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12 失われた信用
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12 失われた信用
王宮の大時計が昼を告げる頃、商務局の一角では珍しく机を叩く音が響いていた。
「まだ返答が来ないのか」
声を荒げたのは、王太子派に近い若い官吏だった。
彼の前には数通の書状が開かれたまま置かれている。
どれも王都でも名の知れた商会宛てに送った確認状の控えだ。内容は単純で、“従来通りの契約で問題ないか”“今月分の納品に遅れはないか”といったものばかり。
本来なら、これほど揉める話ではない。
だが、返ってきたのは曖昧な返答ばかりだった。
「“現在、条件を再確認中”……またこれか」
若い官吏が吐き捨てるように言う。
向かいの年配の役人は、机上の文面を見比べながら低く答えた。
「まだ断られていないだけ、ましだと思うべきかもしれませんな」
「まし?」
「ええ。はっきり“継続不能”と書かれるよりは」
それは慰めにもならない。
若い官吏は苛立ちを隠せず立ち上がった。
「契約は有効なのだぞ。なぜ今さら再確認など必要になる」
年配の役人はしばらく黙っていたが、やがて書状の一枚を指で叩いた。
「契約というものは、紙の上だけで回るわけではありません」
「何が言いたい」
「この数年、王太子殿下側の案件は、書面以上に“安心して任せられる”という前提で動いておりました。納期が詰まっても、贈答の変更が入っても、最後には整うと皆が思っていた」
「だから今も整えればいい」
「誰が?」
その一言で、若い官吏は口を閉ざした。
年配の役人はさらに続ける。
「商会は、品物だけを見ているのではないのです。相手が約束を守るか、急な変更にも筋を通すか、面子を潰さないか、そういうところまで含めて“信用”を取引しております」
若い官吏は不機嫌そうに顔を背ける。
理解はしているのだろう。
ただ、認めたくないだけだ。
今まで王太子側の依頼が通りやすかったのは、王太子の権威そのものより、その周囲がきちんと整えられていたからだ。
必要なところへ先に詫びを入れ、変更があれば代案を添え、相手に損をさせぬ形で話を通す。そういう手当てが常に入っていた。
だから商会も安心して動けた。
だが今は違う。
返書は遅れ、指示は揺れ、調整役は見えない。
そんな相手に、誰が同じ温度で品を回すだろうか。
「では、どうするのだ」
若い官吏がようやく問うと、年配の役人は淡々と答えた。
「まず、止まりかけている商会を列挙することですな。次に、誰の顔でつながっていた案件かを洗い直す」
「誰の顔で……」
「ええ。王太子殿下のお名前だけではないということです」
その言葉は、商務局の空気を重くした。
同じ頃、王都でも有力とされるフェルモン商会では、当主と番頭、それに文机を抱えた若い書記が応接室に集まっていた。
机の上には、王太子側から届いた確認状と、まだ封をしていない返答文。
「どうされます」
番頭が問う。
商会主のフェルモンは、顎に手を当てたまましばらく考えていた。
「断るのはまだ早い」
「ですが、このまま従来通りで動けば、振り回される危険がございます」
「わかっている」
彼は低く言った。
「だから“再確認中”だ」
それは事実上の保留だった。
書記が恐る恐る口を開く。
「王太子殿下のご威光を考えれば、下手に距離を取るのも危ういのでは」
「威光だけで運べる荷なら、それでもいい」
フェルモンは書状を指先で弾く。
「だが、我々が動かしてきたのは贈答品だの夜会の装飾品だの、見栄えだけのものではない。急な仕立て直し、相手方への詫びの品、納期をずらした時の別便手配。そういう“表へ出ぬ調整”まで含めて請けてきた」
番頭が頷いた。
「そして、その調整は、ほとんどフォルティス嬢を通っておりました」
「そうだ」
商会主はきっぱり言った。
「王太子殿下へ直接ものを申し上げる必要はほとんどなかった。フォルティス嬢へ話せば、何が可能で何が無理か、どこへ先に筋を通すべきか、こちらが損をせぬ形で返してくださった」
書記は目を丸くした。
「そこまで……」
「そこまで、だ」
フェルモンは苦い顔になる。
「それを、公衆の面前で婚約破棄だ。しかも、後の話は家を通せと返されている。つまり今後、あの方の個人的な信用を前提にはできない」
番頭が静かに言う。
「王太子殿下個人では、まだ不安が残る」
「そういうことだ」
商会主は返答文へ目を落とした。
「我々が恐れているのは、王太子が無礼だという一点ではない。約束が揺れた時、誰が責任を持って整えるのか見えぬことだ」
それがまさに、信用の揺らぎだった。
王家と取引すること自体は名誉だ。
だが名誉だけでは荷は運べない。
損失が出れば従業員を抱える商会は傾く。だからこそ、相手の地位より“約束が形になるかどうか”を見る。
フォルティス公爵家の名、そしてアリアベル個人の働きは、その安心を作っていた。
それがなくなった今、商会が慎重になるのは当然だった。
「“従来通りの契約継続については、現体制の確認後に改めてご返答申し上げます”」
商会主が返答文を読み上げる。
「この文で出そう。丁寧に、しかし曖昧にな」
「かしこまりました」
若い書記が急いで筆を走らせる。
王太子側の書面を、いきなり断るわけではない。
だが、今までのように即答もしない。
それだけで十分だった。
社交界と同じだ、と商会主は思う。
最初から正面切って敵になる必要はない。
ただ、距離を取る。
それだけで空気は変わる。
一方、その“空気の変化”を肌で感じ始めていたのは、王太子ユリヴェール本人でもあった。
その日の夕刻、王太子執務室には珍しく商務局の役人が呼ばれていた。
「確認ばかりで進んでおりません」
役人は緊張した顔で言う。
「今月の納品予定も、一部の商会が“条件再確認中”として留めております。物自体は確保できるでしょうが、日程と格に影響が出る可能性がございます」
ユリヴェールは露骨に不快そうだった。
「なぜだ。契約は王家とのものだろう」
「はい。ですが……」
役人は言い淀む。
そこへ、側近のひとりが補足するように口を開いた。
「先方は、契約そのものより運用の安定を見ております」
「同じことを何度も聞かせるな」
ユリヴェールの声音が鋭くなる。
「王家を信用せぬ商会などあるものか」
その言葉に、部屋の空気がわずかに冷えた。
たしかに表立って“信用しません”とは誰も言わない。
だが商人は、思っていても言わぬだけだ。言葉にせず、納期や条件で示す。
側近は慎重に言う。
「王家を信用しないというより、現状の指示系統に不安を抱いているのかと」
「指示系統?」
「はい。これまで細部を整えていた経路が失われましたので」
ユリヴェールは眉をひそめた。
またそれか、という顔だった。
ここ数日で彼は何度その言葉を聞いただろう。
細部。調整。経路。
どれも彼にとっては煩わしい裏方の話でしかない。だが、その煩わしいものがいまは全部、彼の足元へ積み上がってきている。
「つまり、お前たちはアリアベルがいないから回らないと言いたいのだな」
ついにその名前が、正面から出た。
役人は答えに窮した。
否定すれば嘘になる。肯定すれば不敬に近い。
だが沈黙は、時に肯定以上の意味を持つ。
ユリヴェールの顔色が変わる。
「馬鹿馬鹿しい。商会ごときが、婚約者ひとりいなくなった程度で揺らぐわけがない」
その瞬間、年長の側近が低く言った。
「婚約者ひとり、ではございません」
言ってから、室内の空気が凍りつく。
側近自身も、踏み込みすぎたとわかっているのだろう。
だが、もう止まらなかった。
「フォルティス嬢は、商会との間で信頼の橋を架けておられました。納期が揺れた時の詫び、贈答の格調整、面子が潰れぬ代替案――そういったものが、先方には見えていたのです」
ユリヴェールは何も言わない。
「見えていたから、無理も通った。急ぎも利いた。殿下のお名前だけではございません。あの方の働きが“約束は形になる”という安心になっていたのです」
しん、と静まり返る。
誰も動けない。
王太子へ向かって、そこまで言うのは危うい。
だが同時に、今この場で誰より正確に現状を言い表しているのも事実だった。
ユリヴェールは机へ手をつき、しばらく無言で立っていた。
怒鳴るかと思われたが、怒鳴れなかった。
言い返せるほど、中身を知らなかったからだ。
やがて彼は低く吐き出す。
「……商会の分際で」
それは怒りというより、傷ついた自尊心の声だった。
王太子である自分が軽んじられている。
そう感じているのだろう。
だが本質はそこではない。軽んじられているのではなく、“約束の形”を疑われているのだ。
地位は高い。
だが高い地位ほど、周囲がそれを現実に変えてくれる仕組みが要る。
その仕組みが揺らげば、地位だけでは足りない。
「どういたしますか」
商務局の役人が恐る恐る問う。
ユリヴェールはすぐには答えなかった。
答えられなかったのだろう。
アリアベルを戻せと言えば、自分の婚約破棄が軽率だったと認めるようなものだ。
かといって、このまま放置すれば商会はさらに慎重になる。
そして、慎重になるということは、王太子側の“即応力”が失われるということでもある。
「ひとまず、既存契約の履行を最優先に」
ようやく出た言葉は、それ自体は正しいが、遅かった。
「追加の発注は急がず、納期に間に合うものだけ確保しろ」
「かしこまりました」
役人が頭を下げる。
だが、それは実質的な縮小策だった。
王太子の側が慎重になった、と見られる。
商会側はさらに、“やはり今は危うい”と感じるだろう。
それでも、他に打つ手がない。
その夜、王都のいくつかの商会では、似たような判断が同時に下されていた。
急ぎの案件は一度保留。
格の高い品は確約を避ける。
王太子側の依頼は、家格より実務確認を優先。
そして、今後はできる限り王妃宮か、あるいは公爵家筋を通じた話を待つ。
どれも表向きは穏やかな対応だ。
断絶ではない。拒絶でもない。
だが、それまで当然のようにあった“優先して動く理由”が消えている。
信用とは、ある日突然なくなるものではない。
まず少し揺らぐ。
次に、誰かが距離を取る。
それを見た別の誰かも、念のためと距離を取る。
そうして気づいた時には、もう前と同じ温度では戻らない。
アリアベルはその頃、辺境伯邸の書庫で静かな夜を過ごしていた。
窓辺の椅子に座り、昼間に見た領内の記録をめくっている。
整った数字、簡潔な注記、必要な場所だけに入る赤の印。
ここでは、人の顔色ではなく、流れと結果が先にある。
そこへ、マルセルがそっと入ってきた。
「お嬢様」
「どうしたの」
「王都からの追加の報せが届いております」
アリアベルはページを閉じた。
「聞かせて」
「いくつかの商会が、王太子殿下側の案件を条件再確認として留めております。表向きは契約見直しではございませんが、実質的には慎重姿勢への移行かと」
アリアベルは静かに息を吐いた。
「……そう」
驚きはない。
ただ、その速さに少しだけ目を伏せる。
商会は正直だ。
貴族のように美しい言い回しで遠回しにせず、損を避ける方向へ静かに動く。
その動きは時に冷たいが、理にかなっている。
「やはり、信用まで失われ始めたのですね」
ぽつりとそう言うと、マルセルは即座に答えた。
「正確には、“当然に与えられていた信用が、当然ではなくなった”かと」
アリアベルは思わず苦笑した。
「言い方が本当に容赦ないわね」
「事実にございますので」
まったく、その通りだ。
王家の名がある限り、完全に信用がなくなることはない。
けれど、今までのように“王太子側だから急いで動く”“多少無理でも最終的には整う”という前提は消えた。
それはとても大きい。
「私、少しだけ勘違いしていたのかもしれないわ」
「何をでございますか」
「婚約破棄の代償は、社交界と王宮の中だけで出るものだと思っていたの」
マルセルは黙って聞く。
「でも違うのね。商人たちまで、ちゃんと見ている」
「見る方々でございます」
「ええ」
アリアベルは窓の外を見た。
辺境の夜は王都よりずっと静かだ。
その静けさの中で考えると、王都の騒ぎすらどこか構造だけに見えてくる。
失われた信用。
それは、婚約破棄された自分のものではなかった。
少なくとも今、揺らいでいるのはあちらだ。
王太子としての威厳。
王家との仕事の安心感。
そして、約束は最後にきちんと形になるという見えない信頼。
それらが一つずつ剥がれ始めている。
「戻したいと思っても、これは簡単には戻りませんわね」
アリアベルが言うと、マルセルは小さく頷いた。
「はい。信用とは、謝罪より時間を要しますので」
その一言が、妙に重く響いた。
謝れば済むならまだ早い。
だが信用は、謝るだけでは戻らない。
揺らいだ相手に、もう一度“この人たちなら大丈夫だ”と思わせるだけの積み重ねが必要になる。
そして今の王太子の周囲には、その積み重ねを作るだけの余裕があるだろうか。
アリアベルは、ゆっくりと書庫の灯りへ目を戻した。
王都で今失われているものは、見えないぶんだけ深い。
けれど、見えないからこそ一度崩れれば長く尾を引く。
婚約破棄は、ただ一人の令嬢を追い払うだけで済む話ではなかった。
ようやくそのことが、王宮の外にまで染み出し始めている。
そして、それを染み出させたのは、怒鳴り返しでも復讐の宣言でもない。
ただ、こちらが引いたこと。
それだけだった。
王宮の大時計が昼を告げる頃、商務局の一角では珍しく机を叩く音が響いていた。
「まだ返答が来ないのか」
声を荒げたのは、王太子派に近い若い官吏だった。
彼の前には数通の書状が開かれたまま置かれている。
どれも王都でも名の知れた商会宛てに送った確認状の控えだ。内容は単純で、“従来通りの契約で問題ないか”“今月分の納品に遅れはないか”といったものばかり。
本来なら、これほど揉める話ではない。
だが、返ってきたのは曖昧な返答ばかりだった。
「“現在、条件を再確認中”……またこれか」
若い官吏が吐き捨てるように言う。
向かいの年配の役人は、机上の文面を見比べながら低く答えた。
「まだ断られていないだけ、ましだと思うべきかもしれませんな」
「まし?」
「ええ。はっきり“継続不能”と書かれるよりは」
それは慰めにもならない。
若い官吏は苛立ちを隠せず立ち上がった。
「契約は有効なのだぞ。なぜ今さら再確認など必要になる」
年配の役人はしばらく黙っていたが、やがて書状の一枚を指で叩いた。
「契約というものは、紙の上だけで回るわけではありません」
「何が言いたい」
「この数年、王太子殿下側の案件は、書面以上に“安心して任せられる”という前提で動いておりました。納期が詰まっても、贈答の変更が入っても、最後には整うと皆が思っていた」
「だから今も整えればいい」
「誰が?」
その一言で、若い官吏は口を閉ざした。
年配の役人はさらに続ける。
「商会は、品物だけを見ているのではないのです。相手が約束を守るか、急な変更にも筋を通すか、面子を潰さないか、そういうところまで含めて“信用”を取引しております」
若い官吏は不機嫌そうに顔を背ける。
理解はしているのだろう。
ただ、認めたくないだけだ。
今まで王太子側の依頼が通りやすかったのは、王太子の権威そのものより、その周囲がきちんと整えられていたからだ。
必要なところへ先に詫びを入れ、変更があれば代案を添え、相手に損をさせぬ形で話を通す。そういう手当てが常に入っていた。
だから商会も安心して動けた。
だが今は違う。
返書は遅れ、指示は揺れ、調整役は見えない。
そんな相手に、誰が同じ温度で品を回すだろうか。
「では、どうするのだ」
若い官吏がようやく問うと、年配の役人は淡々と答えた。
「まず、止まりかけている商会を列挙することですな。次に、誰の顔でつながっていた案件かを洗い直す」
「誰の顔で……」
「ええ。王太子殿下のお名前だけではないということです」
その言葉は、商務局の空気を重くした。
同じ頃、王都でも有力とされるフェルモン商会では、当主と番頭、それに文机を抱えた若い書記が応接室に集まっていた。
机の上には、王太子側から届いた確認状と、まだ封をしていない返答文。
「どうされます」
番頭が問う。
商会主のフェルモンは、顎に手を当てたまましばらく考えていた。
「断るのはまだ早い」
「ですが、このまま従来通りで動けば、振り回される危険がございます」
「わかっている」
彼は低く言った。
「だから“再確認中”だ」
それは事実上の保留だった。
書記が恐る恐る口を開く。
「王太子殿下のご威光を考えれば、下手に距離を取るのも危ういのでは」
「威光だけで運べる荷なら、それでもいい」
フェルモンは書状を指先で弾く。
「だが、我々が動かしてきたのは贈答品だの夜会の装飾品だの、見栄えだけのものではない。急な仕立て直し、相手方への詫びの品、納期をずらした時の別便手配。そういう“表へ出ぬ調整”まで含めて請けてきた」
番頭が頷いた。
「そして、その調整は、ほとんどフォルティス嬢を通っておりました」
「そうだ」
商会主はきっぱり言った。
「王太子殿下へ直接ものを申し上げる必要はほとんどなかった。フォルティス嬢へ話せば、何が可能で何が無理か、どこへ先に筋を通すべきか、こちらが損をせぬ形で返してくださった」
書記は目を丸くした。
「そこまで……」
「そこまで、だ」
フェルモンは苦い顔になる。
「それを、公衆の面前で婚約破棄だ。しかも、後の話は家を通せと返されている。つまり今後、あの方の個人的な信用を前提にはできない」
番頭が静かに言う。
「王太子殿下個人では、まだ不安が残る」
「そういうことだ」
商会主は返答文へ目を落とした。
「我々が恐れているのは、王太子が無礼だという一点ではない。約束が揺れた時、誰が責任を持って整えるのか見えぬことだ」
それがまさに、信用の揺らぎだった。
王家と取引すること自体は名誉だ。
だが名誉だけでは荷は運べない。
損失が出れば従業員を抱える商会は傾く。だからこそ、相手の地位より“約束が形になるかどうか”を見る。
フォルティス公爵家の名、そしてアリアベル個人の働きは、その安心を作っていた。
それがなくなった今、商会が慎重になるのは当然だった。
「“従来通りの契約継続については、現体制の確認後に改めてご返答申し上げます”」
商会主が返答文を読み上げる。
「この文で出そう。丁寧に、しかし曖昧にな」
「かしこまりました」
若い書記が急いで筆を走らせる。
王太子側の書面を、いきなり断るわけではない。
だが、今までのように即答もしない。
それだけで十分だった。
社交界と同じだ、と商会主は思う。
最初から正面切って敵になる必要はない。
ただ、距離を取る。
それだけで空気は変わる。
一方、その“空気の変化”を肌で感じ始めていたのは、王太子ユリヴェール本人でもあった。
その日の夕刻、王太子執務室には珍しく商務局の役人が呼ばれていた。
「確認ばかりで進んでおりません」
役人は緊張した顔で言う。
「今月の納品予定も、一部の商会が“条件再確認中”として留めております。物自体は確保できるでしょうが、日程と格に影響が出る可能性がございます」
ユリヴェールは露骨に不快そうだった。
「なぜだ。契約は王家とのものだろう」
「はい。ですが……」
役人は言い淀む。
そこへ、側近のひとりが補足するように口を開いた。
「先方は、契約そのものより運用の安定を見ております」
「同じことを何度も聞かせるな」
ユリヴェールの声音が鋭くなる。
「王家を信用せぬ商会などあるものか」
その言葉に、部屋の空気がわずかに冷えた。
たしかに表立って“信用しません”とは誰も言わない。
だが商人は、思っていても言わぬだけだ。言葉にせず、納期や条件で示す。
側近は慎重に言う。
「王家を信用しないというより、現状の指示系統に不安を抱いているのかと」
「指示系統?」
「はい。これまで細部を整えていた経路が失われましたので」
ユリヴェールは眉をひそめた。
またそれか、という顔だった。
ここ数日で彼は何度その言葉を聞いただろう。
細部。調整。経路。
どれも彼にとっては煩わしい裏方の話でしかない。だが、その煩わしいものがいまは全部、彼の足元へ積み上がってきている。
「つまり、お前たちはアリアベルがいないから回らないと言いたいのだな」
ついにその名前が、正面から出た。
役人は答えに窮した。
否定すれば嘘になる。肯定すれば不敬に近い。
だが沈黙は、時に肯定以上の意味を持つ。
ユリヴェールの顔色が変わる。
「馬鹿馬鹿しい。商会ごときが、婚約者ひとりいなくなった程度で揺らぐわけがない」
その瞬間、年長の側近が低く言った。
「婚約者ひとり、ではございません」
言ってから、室内の空気が凍りつく。
側近自身も、踏み込みすぎたとわかっているのだろう。
だが、もう止まらなかった。
「フォルティス嬢は、商会との間で信頼の橋を架けておられました。納期が揺れた時の詫び、贈答の格調整、面子が潰れぬ代替案――そういったものが、先方には見えていたのです」
ユリヴェールは何も言わない。
「見えていたから、無理も通った。急ぎも利いた。殿下のお名前だけではございません。あの方の働きが“約束は形になる”という安心になっていたのです」
しん、と静まり返る。
誰も動けない。
王太子へ向かって、そこまで言うのは危うい。
だが同時に、今この場で誰より正確に現状を言い表しているのも事実だった。
ユリヴェールは机へ手をつき、しばらく無言で立っていた。
怒鳴るかと思われたが、怒鳴れなかった。
言い返せるほど、中身を知らなかったからだ。
やがて彼は低く吐き出す。
「……商会の分際で」
それは怒りというより、傷ついた自尊心の声だった。
王太子である自分が軽んじられている。
そう感じているのだろう。
だが本質はそこではない。軽んじられているのではなく、“約束の形”を疑われているのだ。
地位は高い。
だが高い地位ほど、周囲がそれを現実に変えてくれる仕組みが要る。
その仕組みが揺らげば、地位だけでは足りない。
「どういたしますか」
商務局の役人が恐る恐る問う。
ユリヴェールはすぐには答えなかった。
答えられなかったのだろう。
アリアベルを戻せと言えば、自分の婚約破棄が軽率だったと認めるようなものだ。
かといって、このまま放置すれば商会はさらに慎重になる。
そして、慎重になるということは、王太子側の“即応力”が失われるということでもある。
「ひとまず、既存契約の履行を最優先に」
ようやく出た言葉は、それ自体は正しいが、遅かった。
「追加の発注は急がず、納期に間に合うものだけ確保しろ」
「かしこまりました」
役人が頭を下げる。
だが、それは実質的な縮小策だった。
王太子の側が慎重になった、と見られる。
商会側はさらに、“やはり今は危うい”と感じるだろう。
それでも、他に打つ手がない。
その夜、王都のいくつかの商会では、似たような判断が同時に下されていた。
急ぎの案件は一度保留。
格の高い品は確約を避ける。
王太子側の依頼は、家格より実務確認を優先。
そして、今後はできる限り王妃宮か、あるいは公爵家筋を通じた話を待つ。
どれも表向きは穏やかな対応だ。
断絶ではない。拒絶でもない。
だが、それまで当然のようにあった“優先して動く理由”が消えている。
信用とは、ある日突然なくなるものではない。
まず少し揺らぐ。
次に、誰かが距離を取る。
それを見た別の誰かも、念のためと距離を取る。
そうして気づいた時には、もう前と同じ温度では戻らない。
アリアベルはその頃、辺境伯邸の書庫で静かな夜を過ごしていた。
窓辺の椅子に座り、昼間に見た領内の記録をめくっている。
整った数字、簡潔な注記、必要な場所だけに入る赤の印。
ここでは、人の顔色ではなく、流れと結果が先にある。
そこへ、マルセルがそっと入ってきた。
「お嬢様」
「どうしたの」
「王都からの追加の報せが届いております」
アリアベルはページを閉じた。
「聞かせて」
「いくつかの商会が、王太子殿下側の案件を条件再確認として留めております。表向きは契約見直しではございませんが、実質的には慎重姿勢への移行かと」
アリアベルは静かに息を吐いた。
「……そう」
驚きはない。
ただ、その速さに少しだけ目を伏せる。
商会は正直だ。
貴族のように美しい言い回しで遠回しにせず、損を避ける方向へ静かに動く。
その動きは時に冷たいが、理にかなっている。
「やはり、信用まで失われ始めたのですね」
ぽつりとそう言うと、マルセルは即座に答えた。
「正確には、“当然に与えられていた信用が、当然ではなくなった”かと」
アリアベルは思わず苦笑した。
「言い方が本当に容赦ないわね」
「事実にございますので」
まったく、その通りだ。
王家の名がある限り、完全に信用がなくなることはない。
けれど、今までのように“王太子側だから急いで動く”“多少無理でも最終的には整う”という前提は消えた。
それはとても大きい。
「私、少しだけ勘違いしていたのかもしれないわ」
「何をでございますか」
「婚約破棄の代償は、社交界と王宮の中だけで出るものだと思っていたの」
マルセルは黙って聞く。
「でも違うのね。商人たちまで、ちゃんと見ている」
「見る方々でございます」
「ええ」
アリアベルは窓の外を見た。
辺境の夜は王都よりずっと静かだ。
その静けさの中で考えると、王都の騒ぎすらどこか構造だけに見えてくる。
失われた信用。
それは、婚約破棄された自分のものではなかった。
少なくとも今、揺らいでいるのはあちらだ。
王太子としての威厳。
王家との仕事の安心感。
そして、約束は最後にきちんと形になるという見えない信頼。
それらが一つずつ剥がれ始めている。
「戻したいと思っても、これは簡単には戻りませんわね」
アリアベルが言うと、マルセルは小さく頷いた。
「はい。信用とは、謝罪より時間を要しますので」
その一言が、妙に重く響いた。
謝れば済むならまだ早い。
だが信用は、謝るだけでは戻らない。
揺らいだ相手に、もう一度“この人たちなら大丈夫だ”と思わせるだけの積み重ねが必要になる。
そして今の王太子の周囲には、その積み重ねを作るだけの余裕があるだろうか。
アリアベルは、ゆっくりと書庫の灯りへ目を戻した。
王都で今失われているものは、見えないぶんだけ深い。
けれど、見えないからこそ一度崩れれば長く尾を引く。
婚約破棄は、ただ一人の令嬢を追い払うだけで済む話ではなかった。
ようやくそのことが、王宮の外にまで染み出し始めている。
そして、それを染み出させたのは、怒鳴り返しでも復讐の宣言でもない。
ただ、こちらが引いたこと。
それだけだった。
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