婚約を捨てたのはあなたですのに、今さら愛を乞われても困ります

ふわふわ

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3 静かな帰還

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3 静かな帰還

翌朝、アリアベルはいつも通りの時刻に目を覚ました。

昨夜はさすがに眠りが浅くなるかと思っていたが、意外にも眠れた。
もっとも、穏やかな眠りだったかと問われれば答えに詰まる。夢は見なかったはずなのに、起きた瞬間から頭は妙にはっきりしていて、胸の奥だけが冷えている。

窓の外は、よく晴れていた。

薄いレースの向こうに見える庭は朝露に濡れ、冬の名残を含んだ光を受けて静かにきらめいている。
あれほど騒がしい夜を越えたのに、世界は何事もなかったように朝になる。そういうところが、少しだけ癪だった。

「おはようございます、お嬢様」

侍女がカーテンを開けながら、いつもと変わらぬ声音で言った。

「おはよう」

「朝食の前に、お召し替えのご用意をいたします」

「ええ、お願い」

哀れみも遠慮もいらない。
いつも通りに接してくれることが、今は何よりありがたかった。

支度を整えながら、アリアベルは鏡の中の自分を見る。
目元に大きな乱れはない。泣き腫らしてもいないし、顔色も悪くない。少し口元が硬い気もするが、この程度ならどうにでもなる。

「お嬢様」

髪を整えていた侍女が、控えめに声をかけてきた。

「昨夜のこと、屋敷の中でも耳にしている者がいるかと存じます。ですが、皆、お嬢様のお味方でございます」

アリアベルは鏡越しに彼女を見た。

「……そう」

「はい」

侍女は余計なことを言わなかった。
きっと気を遣って言葉を選んだのだろう。けれどその不器用な真心が、少しだけ胸を温めた。

「ありがとう」

それだけ告げると、侍女はほっとしたように頭を下げた。

朝食の席には、すでにフォルティス公爵が着いていた。

長いテーブルの中央に並ぶのは、温かなスープ、焼きたてのパン、卵料理、軽く火を通した野菜。華美ではないが、この屋敷らしく隙のない食卓だ。
公爵は新聞のように何枚かの報告書へ目を通しながら、アリアベルが席に着くのを待っていた。

「おはようございます、お父様」

「うむ。眠れたか」

「それなりには」

「結構」

それで会話は終わる。
けれど、この家ではそれで十分だった。

食事が始まってほどなく、マルセルが静かに現れた。

「朝食中に失礼いたします」

「構わん。報告を」

公爵が言う。

マルセルは一礼し、手元の書類を開いた。

「王宮側より、昨夜から今朝にかけて七件の問い合わせが入っております」

アリアベルはスープの匙を置いた。

「もう七件も?」

「はい。夜会後の賓客への返書、王妃殿下主催茶会の席次、来週の視察先への贈答品選定、王太子殿下の外遊に伴う訪問先一覧、その他細かな調整事でございます」

「ずいぶん早いわね」

「止まると困る場所ほど、いつもは目立たぬものでございます」

淡々とした答えだった。

公爵が鼻を鳴らす。

「で、返答は」

「すべて同一でございます。アリアベル様は婚約破棄に伴い担当を外れたため、今後は王宮側でご処理いただきたい、と」

「よろしい」

「また、一部の商会より確認が入っております。これまでアリアベル様の信用を前提に優先的に動いていた案件について、継続の可否を知りたいとのことです」

「保留にしろ」

「かしこまりました」

アリアベルは黙って話を聞いていたが、パンに伸ばした手を途中で止めた。

「……王宮は何と?」

「現時点では、“急すぎる”“今まで通りでは駄目なのか”といった反応が主でございます」

その瞬間、アリアベルは少しだけ目を細めた。

今まで通り。
何て都合のいい言葉なのだろう。

婚約は破棄する。
公の場で恥をかかせる。
悪女の汚名まで着せる。
そのうえで、今まで通り働けと言うのか。

冗談にしても質が悪い。

公爵も同じことを思ったのだろう。口元に冷たいものを浮かべた。

「図々しいにもほどがあるな」

「まことに」

マルセルが静かに同意する。

アリアベルはようやくパンをちぎった。

「お父様。陛下からの正式なご連絡は」

「まだない」

「王妃殿下は?」

「おそらく昨夜の時点では把握していなかっただろうな。今朝には知っているだろうが」

公爵は卵料理へナイフを入れながら続けた。

「どちらにせよ、王太子の独断でここまで大きく事を荒立てたとなれば、向こうも沈黙はできまい。今日中には何らかの接触がある」

「そうですわね」

アリアベルは紅茶を一口飲む。

湯気の向こうで、頭の中だけが冷たく澄んでいく。

昨日の舞踏会で起きたことは、たしかに派手だった。
けれど本当に厄介なのは、その後だ。王家は今、婚約破棄という感情的な出来事ではなく、機能不全の入口に立たされている。

それも、ユリヴェール本人はまだ理解していないまま。

「殿下は今頃、ご自分が成し遂げた“恋の勝利”に酔っておいでかもしれませんわね」

ぽつりとアリアベルが言うと、公爵が顔を上げた。

「酔いが醒めるのは早い」

「そうでしょうね」

「問題は、その時に誰のせいにするかだ」

その言葉に、アリアベルは小さく息をついた。

あまりにも想像しやすい。
上手く回っていた時は自分の手柄。
回らなくなった途端に、周囲の怠慢。
もっと悪ければ、婚約破棄された側が嫌がらせをしている、くらいのことは本気で言い出しかねない。

「お嬢様」

マルセルが一枚の書類を差し出した。

「昨夜の舞踏会に関する、現時点での社交界の反応を簡単にまとめたものです」

受け取って目を通す。

若い令嬢たちの間では、リネットへ同情する声がまだある。
ただし上位貴族、特に年長者たちは、婚約破棄そのものより“公の場で正式手続きなく断行したこと”に強い不快感を示している。
また、アリアベルが取り乱さず退場したことが、かえって彼女の評価を押し上げているらしい。

「……まあ、そうなるでしょうね」

「はい。リネット様の涙は若い方々には効いたようですが、年長の方ほど“出来すぎている”と見ておられます」

アリアベルは紙を閉じた。

あの従妹は、いつも相手を選ぶ。
幼い頃からそうだった。年少の使用人や若い令息にはよく効くのだ。守ってあげたくなる、という感情を引き出すのが上手い。
けれど、同じ手が経験豊かな相手にまで永遠に通じるわけではない。

「王宮の女官たちは?」

「表立っては何も。ただ、戸惑いは広がっております。リネット様へ切り替えれば済むと考えていた者ほど、朝から顔色が悪いとか」

少しだけ、痛快だった。

いえ、とアリアベルはすぐに自分を戒める。
まだ早い。
小さな混乱を眺めて満足してはならない。こちらが感情的になれば、それこそ向こうと同じ土俵だ。

食事を終えると、公爵が席を立った。

「アリアベル」

「はい」

「今日は外出の予定をすべて取りやめろ。王宮側から接触があった場合に備える」

「かしこまりました」

「ただし、閉じこもる必要はない。屋敷内では普段通りに過ごしなさい。隠れるような真似は、こちらに非があるように見える」

「ええ」

「それから」

公爵は少しだけ言葉を切った。

「お前の名誉を守る準備は、すでに始めている」

アリアベルは父を見上げた。

「どの程度まで、ですの?」

「必要な程度までだ」

その“必要”が、この父の口から出るときは、だいたいかなり徹底している。
感情で怒鳴り込むような真似はしない。だが一度動くと決めたら、相手が二度と軽率な真似をできないところまで持っていく。

「ありがとうございます」

「礼はまだ早い」

公爵はそう言い残し、書斎へ向かった。

残されたアリアベルは、窓際に立って庭を見下ろす。

朝の光はすっかり高くなっていた。
手入れの行き届いた生垣、白砂の小道、噴水の水面。屋敷のすべてが、静かで揺るがない。

その時、廊下の向こうでやや慌ただしい足音がした。
すぐにノックの音。

「お嬢様、失礼いたします」

若い侍女が少しだけ頬を上気させながら入ってくる。
普段は落ち着いた子だ。そんな彼女がここまで慌てるのだから、よほど急ぎなのだろう。

「どうしたの」

「王宮より使者が」

アリアベルは瞬きをした。

「もう?」

「はい。ただし……」

侍女は言いにくそうに口をつぐむ。

「ただし?」

「正式な使者ではなく、第一王太子殿下付きの従者だそうです。“殿下がアリアベル様へ、できるだけ早くお話ししたいと”」

アリアベルは、思わず小さく笑ってしまった。

早い。早すぎる。

昨夜あれだけ派手に婚約破棄を宣言しておいて、翌朝には“話したい”とは。
自分で橋を焼いておきながら、川向こうから渡し舟を呼ぶような真似をよくもまあ。

「内容は?」

「詳しくは申しておりません。ただ、至急とのことです」

「お父様は?」

「すでに伝達しております」

ほどなくして、再びマルセルが現れた。

「お嬢様、公爵閣下よりお言葉です」

「聞かせて」

「“会う必要はない”とのことです」

まったく迷いのない返答だった。

アリアベルは頷く。

「当然ね」

「ただし、お嬢様ご自身が直接お断りなさりたいのであれば、それも構わないと」

少しだけ考える。

昨日の今日で、ユリヴェールが何を言ってくるかはだいたい想像がつく。
感情的になっていた、自分にも事情がある、リネットは傷ついている、君にも少しは非がある、だから落ち着いて話そう――そんなところだろうか。

どれも聞く価値がない。

けれど、ここで完全に沈黙すると、向こうは“無視された被害者”の顔をし始めるかもしれない。
それも少し鬱陶しい。

「マルセル」

「はい」

「こう伝えてちょうだい。『殿下のお言葉は昨夜、たしかに承りました。今後のことは、家を通して正式にお願い申し上げます』と」

「かしこまりました」

「それだけで結構よ。余計な言葉は不要だわ」

「承知いたしました」

マルセルは一礼して下がる。

アリアベルは窓辺へ戻った。

昨夜、“承りました”と言ったときのユリヴェールの顔が脳裏をよぎる。
まるで勝利宣言でも受け取ったかのような顔だった。

けれど実際には、あれは服従でも謝罪でもなかった。
ただ、あなたの言葉は聞きました、と示しただけだ。

その先をどう扱うかは、こちらが決める。

ほどなくして、廊下の向こうからまた別の報告が届く。
今度は王妃宮から、茶会の席次についての問い合わせ。
さらにその後、王宮会計室より、アリアベルが以前選定した予算案の確認が入る。

朝だけでこれだ。
昼になれば、もっと増えるだろう。

「……本当に、何もご存じなかったのね」

ぽつりと独り言がこぼれた。

ユリヴェールはもちろん、王宮の中にも、おそらく正確に把握していた者は少ない。
物事が自然に回っているとき、人はしばしば“それが自然に回る仕組み”を見ようとしない。

そこにいる人間が、いつも当然のように支えてくれていると思い込む。

だが、当然の労働などない。
当然の献身もない。

婚約という立場が消えた今、アリアベルが差し出す理由もまた消えたのだ。

その時、外から馬車の音が聞こえた。
今度は先ほどより整った、家格ある訪問の音だ。

すぐに侍女が知らせに来る。

「お嬢様。王妃宮より正式な使者が参りました」

アリアベルは静かに息を吸った。

ついに来た。

昨夜の舞踏会の時点では何も知らなかったであろう王妃が、ようやく動いたのだ。

「お父様は?」

「書斎にてお待ちです」

「わかったわ」

アリアベルは立ち上がる。

扉へ向かいながら、胸の奥にあった冷たさが、すっと一本の線になるのを感じた。
怯えではない。怒りでもない。
たぶん、覚悟と呼ぶのが一番近い。

昨日、静かに屋敷へ帰ってきた時点で、もう決まっていたのだろう。
この件は、泣いて終わる話ではない。
誰かに慰められて流す話でもない。

ならば、正しく受け止め、正しく返すだけだ。

アリアベルは背筋を伸ばした。

公爵家の娘として。
婚約を一方的に踏みにじられた当人として。
そして何より、自分の名を守るために。

静かな帰還は、終わった。
ここから先は、静かなままでは済まない。
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