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2 可哀想な従妹
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2 可哀想な従妹
フォルティス公爵家の馬車は、夜の王都を滑るように進んでいた。
車輪の音は静かで、窓の外に流れる街灯りもどこか遠い。
卒業舞踏会の喧騒はもう背後に置いてきたはずなのに、アリアベルの耳にはまだ、あのざわめきが残っているような気がした。
「お嬢様」
向かいに座るマルセルが、いつもと変わらぬ落ち着いた声で呼びかける。
「お疲れではございませんか」
「いいえ」
答えた声は、自分でも驚くほど平静だった。
泣いてもいない。震えてもいない。胸の奥には確かに冷たいものがあるのに、それは取り乱しとは違っていた。
むしろ、奇妙なほど頭が冴えている。
「あの場では、よくお耐えになりました」
「耐えるほどのことでもないわ」
アリアベルは窓の外へ目を向けたまま言った。
「殿下が何をなさるかは、ある程度予想していましたもの」
「それでも、公の場で婚約破棄を宣言なさるとは、さすがに想定の範囲を少し下回っておりました」
マルセルが淡々と言う。
アリアベルは思わず口元を緩めた。
「下回る、なのね」
「はい。あそこまで雑な手順をお選びになるとは。もう少し王族らしく、裏でお決めになるかと思っておりました」
「つまり、想像以上に浅慮だったと」
「左様でございます」
執事が真顔でそこまで言うのだから、少しおかしかった。
笑っていい場面ではないのかもしれない。だが、あまりにも的確で、変に力が抜ける。
アリアベルは小さく息を吐いた。
「……ありがとう、マルセル」
「何がでしょう」
「私が取り乱す前提で慰めたりしないでいてくれて」
マルセルは一礼するようにわずかに顎を引いた。
「お嬢様は、そのようなお方ではございませんので」
その一言は、妙に胸へ沁みた。
馬車が屋敷の正門をくぐる。
見慣れたフォルティス公爵邸の灯りが、夜の闇の中で静かに浮かび上がっていた。
広く整えられた前庭、石造りの重厚な外壁、品よく灯された玄関灯。
幼い頃から見慣れているはずの景色なのに、今夜はそのどれもが妙に頼もしく見える。
出迎えた使用人たちは、すでに何かを察しているようだった。
それでも誰ひとり余計な言葉は口にしない。哀れみも、好奇の視線もない。ただいつも通りの礼をもって、アリアベルを迎えた。
それだけで十分だった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
短いやり取りを交わし、アリアベルは玄関ホールへ足を踏み入れる。
すると、正面の階段脇に一人の男が立っていた。
フォルティス公爵――アリアベルの父である。
厳格な人だ。
温情がないわけではないが、それを軽々しく表に出す人でもない。娘に対してすら甘やかな態度を見せたことはほとんどない。
それでもアリアベルは知っている。この人が誰よりも家を守り、家に連なる者の価値を正しく量る人だということを。
公爵はアリアベルの姿を認めると、数歩だけ近づいてきた。
「戻ったか」
「はい、お父様」
「座る前にひとつ聞く」
低く、よく通る声だった。
「お前は、あの場で泣き喚いたか?」
アリアベルは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……いいえ」
「ならばよろしい」
それだけ言うと、公爵は満足したように頷いた。
「恥を晒したのは、フォルティスではなく向こうだ」
その一言に、胸の奥で何かが静かにほどけた。
責められないとは思っていた。
だが、それでもほんの僅かに、家に迷惑をかけたのではないかという思いはあったのだろう。自分でも気づかないうちに肩へ入っていた力が、少し抜ける。
公爵はアリアベルの顔をしばらく見つめ、それから言った。
「書斎へ来なさい。マルセルもだ」
「かしこまりました」
書斎にはすでに火が入っていた。
分厚い絨毯が敷かれた静かな部屋に、重厚な机と本棚、壁にかけられた地図。フォルティス公爵家が“ただの名家”ではなく、この国の実務を支える一角であることを思い出させる空間だった。
公爵が椅子に腰を下ろし、アリアベルにも向かいの席を示す。
「話せ」
それは感情論ではなく、報告を求める声だった。
アリアベルは無駄なく、舞踏会で起きたことを順を追って説明した。
ユリヴェールの婚約破棄宣言。
リネットによる被害者ぶった訴え。
正式な承認を得ていないまま公衆の面前で進められたこと。
そして最後に、自分が反論せず場を退いたこと。
一通り聞き終えた公爵は、指先で机を軽く叩いた。
「陛下の承認なし、王妃殿下の事前把握もおそらくなし。王太子個人の暴走と見てよいな」
「その可能性が高いかと」
マルセルが即座に答える。
「舞踏会の進行役も相当に慌てておりました。少なくとも、公式に準備された段取りではございません」
公爵は鼻で笑った。
「馬鹿が」
短い一言だったが、重みは十分だった。
アリアベルはそっとお茶のカップへ手を伸ばす。
いつの間にか用意されていた温かい紅茶から、静かに湯気が立っていた。香りだけで少し気持ちが落ち着く。
「お父様」
「何だ」
「王家へのご迷惑は……」
「その言い方はやめなさい」
ぴしゃりと遮られた。
公爵の目が、まっすぐアリアベルを射抜く。
「迷惑をかけたのは向こうだ。婚約を公の場で破棄するなら、それ相応の手順も根回しも責任も要る。何ひとつ整えぬまま、フォルティスの娘に泥を塗った。礼を失したのは、王家ではなく王太子個人――いや、あれを止められぬ王家全体だ」
その声音には怒りがあった。
だが、それはアリアベルに向けられたものではない。
「お前は今まで、よくやった」
公爵は続ける。
「王太子妃教育だけではない。王宮の宴会名簿、贈答の選定、派閥間の調整、王太子周辺の書類整理、いくつの面倒を片づけてきた」
「それは婚約者として当然のことです」
「当然ではない」
きっぱりと言い切られた。
「お前は本来、王家が用意すべき穴まで埋めてやっていた。しかも文句ひとつ言わずにな。ありがたみも理解できぬ者どもに、そこまでしてやる義理はもうない」
アリアベルは少しだけ視線を伏せた。
褒められ慣れていない。
この家で、労いはあっても甘やかな賞賛は少ない。だからこそ、公爵の言葉は真実なのだとよくわかる。
「マルセル」
「はい」
「本日をもって、王太子付きとしてアリアベルが行っていた非公式補助をすべて停止しろ」
「承知いたしました」
「王宮からの依頼で、アリアベル個人の伝手を使っていた案件も洗い出せ。商会との橋渡し、女官への紹介、夜会の席次助言、贈答品の選定、すべてだ」
「一覧を明朝までに」
「いや、今夜中に第一報を上げろ」
「かしこまりました」
マルセルの返答には、一切の迷いがない。
まるで最初からその命令が下るとわかっていたかのようだ。
実際、ある程度は見越していたのだろう。
アリアベルはカップを置いた。
「お父様、本当にすべて止めるのですか」
「そうだ」
「そうすると、かなり混乱が……」
「起こるだろうな」
公爵は平然と言った。
「だが、それはフォルティスが引き起こす混乱ではない。元から王家が自前で整えておくべきものが、いびつにお前へ依存していた結果だ。婚約を破棄するというなら、その依存ごと断ち切られる覚悟くらい持つべきだろう」
正論すぎて、返す言葉がない。
いや、本当はあった。
王家はそこまで考えていなかったのだろう、という呆れの一言が。
リネットもまた、婚約者の座さえ奪えば、自分も同じように扱われると本気で信じていたに違いない。
席に座るだけで、その椅子に必要な役目まで自動的についてくると思っている。そういう人間は、残念ながら少なくない。
「……リネットは」
アリアベルが呟くと、公爵が眉を寄せた。
「どうした」
「きっと、もう自分が勝ったと思っているのでしょうね」
口にしてみると、少しだけ乾いた気持ちになった。
リネットはいつだってそうだった。
人の視線を奪うことに長けていて、その場で“可哀想な自分”を演じるのが上手い。
叱られそうになれば涙を浮かべ、欲しいものがあれば怯えたふりをし、相手が譲れば“優しい人”として感謝する。
奪ったという意識すらないのかもしれない。自分はただ、可愛がられて当然のものを受け取っているだけだと思っているのだ。
幼い頃からそうだった。
母を早くに亡くしたアリアベルは、社交の場でも家の内でも、あまり感情を表に出さないよう育てられた。
一方、親族筋から引き取られてこの家へ出入りするようになったリネットは、いつも泣きそうな顔でこちらを見上げていた。
――お姉様のものは、何でも素敵ですね。
――私なんて似合わないから、見ているだけで幸せです。
――でも、もし私にも少しだけ分けていただけたら……。
そんなふうに言われれば、周囲はたいていリネットに甘くなる。
アリアベルが黙っていれば気丈で冷たい姉。
リネットが目を潤ませれば守ってあげたい可哀想な妹分。
単純な構図だ。単純なくせに、案外よく効く。
「泣く者のほうが弱者に見えるからな」
公爵が淡々と言った。
アリアベルは父を見る。
「ですが、弱いことと正しいことは別だ」
「……はい」
「忘れるな。お前が黙って譲ってきたぶんだけ、あちらは増長した」
その言葉は、責めるでもなく、ただ事実を示していた。
確かにその通りだった。
リネットの小さなわがままを、その場を荒立てないために見逃したことがある。
王太子の軽率な失言を、外聞のために裏で整えたことがある。
今思えば、その“まあ、この程度なら”の積み重ねが、彼らに勘違いを許したのだろう。
マルセルが静かに口を開く。
「お嬢様。すでにいくつか、王宮側から問い合わせが入っております」
「もう?」
「はい。明日の会食の贈答品について、いつもの商会から“ご指示待ち”だそうです。王太子殿下のお名前ではなく、お嬢様のご判断で毎回品を決めておりましたので」
アリアベルは目を伏せた。
そんなことまで、と思う反面、そういえばそうだったとも思う。
相手国の嗜好、最近の禁忌、贈り物に込めるべき格。ユリヴェールは細部を嫌うので、いつの間にか全てこちらで整えるようになっていた。
「止めなさい」
公爵が即答した。
「同様の案件はすべて停止。理由を求められたら、“婚約破棄により担当を外れた”とだけ答えろ」
「承知いたしました」
「夜会の名簿整理は?」
「明後日の王妃主催の茶会について、女官長がすでに困っているかと」
「それもだ」
次々に切られていく補助。
王宮側からすれば、いきなり空気が抜けるような感覚だろう。
だが、当然だ。
婚約者としての立場を奪いながら、婚約者としての働きだけ残してもらえると思うほうがおかしい。
アリアベルはふと、舞踏会の大広間で自信満々に立っていたユリヴェールの姿を思い出した。
あの方は、どこまでわかっているのだろう。
たぶん、ほとんど何もわかっていない。
アリアベルとの婚約がなくなったなら、リネットが代わりにその位置へ収まる。それで終わり。
その程度の認識なのだろう。
けれど、椅子に座る人間が変われば済むほど、王太子妃候補の役目は軽くない。
「お父様」
「何だ」
「もし、陛下から直接お話があった場合は」
「受ける」
公爵は即答した。
「だが条件はこちらが決める。少なくとも、お前が一方的に詫びるような形には絶対にしない」
「……はい」
「それと」
公爵の目が、僅かに柔らかくなった。
「今夜はもう休みなさい。傷ついていない顔をしていても、消耗はしているはずだ」
その言い方に、アリアベルは少しだけ笑う。
「お父様は、ときどきだけ、とても優しいですね」
「ときどきで十分だ」
「それでは、足りないときもありますわ」
「そういうことを言えるなら、まだ大丈夫だな」
珍しく、公爵の口元がほんの少しだけ動いた。笑った、とまでは言えない程度に。
アリアベルは席を立ち、一礼した。
「では、お言葉に甘えます」
「うむ」
書斎を出ると、夜の屋敷は静かだった。
使用人たちの足音も抑えられ、廊下の灯りは柔らかい。騒ぎを知りながらも、家の空気を乱さないよう誰もが働いているのがわかる。
自室へ戻る途中、アリアベルは窓辺で一度足を止めた。
庭の向こう、王都の夜空は暗い。
舞踏会のきらびやかな光はここまでは届かず、ただ遠くに小さな灯りがまたたいているだけだ。
胸に手を当てる。
痛みは、ある。
信じていた相手ではなかったとしても、長い年月を費やした婚約だった。自分の積み重ねが、あんな軽々しい一言で切り捨てられた事実は、やはり腹立たしい。
けれど同時に、奇妙なほど涙は出なかった。
悲劇のヒロインになりたいわけではない。
泣いて取り戻したい相手でもない。
むしろ冷たく澄んでいく心の奥で、はっきりしていくものがある。
今夜のあれで、終わりではない。
本当に始まるのは、きっと明日からだ。
ユリヴェールが切り捨てたもの。
リネットが奪ったつもりでいるもの。
その中身を、あの二人は何ひとつ理解していない。
理解していないまま、椅子だけ奪った。
ならば、座ってみればいい。
どれほど高く見えた場所でも、足場が空洞なら、あとは落ちるだけなのだから。
アリアベルはそっとカーテンを閉じた。
その頃、王宮ではきっと、もう最初の小さな混乱が始まっている。
可哀想な従妹は、勝ち誇ったまま眠りにつくかもしれない。
そして王太子は、自分が見事に恋を選び取ったつもりでいるのだろう。
ずいぶん幸せな夜だこと。
だが、その幸せが朝まで保てば上出来だ。
アリアベルは静かに部屋の奥へ進み、侍女に髪をほどかせながら目を閉じた。
明日から忙しくなる。
泣いている暇など、きっとない。
それでいい。
むしろ、そのほうが自分らしい。
そうして彼女が眠りにつこうとしていたその頃――王宮の一角では、早くもひとつ目の問い合わせが、行き場を失っていた。
明日の賓客への贈答品は、結局どれにするのか。
茶会の席次は誰が決めるのか。
王太子の返書の文面は、誰が整えるのか。
いつもなら、尋ねるまでもなく整っていたものばかりだった。
それが、今夜からは違う。
可哀想な従妹が、泣きながら奪い取った座。
そこに座るだけで、同じだけの価値が手に入ると思っていたなら――
それは、あまりにも甘い夢だった。
フォルティス公爵家の馬車は、夜の王都を滑るように進んでいた。
車輪の音は静かで、窓の外に流れる街灯りもどこか遠い。
卒業舞踏会の喧騒はもう背後に置いてきたはずなのに、アリアベルの耳にはまだ、あのざわめきが残っているような気がした。
「お嬢様」
向かいに座るマルセルが、いつもと変わらぬ落ち着いた声で呼びかける。
「お疲れではございませんか」
「いいえ」
答えた声は、自分でも驚くほど平静だった。
泣いてもいない。震えてもいない。胸の奥には確かに冷たいものがあるのに、それは取り乱しとは違っていた。
むしろ、奇妙なほど頭が冴えている。
「あの場では、よくお耐えになりました」
「耐えるほどのことでもないわ」
アリアベルは窓の外へ目を向けたまま言った。
「殿下が何をなさるかは、ある程度予想していましたもの」
「それでも、公の場で婚約破棄を宣言なさるとは、さすがに想定の範囲を少し下回っておりました」
マルセルが淡々と言う。
アリアベルは思わず口元を緩めた。
「下回る、なのね」
「はい。あそこまで雑な手順をお選びになるとは。もう少し王族らしく、裏でお決めになるかと思っておりました」
「つまり、想像以上に浅慮だったと」
「左様でございます」
執事が真顔でそこまで言うのだから、少しおかしかった。
笑っていい場面ではないのかもしれない。だが、あまりにも的確で、変に力が抜ける。
アリアベルは小さく息を吐いた。
「……ありがとう、マルセル」
「何がでしょう」
「私が取り乱す前提で慰めたりしないでいてくれて」
マルセルは一礼するようにわずかに顎を引いた。
「お嬢様は、そのようなお方ではございませんので」
その一言は、妙に胸へ沁みた。
馬車が屋敷の正門をくぐる。
見慣れたフォルティス公爵邸の灯りが、夜の闇の中で静かに浮かび上がっていた。
広く整えられた前庭、石造りの重厚な外壁、品よく灯された玄関灯。
幼い頃から見慣れているはずの景色なのに、今夜はそのどれもが妙に頼もしく見える。
出迎えた使用人たちは、すでに何かを察しているようだった。
それでも誰ひとり余計な言葉は口にしない。哀れみも、好奇の視線もない。ただいつも通りの礼をもって、アリアベルを迎えた。
それだけで十分だった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
短いやり取りを交わし、アリアベルは玄関ホールへ足を踏み入れる。
すると、正面の階段脇に一人の男が立っていた。
フォルティス公爵――アリアベルの父である。
厳格な人だ。
温情がないわけではないが、それを軽々しく表に出す人でもない。娘に対してすら甘やかな態度を見せたことはほとんどない。
それでもアリアベルは知っている。この人が誰よりも家を守り、家に連なる者の価値を正しく量る人だということを。
公爵はアリアベルの姿を認めると、数歩だけ近づいてきた。
「戻ったか」
「はい、お父様」
「座る前にひとつ聞く」
低く、よく通る声だった。
「お前は、あの場で泣き喚いたか?」
アリアベルは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……いいえ」
「ならばよろしい」
それだけ言うと、公爵は満足したように頷いた。
「恥を晒したのは、フォルティスではなく向こうだ」
その一言に、胸の奥で何かが静かにほどけた。
責められないとは思っていた。
だが、それでもほんの僅かに、家に迷惑をかけたのではないかという思いはあったのだろう。自分でも気づかないうちに肩へ入っていた力が、少し抜ける。
公爵はアリアベルの顔をしばらく見つめ、それから言った。
「書斎へ来なさい。マルセルもだ」
「かしこまりました」
書斎にはすでに火が入っていた。
分厚い絨毯が敷かれた静かな部屋に、重厚な机と本棚、壁にかけられた地図。フォルティス公爵家が“ただの名家”ではなく、この国の実務を支える一角であることを思い出させる空間だった。
公爵が椅子に腰を下ろし、アリアベルにも向かいの席を示す。
「話せ」
それは感情論ではなく、報告を求める声だった。
アリアベルは無駄なく、舞踏会で起きたことを順を追って説明した。
ユリヴェールの婚約破棄宣言。
リネットによる被害者ぶった訴え。
正式な承認を得ていないまま公衆の面前で進められたこと。
そして最後に、自分が反論せず場を退いたこと。
一通り聞き終えた公爵は、指先で机を軽く叩いた。
「陛下の承認なし、王妃殿下の事前把握もおそらくなし。王太子個人の暴走と見てよいな」
「その可能性が高いかと」
マルセルが即座に答える。
「舞踏会の進行役も相当に慌てておりました。少なくとも、公式に準備された段取りではございません」
公爵は鼻で笑った。
「馬鹿が」
短い一言だったが、重みは十分だった。
アリアベルはそっとお茶のカップへ手を伸ばす。
いつの間にか用意されていた温かい紅茶から、静かに湯気が立っていた。香りだけで少し気持ちが落ち着く。
「お父様」
「何だ」
「王家へのご迷惑は……」
「その言い方はやめなさい」
ぴしゃりと遮られた。
公爵の目が、まっすぐアリアベルを射抜く。
「迷惑をかけたのは向こうだ。婚約を公の場で破棄するなら、それ相応の手順も根回しも責任も要る。何ひとつ整えぬまま、フォルティスの娘に泥を塗った。礼を失したのは、王家ではなく王太子個人――いや、あれを止められぬ王家全体だ」
その声音には怒りがあった。
だが、それはアリアベルに向けられたものではない。
「お前は今まで、よくやった」
公爵は続ける。
「王太子妃教育だけではない。王宮の宴会名簿、贈答の選定、派閥間の調整、王太子周辺の書類整理、いくつの面倒を片づけてきた」
「それは婚約者として当然のことです」
「当然ではない」
きっぱりと言い切られた。
「お前は本来、王家が用意すべき穴まで埋めてやっていた。しかも文句ひとつ言わずにな。ありがたみも理解できぬ者どもに、そこまでしてやる義理はもうない」
アリアベルは少しだけ視線を伏せた。
褒められ慣れていない。
この家で、労いはあっても甘やかな賞賛は少ない。だからこそ、公爵の言葉は真実なのだとよくわかる。
「マルセル」
「はい」
「本日をもって、王太子付きとしてアリアベルが行っていた非公式補助をすべて停止しろ」
「承知いたしました」
「王宮からの依頼で、アリアベル個人の伝手を使っていた案件も洗い出せ。商会との橋渡し、女官への紹介、夜会の席次助言、贈答品の選定、すべてだ」
「一覧を明朝までに」
「いや、今夜中に第一報を上げろ」
「かしこまりました」
マルセルの返答には、一切の迷いがない。
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実際、ある程度は見越していたのだろう。
アリアベルはカップを置いた。
「お父様、本当にすべて止めるのですか」
「そうだ」
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「だが、それはフォルティスが引き起こす混乱ではない。元から王家が自前で整えておくべきものが、いびつにお前へ依存していた結果だ。婚約を破棄するというなら、その依存ごと断ち切られる覚悟くらい持つべきだろう」
正論すぎて、返す言葉がない。
いや、本当はあった。
王家はそこまで考えていなかったのだろう、という呆れの一言が。
リネットもまた、婚約者の座さえ奪えば、自分も同じように扱われると本気で信じていたに違いない。
席に座るだけで、その椅子に必要な役目まで自動的についてくると思っている。そういう人間は、残念ながら少なくない。
「……リネットは」
アリアベルが呟くと、公爵が眉を寄せた。
「どうした」
「きっと、もう自分が勝ったと思っているのでしょうね」
口にしてみると、少しだけ乾いた気持ちになった。
リネットはいつだってそうだった。
人の視線を奪うことに長けていて、その場で“可哀想な自分”を演じるのが上手い。
叱られそうになれば涙を浮かべ、欲しいものがあれば怯えたふりをし、相手が譲れば“優しい人”として感謝する。
奪ったという意識すらないのかもしれない。自分はただ、可愛がられて当然のものを受け取っているだけだと思っているのだ。
幼い頃からそうだった。
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一方、親族筋から引き取られてこの家へ出入りするようになったリネットは、いつも泣きそうな顔でこちらを見上げていた。
――お姉様のものは、何でも素敵ですね。
――私なんて似合わないから、見ているだけで幸せです。
――でも、もし私にも少しだけ分けていただけたら……。
そんなふうに言われれば、周囲はたいていリネットに甘くなる。
アリアベルが黙っていれば気丈で冷たい姉。
リネットが目を潤ませれば守ってあげたい可哀想な妹分。
単純な構図だ。単純なくせに、案外よく効く。
「泣く者のほうが弱者に見えるからな」
公爵が淡々と言った。
アリアベルは父を見る。
「ですが、弱いことと正しいことは別だ」
「……はい」
「忘れるな。お前が黙って譲ってきたぶんだけ、あちらは増長した」
その言葉は、責めるでもなく、ただ事実を示していた。
確かにその通りだった。
リネットの小さなわがままを、その場を荒立てないために見逃したことがある。
王太子の軽率な失言を、外聞のために裏で整えたことがある。
今思えば、その“まあ、この程度なら”の積み重ねが、彼らに勘違いを許したのだろう。
マルセルが静かに口を開く。
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「もう?」
「はい。明日の会食の贈答品について、いつもの商会から“ご指示待ち”だそうです。王太子殿下のお名前ではなく、お嬢様のご判断で毎回品を決めておりましたので」
アリアベルは目を伏せた。
そんなことまで、と思う反面、そういえばそうだったとも思う。
相手国の嗜好、最近の禁忌、贈り物に込めるべき格。ユリヴェールは細部を嫌うので、いつの間にか全てこちらで整えるようになっていた。
「止めなさい」
公爵が即答した。
「同様の案件はすべて停止。理由を求められたら、“婚約破棄により担当を外れた”とだけ答えろ」
「承知いたしました」
「夜会の名簿整理は?」
「明後日の王妃主催の茶会について、女官長がすでに困っているかと」
「それもだ」
次々に切られていく補助。
王宮側からすれば、いきなり空気が抜けるような感覚だろう。
だが、当然だ。
婚約者としての立場を奪いながら、婚約者としての働きだけ残してもらえると思うほうがおかしい。
アリアベルはふと、舞踏会の大広間で自信満々に立っていたユリヴェールの姿を思い出した。
あの方は、どこまでわかっているのだろう。
たぶん、ほとんど何もわかっていない。
アリアベルとの婚約がなくなったなら、リネットが代わりにその位置へ収まる。それで終わり。
その程度の認識なのだろう。
けれど、椅子に座る人間が変われば済むほど、王太子妃候補の役目は軽くない。
「お父様」
「何だ」
「もし、陛下から直接お話があった場合は」
「受ける」
公爵は即答した。
「だが条件はこちらが決める。少なくとも、お前が一方的に詫びるような形には絶対にしない」
「……はい」
「それと」
公爵の目が、僅かに柔らかくなった。
「今夜はもう休みなさい。傷ついていない顔をしていても、消耗はしているはずだ」
その言い方に、アリアベルは少しだけ笑う。
「お父様は、ときどきだけ、とても優しいですね」
「ときどきで十分だ」
「それでは、足りないときもありますわ」
「そういうことを言えるなら、まだ大丈夫だな」
珍しく、公爵の口元がほんの少しだけ動いた。笑った、とまでは言えない程度に。
アリアベルは席を立ち、一礼した。
「では、お言葉に甘えます」
「うむ」
書斎を出ると、夜の屋敷は静かだった。
使用人たちの足音も抑えられ、廊下の灯りは柔らかい。騒ぎを知りながらも、家の空気を乱さないよう誰もが働いているのがわかる。
自室へ戻る途中、アリアベルは窓辺で一度足を止めた。
庭の向こう、王都の夜空は暗い。
舞踏会のきらびやかな光はここまでは届かず、ただ遠くに小さな灯りがまたたいているだけだ。
胸に手を当てる。
痛みは、ある。
信じていた相手ではなかったとしても、長い年月を費やした婚約だった。自分の積み重ねが、あんな軽々しい一言で切り捨てられた事実は、やはり腹立たしい。
けれど同時に、奇妙なほど涙は出なかった。
悲劇のヒロインになりたいわけではない。
泣いて取り戻したい相手でもない。
むしろ冷たく澄んでいく心の奥で、はっきりしていくものがある。
今夜のあれで、終わりではない。
本当に始まるのは、きっと明日からだ。
ユリヴェールが切り捨てたもの。
リネットが奪ったつもりでいるもの。
その中身を、あの二人は何ひとつ理解していない。
理解していないまま、椅子だけ奪った。
ならば、座ってみればいい。
どれほど高く見えた場所でも、足場が空洞なら、あとは落ちるだけなのだから。
アリアベルはそっとカーテンを閉じた。
その頃、王宮ではきっと、もう最初の小さな混乱が始まっている。
可哀想な従妹は、勝ち誇ったまま眠りにつくかもしれない。
そして王太子は、自分が見事に恋を選び取ったつもりでいるのだろう。
ずいぶん幸せな夜だこと。
だが、その幸せが朝まで保てば上出来だ。
アリアベルは静かに部屋の奥へ進み、侍女に髪をほどかせながら目を閉じた。
明日から忙しくなる。
泣いている暇など、きっとない。
それでいい。
むしろ、そのほうが自分らしい。
そうして彼女が眠りにつこうとしていたその頃――王宮の一角では、早くもひとつ目の問い合わせが、行き場を失っていた。
明日の賓客への贈答品は、結局どれにするのか。
茶会の席次は誰が決めるのか。
王太子の返書の文面は、誰が整えるのか。
いつもなら、尋ねるまでもなく整っていたものばかりだった。
それが、今夜からは違う。
可哀想な従妹が、泣きながら奪い取った座。
そこに座るだけで、同じだけの価値が手に入ると思っていたなら――
それは、あまりにも甘い夢だった。
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