婚約を捨てたのはあなたですのに、今さら愛を乞われても困ります

ふわふわ

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4 婚約の代償

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4 婚約の代償

王妃宮からの正式な使者は、無駄のない所作で応接間へ案内された。

年配の侍従で、王妃付きとして長く仕えている男だった。衣服にも態度にも乱れはない。
少なくとも、昨夜ユリヴェールが寄越した“殿下付きの従者”よりは、話ができる相手だとアリアベルは思った。

応接間には、すでにフォルティス公爵が座っている。
その隣に立つマルセルの姿も、いつも通り隙がない。

アリアベルが入室すると、侍従は立ち上がって一礼した。

「フォルティス公爵閣下、アリアベル様。王妃殿下のご意向をお伝えに参りました」

「申せ」

公爵が短く促す。

侍従は一度息を整えた。

「昨夜の卒業舞踏会で起きた件につきまして、王妃殿下は事前に一切ご存じありませんでした。まずはそのことを、明確にお伝えしたいとのことです」

アリアベルは黙って聞いた。

予想通りだ。
もし王妃が把握していたなら、あれほど無様な形にはならない。少なくとも、王家の体面を守る手順くらいは踏ませただろう。

公爵が低く言う。

「当然だろうな。ご存じであれば、あのような幼稚な場にはならん」

「……お言葉、耳が痛い限りでございます」

侍従は表情を崩さないまま続けた。

「そのうえで、王妃殿下は、できるだけ早く公爵閣下とお話し合いの場を持ちたいと望んでおられます」

「話し合い」

公爵の声は冷たい。

「ずいぶん便利な言葉だな。婚約破棄は公衆の面前で済ませておきながら、その後始末だけは静かに行いたいと見える」

「そのような意図では……」

「では、どういう意図だ」

侍従が言葉を詰まらせる。

アリアベルは横目で父を見た。
怒鳴ってはいない。声も荒げていない。だが、この人が本気で不快を示す時は、むしろこうして静かになる。

侍従は慎重に言葉を選びながら答えた。

「王妃殿下としては、王家とフォルティス公爵家の信頼関係を損なうことは本意ではない、と」

「すでに損なわれている」

即答だった。

「王太子が、公爵家の娘に対して事前の承認もなく、社交界の面前で婚約破棄を宣言したのだ。これを損なわれていないと言うなら、その感覚のほうを疑う」

侍従は深く頭を下げた。

「返す言葉もございません」

その場に沈黙が落ちる。

暖炉の火が小さく鳴った。
外は明るいはずなのに、この部屋だけは少し温度が低いように感じる。

やがて公爵は、机上に置かれていた書類へ指先を滑らせた。

「マルセル」

「はい」

「見せてやれ」

マルセルが一歩進み出て、侍従の前に数枚の書類を並べる。

「こちらは、アリアベル様が婚約者として、これまで非公式に担ってこられた補助業務の一覧でございます」

侍従の目が、一瞬だけ動いた。

一覧は簡潔だが、内容は軽くない。
王妃主催茶会の席次調整。
王太子外遊時の贈答品選定。
女官候補の身辺確認。
有力商会との橋渡し。
王太子派閥の夜会招待客整理。
返書の文案補整。
賓客対応に関する事前情報の収集。

一つひとつは細かい。
だが、どれも止まれば確実に困る種類の仕事ばかりだった。

侍従は書類をめくる手を止めた。

「……ここまで、でございますか」

「まだ一部だ」

公爵が言う。

「しかもその多くは、王宮から正式な役職として任じられたものではない。婚約者という立場と、フォルティス公爵家への信頼があったからこそ、アリアベルが善意で引き受けていたに過ぎん」

「善意……」

侍従の声がかすかに沈む。

そう。
善意だ。

義務ではあった。
責任感もあった。
だが最終的には、婚約者として王家を支えようというアリアベル自身の意思がなければ、ここまで手を広げる必要はなかったのだ。

公爵はさらに続けた。

「昨日の婚約破棄により、その善意は消えた。当然だろう。娘を悪女呼ばわりしておきながら、その翌日には今まで通り働けとは、さすがにフォルティスも寛大すぎると笑われる」

侍従は何も言えない。

アリアベルは、その横顔を見つめながら思った。
きっと彼も、薄々は気づいていたのだろう。王宮のあちこちで起きている細かな混乱が、ただの偶然ではないことに。

けれど、ここまで露骨に書面へ並べられると、重みが違う。

「王妃殿下は」

アリアベルが初めて口を開く。

侍従がすぐに顔を上げた。

「はい」

「この一覧を、どの程度までご存じですの?」

侍従は慎重に答えた。

「王妃殿下は、アリアベル様が王宮の運営に大きくお力を貸してくださっていたことはご承知でした。ですが……」

「ですが?」

「ここまで広範に、しかも細部まで関わっておられたことは、昨夜から今朝にかけて改めて確認なさったご様子です」

アリアベルはゆっくり頷いた。

やはりそうなのだ。
王妃ですら“詳細までは知らない”ほどに、自分の仕事は当たり前の景色に溶け込んでいた。

誰かがやっている。
たぶんうまくやっている。
だから問題ない。

問題がない限り、人は仕組みの中身を見ようとしない。

「殿下はご存じないでしょうね」

つい口をついて出た言葉に、侍従は答えなかった。
答えられなかった、のだろう。

公爵はむしろはっきりと言った。

「知っているはずがない。知っていれば、あの場であんな真似はせん」

アリアベルもそう思う。

もっとも、知っていたとしても、理解していたかは怪しい。
“自分が王太子だから周囲が動くのだ”と信じている人間は、“周囲が動けるように整えている誰か”の存在を見ようとしない。

ユリヴェールはずっとそうだった。

たとえば夜会。
彼は場で笑っているだけで、自分が人心掌握に長けていると思っていた。
だが実際には、その場へ呼ぶ相手の順番も、席の近さも、会話が噛み合うように差し込む話題も、ほとんどアリアベルが事前に整えていたのだ。

たとえば返書。
彼は流麗な文章で賓客へ返事を送れる自分を、教養ある王太子だと思っていた。
だが実際には、その文案の大半は、失礼にならぬようアリアベルが前夜に手直ししていた。

たとえば贈答。
ユリヴェールは、自分の選ぶ品がいつも喜ばれるのを“王族としての感覚”だと考えていた。
実際には、その相手が何を好み、何を嫌い、どの程度の格を求めるかを調べ上げていたのはアリアベルだ。

笑ってしまうほど、見えていなかった。

「王妃殿下より、もうひとつ」

侍従が言った。

「正式な話し合いの前に、可能であればアリアベル様のお気持ちも伺いたいと」

公爵の眉が動く。

「気持ち、だと」

「はい。昨夜の件で、深くお傷つきであろうことは十分承知している、と」

その言葉に、アリアベルは少しだけ苦笑した。

たぶん王妃なりの誠意なのだろう。
だが、今さら“お気持ち”と問われても、答えはひとつではない。

傷ついている。
腹も立っている。
呆れている。
そして何より、もう戻れないとわかっている。

「王妃殿下には、こうお伝えください」

アリアベルは姿勢を正した。

「私は、昨夜の出来事を忘れるつもりはございません」

侍従が真剣な顔で聞き入る。

「ですが、感情のまま騒ぎ立てるつもりもございません。必要であれば、家を通して正式な場でお話しいたします」

「……承ります」

「ただし」

アリアベルは静かに続けた。

「私が今まで担ってきたことを、なかったことにはなさらないでいただきたいのです。殿下は婚約を捨てられた。ならば、その婚約が支えていたものも同時に失われる――それは、当然の帰結でございます」

侍従の顔に、かすかな緊張が走る。

それは脅しではない。
事実の確認だ。

けれど、事実ほど人を追い詰める言葉はない時がある。

公爵が頷いた。

「娘の言う通りだ。我々は報復のために止めているのではない。婚約がなくなった以上、こちらが引き受け続ける理由がないだけだ」

「はい……」

「そこを履き違えるな。王家が失うのは、フォルティスが奪うからではない。自ら切り捨てた結果だ」

侍従は深く一礼した。

「重々、申し伝えます」

話はそこで終わるかと思われた。
だが、侍従が一瞬だけ逡巡したあと、低く言った。

「もう一点、差し支えなければ……」

「何だ」

「王太子殿下は、本日もアリアベル様へお取次ぎを望んでおられます」

公爵の空気が一段冷えた。

「差し支える」

一刀両断だった。

「娘が会う必要はない」

「ですが殿下は、誤解があると……」

「誤解ではない」

公爵ははっきり言う。

「社交界の面前で婚約破棄を宣言し、娘へ悪女の汚名を着せたのは事実だ。そこにどんな事情を継ぎ足そうと、起きたことは変わらん」

侍従は押し黙った。

アリアベルも、父と同意見だった。
誤解ではない。
軽率でも、勢いでも、誘惑されたのでも、関係ない。

やったのは彼自身だ。

しかも、やってしまったあとで“話せばわかる”と思っているところが、なお悪い。

「昨夜のうちに、“殿下のお言葉は承りました”とお伝えしました」

アリアベルが静かに言う。

「それで十分ですわ」

「アリアベル様……」

「殿下が今なさるべきは、私へ言い訳をすることではございません。ご自分が起こした混乱と向き合うことです」

その言葉に、侍従は深く頭を垂れた。

「そのように、申し伝えます」

使者が下がったあと、応接間にはしばらく静けさが残った。

窓の外では、庭師が剪定をしているらしく、遠くで枝を払う音がする。
平穏な昼の音だった。

公爵は椅子の背に深くもたれた。

「さて」

その一言で、空気が家のものへ戻る。

「向こうもようやく事態を理解し始めたようだな」

マルセルが答える。

「まだ入口でございますが」

「それでも、昨夜の能天気さよりは進歩だ」

アリアベルはカップへ紅茶を注ぎ直した。

その香りに気持ちを整えながら、ふと思う。

これまで自分がしてきたことは、誰かに褒められるためのものではなかった。
婚約者として。
フォルティス公爵家の娘として。
王太子の隣に立つ者として、必要だと思ったからしてきただけだ。

けれど、必要だと思って差し出したものほど、人は慣れる。
慣れたものは見えなくなる。
見えなくなったものは、なくして初めて重さを知る。

「……皮肉ですわね」

アリアベルがぽつりと漏らすと、公爵が目を向けた。

「何がだ」

「私がどれほど働いていたか、婚約者だった間には誰も数えようとしなかったのに、婚約がなくなった途端、皆が必死に数え始めるのですもの」

公爵は少しだけ黙り、それから言った。

「そういうものだ。井戸の水は、枯れて初めてありがたがられる」

「ずいぶん雑な例えですこと」

「だが正確だろう」

たしかに、その通りだった。

マルセルが新たな書類を持って一歩進み出る。

「公爵閣下。こちら、現時点で停止した案件の一覧でございます」

公爵は目を通しながら言った。

「声に出せ」

「はい。王太子外遊準備に関する商会との橋渡し、停止。王妃宮茶会の席次原案作成、停止。賓客対応に関する贈答品選定、停止。王太子派夜会招待客の選別補助、停止。返書文案の補整、停止。女官候補者の身辺確認補助、停止」

「それらの代替は」

「未定にございます」

「結構」

侍従が帰ったあとでこれを聞くと、重みが増す。

未定。
その一言が、どれほど恐ろしいかを理解している人間は少ない。
王宮の仕事は、滞りなく動いている時ほど、見えない誰かの積み重ねに支えられている。
一つならまだしも、複数が同時に未定になれば、たちまち人は足を取られる。

ユリヴェールは、今頃どうしているのだろう。

自分が捨てた婚約の代償を、ようやく肌で感じ始めているだろうか。
それともまだ、周囲の無能を嘆いているだけだろうか。

どちらでも構わない。
遅かれ早かれ知ることになる。

婚約とは、ただ将来の結婚を約束する札ではない。
そこには家同士の信用があり、支援があり、調整があり、目に見えない無数の手が結ばれている。

それを“もう要らない”と切って捨てたなら、切れるのは感情だけでは済まない。

「お嬢様」

マルセルが静かに呼ぶ。

「何か」

「本日の午後ですが、すでに二件、面会希望が届いております」

「どなたから?」

「一件は王妃宮から。正式な日時調整です。もう一件は、ヴァルセイン辺境伯閣下より」

アリアベルは目を上げた。

「レオニード様が?」

「はい。“昨夜の件につき、公ではなく、フォルティス公爵家に礼を尽くしたうえで挨拶を申し上げたい”と」

公爵がわずかに眉を動かす。

「……礼儀は弁えている男だな」

その評価は、父としてはかなり高い部類だ。

アリアベルは、昨夜の回廊での短いやり取りを思い出した。

――あなたが何を失ったのでもない。

あの一言だけで、ずいぶん救われたのは事実だった。
慰めでも同情でもなく、ただ事実としてそう言ってくれた声を、今もはっきり覚えている。

「どうなさいますか」

マルセルの問いに、アリアベルは少し考えた。

王妃宮との話は避けられない。
それは家として受けるべきだ。

では、レオニードは。

あの人が何を言いに来るのかはわからない。
だが少なくとも、今のアリアベルにとって不快な相手ではない。むしろ、昨夜から今日にかけて聞いた多くの言葉の中で、もっとも押しつけがましさのない言葉をくれた人だった。

「……お受けして」

言いかけたところで、公爵が口を開いた。

「待て」

アリアベルは父を見る。

公爵は紅茶を一口だけ飲み、それから静かに言った。

「王妃宮より先に辺境伯を通すと、向こうは勘ぐる。まずは王妃宮との日程を確定させろ。その後でよい」

「かしこまりました」

「ただし、辺境伯には失礼のないように。フォルティスは礼節を失わん」

「承知いたしました」

マルセルが一礼して下がる。

応接間には再び静けさが戻った。

アリアベルは窓の外へ目を向けた。
白い雲がゆっくり流れている。昨夜の喧騒が嘘のような穏やかな空だ。

だが、その穏やかさの下で、確かに何かが崩れ始めている。

王太子が捨てた婚約。
従妹が奪ったつもりの座。
その代償は、まだほんの始まりにすぎない。

アリアベルは静かにカップを置いた。

「お父様」

「何だ」

「昨日までは、婚約の価値を軽く見ていたのは殿下とリネットだけだと思っていました」

「違ったか」

「ええ。王宮の中にも、案外たくさんいたようですわ」

公爵は薄く笑った。

「ならば、まとめて学ばせてやればいい」

ぞっとするほど静かな声音だった。

けれど、その言葉にアリアベルは不思議と安心した。
自分は一人で立っているのではない。フォルティス公爵家の娘として、背後に確かな家がある。

それなら、恐れる必要はない。

婚約の代償は、これから正しく支払われる。
そしてその勘定書きは、誰にも踏み倒せない形で突きつけられるのだ。
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