様はあんなにも怯えて……」
ひそひそ声が広がっていく。
ユリヴェールはリネットを庇うように一歩前へ出た。
「優しいお前はそう言うだろう。だが私は、もう黙って見ているつもりはない」
アリアベルは、ゆるやかに首を傾げた。
「それで、殿下」
彼女の声はよく通った。
高すぎず低すぎず、感情を荒立てない落ち着いた響きだった。
その一言だけで、場のざわめきが少し静まる。
「その婚約破棄は、陛下と王妃殿下のご承認を得たうえでの正式なご宣言でしょうか」
会場の空気がぴたりと止まった。
真っ先に口にするべきは泣き言でも弁明でもなく、手続きの確認。
それがいかにもアリアベルらしく、そして、だからこそ重かった。
ユリヴェールの表情が、わずかに強張る。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
ああ、やはり。
正式な根回しもなく、感情の勢いでここに立っているのだ。
アリアベルは心の内だけで息をついた。
呆れを通り越して、もはや感心すらする。王太子がここまで王太子らしからぬ振る舞いをするのは、ある意味で才能かもしれない。
「承認など、いずれ得られる」
ユリヴェールは言った。
その返答に、貴族たちの空気が微妙に変わる。
明確に非難する者はいない。だが、先ほどまでリネットに向けられていた同情だけの視線に、戸惑いが混じり始めた。
いずれ得られる。
つまり、まだ得ていない。
婚約は子供の言い争いではない。
まして公爵家と王家の婚約ともなれば、本人同士の気分だけで壊せるものではないのだ。
リネットが慌てて口を挟んだ。
「お、お姉様、どうかお怒りにならないで……。私、殿下にお願いしたわけではありませんの。けれど、殿下は私のために……」
ずいぶん器用に震えるものだ、とアリアベルは思った。
あれほど都合よく涙を滲ませられるなら、別の方面で才能を活かしたほうが建設的ではないかしら、とさえ思う。
もっとも、そんな感想をそのまま口にするほど品は悪くない。
アリアベルは、ただリネットを見た。
その視線に、リネットの肩がびくりと跳ねる。
本当に怯えているのではない。こちらの反応を測っているのだ。自分がどれほど可哀想に見えるかを、計算しながら。
「……そう」
アリアベルは短く言った。
それだけで、なぜかリネットの顔色がわずかに変わる。
泣き喚かない。取り乱さない。否定もしない。
その静けさが、かえって不気味なのだろう。
ユリヴェールが苛立ったように言う。
「何か言いたいことはないのか、アリアベル」
たくさんある。
言おうと思えば、いくらでも。
その“可哀想な従妹”が、どれほど巧妙に使用人を操ってきたか。
どれほど小さな嘘を積み上げて人の印象を歪めてきたか。
そして、あなたがどれほど簡単に誘導されたか。
けれど、今ここで感情的に言い返したところで、得るものは少ない。
むしろ彼らは待っているのだろう。
悪女らしく取り乱す姿を。嫉妬に狂って見苦しく弁明する姿を。そうなれば、この安っぽい筋書きも少しは真実味を帯びる。
だからアリアベルは、微笑んだ。
口元だけに、ほんのわずかに。
「ございませんわ」
会場のあちこちで、また小さく息を呑む音がした。
「……何?」
ユリヴェールが眉を寄せる。
アリアベルはゆっくりと一礼した。
「殿下のお言葉、確かに承りました」
その言葉は、従うという意味にも聞こえる。
だが実際には、ただ“聞いた”と言っただけだった。
それに気づいた何人かが、扇の陰で目を細める。
年長の貴族ほど、その返しの冷ややかさを理解したようだった。
ユリヴェールは勝ったと思ったのか、顎を上げた。
「ようやく己の非を認めたか」
アリアベルは顔を上げる。
「いいえ」
その一言で、再び空気が張り詰めた。
「私はただ、殿下のお言葉を承っただけですわ」
真っ直ぐに向けられた眼差しに、ユリヴェールはわずかに怯んだ。
たぶん彼は、ここで泣かれるか縋られるかすると思っていたのだろう。自分の優位を実感できる、わかりやすい反応を。
しかし、目の前にいるアリアベルは違う。
取り乱しもせず、怒鳴りもせず、ただ静かに立っている。
その姿は、断罪される悪女というより、愚かな芝居を見つめる傍観者のようだった。
「お、お姉様……」
リネットが震える声で呼びかける。
アリアベルはそちらを見なかった。
「本日はおめでたい夜ですもの。これ以上、場を乱すつもりはございません」
その言葉に、皮肉を聞き取った者もいただろう。
おめでたい夜。
本来なら卒業を祝い、未来を祝福する夜。
そこへ自分で泥を塗ったのは誰なのか。言葉にしなくても、十分に伝わる。
ユリヴェールは顔を赤くした。
「場を乱したのはお前のほうだろう!」
言った直後、自分の失言に気づかなかったらしい。
アリアベルは内心で、少しだけ遠い目になった。
本当に、この方は……。
だが、もういい。
これ以上ここにいても、得るものはない。
アリアベルはもう一度だけ礼を取ると、踵を返した。
その瞬間、ざわり、と人垣が割れる。
誰も彼女を止めなかった。
止められなかった、というほうが近いかもしれない。
堂々と背筋を伸ばして歩いていくその姿には、敗者の哀れさなど欠片もなかったからだ。
裾を引く銀青のドレスが、灯りを受けて静かに揺れる。
その後ろ姿を、多くの視線が無言で追った。
広間の出口が近づく。
そこで、低く落ち着いた男の声がした。
「アリアベル嬢」
足を止めると、そこに立っていたのはレオニード・ヴァルセイン辺境伯だった。
濃紺の正装を隙なく着こなした長身の男は、騒ぎの只中にあっても少しも浮ついた様子がない。
夜のように静かな眼差しが、まっすぐアリアベルを見ていた。
彼は必要以上に同情を見せることも、軽々しく慰めることもせず、ただ一言だけ告げた。
「お送りいたしましょう」
その申し出は、救いの手というより、当然の礼節のように自然だった。
アリアベルは一瞬だけ目を伏せ、それから淡く微笑む。
「ありがとうございます、辺境伯閣下。けれど今夜は、ひとりで大丈夫ですわ」
「そうですか」
レオニードはそれ以上、何も言わない。
ただ、彼女の答えを尊重するように一歩退いた。
その態度に、アリアベルは少しだけ救われる。
哀れまれないことが、今の彼女には何よりありがたかった。
「では、せめて」
レオニードは静かに続けた。
「あなたが何を失ったのでもない、とだけ申し上げておきます」
アリアベルは、はじめてほんの少しだけ目を見開いた。
優しい慰めではない。
けれど、気休めでもない。
失ったのは自分ではない。
そう言い切る声音には、不思議なほど確信があった。
アリアベルは小さく息をつき、今度こそ自然に微笑んだ。
「……そのお言葉、ありがたく頂戴いたします」
一礼して、彼女は大広間を後にした。
背後ではまだざわめきが続いている。
ユリヴェールが何かを言い立て、リネットがそれを不安げに見上げ、貴族たちが互いの顔色をうかがっているのだろう。
けれど、もう振り返らなかった。
夜気の満ちる回廊へ出た瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、静かに沈んでいく。
悲しくないわけではない。
悔しくないわけでもない。
何年も費やした時間、背負わされてきた役目、飲み込んできた言葉。そういうものが一息に無意味になったのなら、傷まないはずがない。
けれど同時に、どこかひどく冷えていた。
あまりにも愚かで。
あまりにも浅くて。
その程度のものに、自分は未来を預けるはずだったのかと思うと、涙より先に醒めた感情が来る。
回廊の先には、迎えの者が待っていた。
フォルティス公爵家の執事、マルセルである。
彼はアリアベルの顔を見るなり、ほんのわずかに目を細めたが、何も問わなかった。
「お嬢様。馬車の用意が整っております」
「ええ」
「お帰りになりますか」
アリアベルは一度だけ、大広間のほうへ視線を向けた。
重く閉ざされた扉の向こうでは、まだ華やかな光が揺れている。
けれどその内側に、自分の居場所はもうなかった。
少なくとも、あの婚約者の隣には。
「帰りましょう」
静かにそう告げると、マルセルが恭しく頭を下げた。
「かしこまりました」
馬車へ向かって歩きながら、アリアベルはようやく思う。
これで終わり、ではない。
むしろ、ここからだ。
ユリヴェールはわかっていない。
リネットもわかっていない。
今夜自分たちが壊したのが、ただの婚約ではないことを。
王太子と公爵令嬢の婚約。
それは感情だけで結ばれたものではない。
家と家、信用と責任、支援と均衡、そのすべてを含んだ約定だ。
その片側を、あの人たちは自ら踏み砕いた。
ならば、その代償は払っていただくことになる。
アリアベルは馬車へ乗り込む前、夜空を見上げた。
星はよく晴れている。
冷たいほどに澄んだ空だった。
ひどく長い夜になりそうだった。
けれど、不思議と俯く気にはならない。
大丈夫。
まだ何も終わってはいない。
いいえ――本当に終わるのは、これから失う側のほうだ。
その確信だけを胸に、アリアベルは静かに扉の内側へ身を沈めた。
王立学園の大広間は、今夜ばかりはいつも以上に華やいでいた。
天井から降りるいくつもの硝子灯が黄金色の光を落とし、磨き抜かれた床には、踊る男女の姿が鏡のように映り込んでいる。
卒業舞踏会。
若き貴族たちが学園を巣立つ夜であり、同時に、未来の縁談や派閥の空気が静かに定まる夜でもあった。
アリアベル・フォルティスは、その中心にあっても騒がず、ただ静かに佇んでいた。
淡い銀青のドレスは華美すぎず、それでいて彼女の気品を損なわない。胸元にも首元にも過剰な宝飾はないのに、なぜか誰より目を引く。
作り込まれた愛らしさではなく、生まれついた品格と、長い時間をかけて磨かれた所作がそう見せるのだろう。
第一王太子の婚約者。
未来の王太子妃。
フォルティス公爵家の嫡女。
そのどれを取っても、彼女は今夜の主役の一人であるはずだった。
はずだった、というのは――少し前から、大広間を満たす空気に妙なざわめきが混じっていたからだ。
視線が集まっている。
それも、祝福や羨望とは少し違う、妙に落ち着かない視線だった。
アリアベルは気づかぬふりをしたまま、壁際の卓に置かれたグラスへ指先を伸ばす。
その手が止まったのは、すぐ近くで、誰かがひそやかに息を呑んだからだった。
「……始まるのね」
誰かの囁きが聞こえた。
その意味を考えるより早く、会場の空気が大きく揺れた。
第一王太子ユリヴェールが、広間の中央へ進み出たのだ。
彼は今夜もよく目立っていた。金糸を織り込んだ正装は王族として相応しく、整った顔立ちは人目を引く。知らない者が見れば、絵姿のように華やかな王子に見えただろう。
だが、アリアベルは知っている。
その笑みの軽さも。
物事を深く考えず、その場の感情で決める幼さも。
そして、周囲が整えたものを自分の力だと信じて疑わない浅さも。
ユリヴェールの隣には、ひとりの少女が寄り添っていた。
リネット・ブラン。
アリアベルの従妹であり、最近になって王太子の周囲へ頻繁に出入りするようになった娘だ。
淡い桃色のドレスを着た彼女は、今にも消え入りそうなほど儚げに俯いている。大きな瞳はうっすらと涙に濡れ、その姿だけ見れば、誰もが庇いたくなる可憐な少女にしか見えなかった。
会場にざわめきが走る。
アリアベルは、ようやくグラスから指を離した。
逃げる必要はない。
目を逸らす必要もない。
今さら驚くほど、愚かではいられなかった。
ユリヴェールは大広間を見渡し、ことさらに響く声で告げた。
「皆の者、聞いてもらいたい」
音楽が止む。
話し声も止む。
ざわめきだけが、波のようにひいていった。
ユリヴェールは満足そうに微笑み、それからまっすぐアリアベルを見た。
「アリアベル・フォルティス。私はお前との婚約を、本日この場で破棄する」
一瞬、時が止まったようだった。
次の瞬間には、あちこちで息を呑む音が上がる。
貴婦人たちの扇が止まり、若い令息令嬢たちは目を見開いたまま動けない。年長の貴族たちでさえ、露骨には顔に出さぬまでも、驚きを隠しきれていなかった。
公の場で。
しかも卒業舞踏会の最中に。
第一王太子が、婚約者を断罪するように婚約破棄を宣言するなど、前代未聞だった。
それでも、アリアベルは眉ひとつ動かさなかった。
ただ静かに、ユリヴェールを見返す。
その無反応が、かえって会場の緊張を高めた。
ユリヴェールは、その落ち着きが気に入らなかったのか、わずかに声を強めた。
「お前は長年にわたり、リネットを陰で虐げ、侮辱し、社交の場でも恥をかかせ続けてきた。私はそれを見過ごすことはできない」
アリアベルは一度だけ瞬きをした。
――そう来ましたのね。
予想していなかったわけではない。
むしろ、ここしばらくの不自然な噂と、リネットの露骨な接近ぶりを見ていれば、何かしら仕掛けてくることはわかっていた。
だが、ここまで安っぽい筋書きを、まさか本当に大広間の中央でお披露目するとは思わなかった。
少しだけ、呆れた。
リネットが、か細い声を漏らす。
「や、やめてください、殿下……。お姉様にも、ご事情が……」
その言葉に含まれた芝居がかったためらいに、周囲の何人かが顔をしかめた。
だが若い貴族たちの中には、すっかり彼女の雰囲気に呑まれている者もいる。
「なんてこと……」 「フォルティス公爵令嬢が?」 「でも、リネット様はあんなにも怯えて……」
ひそひそ声が広がっていく。
ユリヴェールはリネットを庇うように一歩前へ出た。
「優しいお前はそう言うだろう。だが私は、もう黙って見ているつもりはない」
アリアベルは、ゆるやかに首を傾げた。
「それで、殿下」
彼女の声はよく通った。
高すぎず低すぎず、感情を荒立てない落ち着いた響きだった。
その一言だけで、場のざわめきが少し静まる。
「その婚約破棄は、陛下と王妃殿下のご承認を得たうえでの正式なご宣言でしょうか」
会場の空気がぴたりと止まった。
真っ先に口にするべきは泣き言でも弁明でもなく、手続きの確認。
それがいかにもアリアベルらしく、そして、だからこそ重かった。
ユリヴェールの表情が、わずかに強張る。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
ああ、やはり。
正式な根回しもなく、感情の勢いでここに立っているのだ。
アリアベルは心の内だけで息をついた。
呆れを通り越して、もはや感心すらする。王太子がここまで王太子らしからぬ振る舞いをするのは、ある意味で才能かもしれない。
「承認など、いずれ得られる」
ユリヴェールは言った。
その返答に、貴族たちの空気が微妙に変わる。
明確に非難する者はいない。だが、先ほどまでリネットに向けられていた同情だけの視線に、戸惑いが混じり始めた。
いずれ得られる。
つまり、まだ得ていない。
婚約は子供の言い争いではない。
まして公爵家と王家の婚約ともなれば、本人同士の気分だけで壊せるものではないのだ。
リネットが慌てて口を挟んだ。
「お、お姉様、どうかお怒りにならないで……。私、殿下にお願いしたわけではありませんの。けれど、殿下は私のために……」
ずいぶん器用に震えるものだ、とアリアベルは思った。
あれほど都合よく涙を滲ませられるなら、別の方面で才能を活かしたほうが建設的ではないかしら、とさえ思う。
もっとも、そんな感想をそのまま口にするほど品は悪くない。
アリアベルは、ただリネットを見た。
その視線に、リネットの肩がびくりと跳ねる。
本当に怯えているのではない。こちらの反応を測っているのだ。自分がどれほど可哀想に見えるかを、計算しながら。
「……そう」
アリアベルは短く言った。
それだけで、なぜかリネットの顔色がわずかに変わる。
泣き喚かない。取り乱さない。否定もしない。
その静けさが、かえって不気味なのだろう。
ユリヴェールが苛立ったように言う。
「何か言いたいことはないのか、アリアベル」
たくさんある。
言おうと思えば、いくらでも。
その“可哀想な従妹”が、どれほど巧妙に使用人を操ってきたか。
どれほど小さな嘘を積み上げて人の印象を歪めてきたか。
そして、あなたがどれほど簡単に誘導されたか。
けれど、今ここで感情的に言い返したところで、得るものは少ない。
むしろ彼らは待っているのだろう。
悪女らしく取り乱す姿を。嫉妬に狂って見苦しく弁明する姿を。そうなれば、この安っぽい筋書きも少しは真実味を帯びる。
だからアリアベルは、微笑んだ。
口元だけに、ほんのわずかに。
「ございませんわ」
会場のあちこちで、また小さく息を呑む音がした。
「……何?」
ユリヴェールが眉を寄せる。
アリアベルはゆっくりと一礼した。
「殿下のお言葉、確かに承りました」
その言葉は、従うという意味にも聞こえる。
だが実際には、ただ“聞いた”と言っただけだった。
それに気づいた何人かが、扇の陰で目を細める。
年長の貴族ほど、その返しの冷ややかさを理解したようだった。
ユリヴェールは勝ったと思ったのか、顎を上げた。
「ようやく己の非を認めたか」
アリアベルは顔を上げる。
「いいえ」
その一言で、再び空気が張り詰めた。
「私はただ、殿下のお言葉を承っただけですわ」
真っ直ぐに向けられた眼差しに、ユリヴェールはわずかに怯んだ。
たぶん彼は、ここで泣かれるか縋られるかすると思っていたのだろう。自分の優位を実感できる、わかりやすい反応を。
しかし、目の前にいるアリアベルは違う。
取り乱しもせず、怒鳴りもせず、ただ静かに立っている。
その姿は、断罪される悪女というより、愚かな芝居を見つめる傍観者のようだった。
「お、お姉様……」
リネットが震える声で呼びかける。
アリアベルはそちらを見なかった。
「本日はおめでたい夜ですもの。これ以上、場を乱すつもりはございません」
その言葉に、皮肉を聞き取った者もいただろう。
おめでたい夜。
本来なら卒業を祝い、未来を祝福する夜。
そこへ自分で泥を塗ったのは誰なのか。言葉にしなくても、十分に伝わる。
ユリヴェールは顔を赤くした。
「場を乱したのはお前のほうだろう!」
言った直後、自分の失言に気づかなかったらしい。
アリアベルは内心で、少しだけ遠い目になった。
本当に、この方は……。
だが、もういい。
これ以上ここにいても、得るものはない。
アリアベルはもう一度だけ礼を取ると、踵を返した。
その瞬間、ざわり、と人垣が割れる。
誰も彼女を止めなかった。
止められなかった、というほうが近いかもしれない。
堂々と背筋を伸ばして歩いていくその姿には、敗者の哀れさなど欠片もなかったからだ。
裾を引く銀青のドレスが、灯りを受けて静かに揺れる。
その後ろ姿を、多くの視線が無言で追った。
広間の出口が近づく。
そこで、低く落ち着いた男の声がした。
「アリアベル嬢」
足を止めると、そこに立っていたのはレオニード・ヴァルセイン辺境伯だった。
濃紺の正装を隙なく着こなした長身の男は、騒ぎの只中にあっても少しも浮ついた様子がない。
夜のように静かな眼差しが、まっすぐアリアベルを見ていた。
彼は必要以上に同情を見せることも、軽々しく慰めることもせず、ただ一言だけ告げた。
「お送りいたしましょう」
その申し出は、救いの手というより、当然の礼節のように自然だった。
アリアベルは一瞬だけ目を伏せ、それから淡く微笑む。
「ありがとうございます、辺境伯閣下。けれど今夜は、ひとりで大丈夫ですわ」
「そうですか」
レオニードはそれ以上、何も言わない。
ただ、彼女の答えを尊重するように一歩退いた。
その態度に、アリアベルは少しだけ救われる。
哀れまれないことが、今の彼女には何よりありがたかった。
「では、せめて」
レオニードは静かに続けた。
「あなたが何を失ったのでもない、とだけ申し上げておきます」
アリアベルは、はじめてほんの少しだけ目を見開いた。
優しい慰めではない。
けれど、気休めでもない。
失ったのは自分ではない。
そう言い切る声音には、不思議なほど確信があった。
アリアベルは小さく息をつき、今度こそ自然に微笑んだ。
「……そのお言葉、ありがたく頂戴いたします」
一礼して、彼女は大広間を後にした。
背後ではまだざわめきが続いている。
ユリヴェールが何かを言い立て、リネットがそれを不安げに見上げ、貴族たちが互いの顔色をうかがっているのだろう。
けれど、もう振り返らなかった。
夜気の満ちる回廊へ出た瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、静かに沈んでいく。
悲しくないわけではない。
悔しくないわけでもない。
何年も費やした時間、背負わされてきた役目、飲み込んできた言葉。そういうものが一息に無意味になったのなら、傷まないはずがない。
けれど同時に、どこかひどく冷えていた。
あまりにも愚かで。
あまりにも浅くて。
その程度のものに、自分は未来を預けるはずだったのかと思うと、涙より先に醒めた感情が来る。
回廊の先には、迎えの者が待っていた。
フォルティス公爵家の執事、マルセルである。
彼はアリアベルの顔を見るなり、ほんのわずかに目を細めたが、何も問わなかった。
「お嬢様。馬車の用意が整っております」
「ええ」
「お帰りになりますか」
アリアベルは一度だけ、大広間のほうへ視線を向けた。
重く閉ざされた扉の向こうでは、まだ華やかな光が揺れている。
けれどその内側に、自分の居場所はもうなかった。
少なくとも、あの婚約者の隣には。
「帰りましょう」
静かにそう告げると、マルセルが恭しく頭を下げた。
「かしこまりました」
馬車へ向かって歩きながら、アリアベルはようやく思う。
これで終わり、ではない。
むしろ、ここからだ。
ユリヴェールはわかっていない。
リネットもわかっていない。
今夜自分たちが壊したのが、ただの婚約ではないことを。
王太子と公爵令嬢の婚約。
それは感情だけで結ばれたものではない。
家と家、信用と責任、支援と均衡、そのすべてを含んだ約定だ。
その片側を、あの人たちは自ら踏み砕いた。
ならば、その代償は払っていただくことになる。
アリアベルは馬車へ乗り込む前、夜空を見上げた。
星はよく晴れている。
冷たいほどに澄んだ空だった。
ひどく長い夜になりそうだった。
けれど、不思議と俯く気にはならない。
大丈夫。
まだ何も終わってはいない。
いいえ――本当に終わるのは、これから失う側のほうだ。
その確信だけを胸に、アリアベルは静かに扉の内側へ身を沈めた。
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顔が良いから、女性にモテる。
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*沢山の方に読んで頂き、ありがとうございます。m(_ _)m
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