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14 小さな嘘の積み重ね
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14 小さな嘘の積み重ね
北門の市場から戻った夕刻、辺境伯邸の空気は昼間より少し落ち着いていた。
日が傾くと、人の動きは止まらないまま音だけが柔らかくなる。
使用人たちは変わらず働いているのに、屋敷全体が静かに息を整えるような時間だ。
アリアベルは客室ではなく、小さな談話室を借りていた。
窓の外には薄紫の空。
卓の上には、マルセルが整理して置いていった数枚の報告書。
その中には、イネスの件とは別に、王都で拾われた“些細な証言”がいくつか混じっていた。
どれも単独では弱い。
けれど、妙に同じ匂いがする。
「失礼いたします」
入ってきたマルセルの手には、さらに薄い紙束があった。
「お待たせいたしました。追加の聞き取りでございます」
「早かったわね」
「たまたま口の軽い者が複数おりました」
「それはありがたい偶然だこと」
マルセルはいつもの無表情のまま紙を卓へ置く。
「偶然かどうかはさておき、リネット様に関する細かな証言がいくつか繋がり始めております」
アリアベルはすぐに一枚目へ目を落とした。
そこにあったのは、学園時代の侍女見習いの証言。
リネットが階段で転んだと騒いだ日のことだ。
当時は“アリアベルに冷たくあしらわれ、気が動転して足を滑らせた”と広まった。
だがその見習いは、“転ぶ前にリネットが自分で足元の裾を踏み、周囲を確認していたように見えた”と話している。
アリアベルはゆっくり紙を置いた。
「……そんなところまで」
「はい。ただし本人も断定はしておりません。“そう見えた気がする”程度です」
「十分よ」
少なくとも、ずっと不自然だった違和感に形が与えられる。
二枚目。
こちらは、かつてフォルティス公爵邸へ出入りしていた仕立て屋の娘の話だ。
リネットが“姉のお下がりなど嫌ですわ”と不満を漏らした直後、人前では“お姉様は何でもご自分だけ新しくなさるの。私はいつも残り物ですの”と泣いていたという。
三枚目。
学園の女官補佐の記録。
リネットが夜会前に“アリアベルにきつく言われて怖かった”と涙ながらに訴えたが、その少し前に彼女自身が順番を無視して支度部屋へ割り込んでいたらしい。
四枚目。
こちらは王宮の若い女官の証言で、“リネット様は、言いにくいことを言われる前に必ず先に泣く”という、実に身も蓋もない感想だった。
アリアベルは思わず目を細める。
「小さいわね……」
「はい」
「どれもひとつずつは小さすぎる」
「ですが、同じ方向を向いております」
マルセルの言葉に、アリアベルは頷いた。
そう。
問題はそこだ。
ひとつの決定的な悪事ではない。
ひとつで人を潰すほどの証拠ではない。
だが、どれも同じ構造をしている。
先に欲しがる。
断られるか咎められそうになる。
自分が不利になる直前で泣く。
周囲が“可哀想な側”へ認識を傾ける。
結果として、自分に都合のよい印象だけが残る。
小さな嘘。
けれど、それが繰り返されれば、やがて人ひとりの人格さえ歪めて見せる。
「私、思い出したことがあるの」
アリアベルはそう言って、遠くを見るように視線をずらした。
「学園に入ったばかりの頃、図書室で本が一冊なくなった騒ぎがあったのよ」
マルセルは静かに続きを待つ。
「古い詩集で、貸し出しには特別な許可が必要な本だったわ。なぜか、最後にその棚の近くにいたのが私だと言われて、司書が少し困った顔をしていたの」
「お嬢様が?」
「ええ。でも、私は触れてもいない。おかしいと思ったら、その日の夕方、リネットの部屋にその本があったのよ」
マルセルの目がわずかに細くなる。
「なぜお嬢様は、その時追及なさらなかったので」
「……リネットが泣いたから」
自分で口にして、少し苦くなる。
「“読んでみたかっただけなの”“でも、勝手に持ち出したら叱られると思って”“お姉様まで怒らないで”って。あまりにみっともなく泣くから、結局、私が元へ戻して終わりにしたの」
「そして、周囲には?」
「“勘違いだったようだ”で終わったわ」
勘違いだったようだ。
なんて便利な言葉だったのだろう。
その時は、それで十分だと思った。
大事にするほどのことではない、と。
リネットも若かったし、自分が騒げば家の恥になるかもしれないと、そう思った。
でも違った。
ああいう小さな見逃しの積み重ねが、あの従妹に“泣けば済む”を覚えさせたのだ。
「他にもございますか」
マルセルに問われ、アリアベルは目を伏せた。
「あるわ。たくさん、とは言わないけれど……思い返せばいくつも」
髪飾り。
手袋。
舞踏会の順番。
些細な贈り物。
招待状の席。
どれも大事件ではない。
どれも、こちらが黙っていれば収まる程度のことだった。
そしてリネットは、いつも“その程度”の範囲でやるのがうまかった。
「決定的な悪事を犯す人間ではなかったのね」
アリアベルはぽつりと言う。
「少なくとも最初は」
「はい。大きく盗むより、小さく奪うほうが見つかりにくいと知っていたのでしょう」
その表現が、妙にしっくりきた。
小さく奪う。
物だけではない。
視線。
印象。
同情。
信頼。
そういう目に見えないものまで、少しずつ、確実に。
「マルセル」
「はい」
「ユリヴェール殿下が、私を“冷たい女”だと信じたきっかけも、こういう小さなものの積み重ねだったのかもしれないわ」
マルセルは即答しなかった。
しばらく考え、それから言う。
「可能性は極めて高いかと」
「でしょうね」
たとえば、アリアベルが何かを断る。
それが家格や礼法として妥当な判断でも、リネットは“お姉様に嫌われているの”とだけ泣いて見せる。
それを繰り返せば、事情を知らない者ほど、“いつも泣かされている可哀想な子”として認識するようになる。
ユリヴェールのような、表面で物事を捉えやすい男なら、なおさらだ。
「殿下は愚かでしたけれど」
アリアベルは静かに言った。
「愚かさだけで、ここまで綺麗に誘導されるものでもない。あの人の浅さを、リネットはよく知っていたのね」
「人を動かす時、自分の力だけで押す者は二流です」
マルセルが淡々と答える。
「相手が勝手にそうしたと思い込むように誘導する者のほうが、厄介でございます」
「本当に嫌なことを言うわね」
「恐れ入ります」
その言い方が真面目なので、少しだけ笑いそうになる。
だが内容はまったく笑えない。
「お嬢様」
マルセルは一枚の紙を抜き出した。
「こちらは少し興味深いかと」
差し出されたのは、学園時代にリネットの近くへいた侍女見習いの証言だった。
“リネット様は、何か欲しいものがある時、直接ねだるより先に『でも、私なんてどうせ……』とおっしゃることが多かった”
アリアベルはその一文を読んで、目を細めた。
「ああ……それ、よく言っていたわ」
「つまり、先に不足を演出するわけでございますね」
「そう。すると相手が勝手に埋めたくなる」
“私なんて”。
“どうせ私は”。
“お姉様のようには”。
そういう言葉を言われるたび、周囲はリネットへ何かを与えていた。
品物だったり、席だったり、気遣いだったり。
そして、与えない者は冷たい人間になる。
それはずるい。
けれど、とてもよくできたやり方でもあった。
「これまで私は、リネットを“甘えるのが上手い子”程度に見ていたのかもしれないわ」
「今は?」
「“甘え”を道具にしている、と」
その違いは大きい。
無自覚の甘えなら、まだ幼さで済む。
けれど、相手がどう反応するかを知っていて使うなら、それはもう立派な操作だ。
「イネスがもし、この流れを近くで見ていたなら」
アリアベルはゆっくり言う。
「彼女は、婚約破棄の日だけのことではなく、もっと前からの癖を知っているはずね」
「はい。だからこそ消えた可能性もございます」
「ええ」
アリアベルは立ち上がり、窓辺まで歩いた。
外はすっかり暮れかけている。
辺境の空は広く、王都のように屋根に切り取られない。
その広さの中で考えると、リネットのやり口はなおさら息苦しく思えた。
小さな嘘の積み重ね。
それは一度や二度では、人を断罪できない。
けれど、長く続けば印象を塗り替え、関係を歪め、ついには“あの人はそういう人だ”という評価まで作ってしまう。
そしていちばん厄介なのは、そのやり方をされると、被害を受ける側ほど口を開きにくいことだ。
そんな細かいことで。
泣いている相手にそこまで言うのか。
大人げない。
気が強い。
冷たい。
そう思われるのが嫌で、アリアベルは何度も黙った。
その黙りが、結果的にリネットの武器を育てたのだ。
「……腹が立つわね」
珍しく、はっきりそう口にすると、後ろでマルセルが静かに答えた。
「当然かと」
「私に、ではなく」
「承知しております」
その返事に、アリアベルは少し肩の力を抜いた。
自分にも責任がある、とは思う。
だが今必要なのは、自分を責めることではない。
構造を見抜き、崩すことだ。
「証言はまだ弱い」
アリアベルが言う。
「でも、方向は見えたわ。リネットは昔から一貫していた。大きな嘘をひとつ吐くのではなく、小さな嘘を重ねて人の印象を動かしてきた」
「はい」
「なら、婚約破棄の件も同じかもしれない」
マルセルはわずかに目を伏せた。
「お嬢様の仰る通りかと」
「殿下へ近づく前から、少しずつ私の印象を削っていたのなら」
そこまで言って、アリアベルは振り返る。
「いずれ、繋がるわね」
「ええ。イネスが見つかれば、かなり」
「見つからなくても、証言は集める」
「承知いたしました」
部屋に短い沈黙が落ちた。
その時、扉が控えめに叩かれる。
入ってきたのは辺境伯邸の侍女だった。
「アリアベル様。夕食のお支度が整っております」
「ありがとう。すぐ参ります」
侍女が下がると、マルセルも書類を整え始める。
「今夜はここまででよろしいでしょうか」
「ええ。頭の中で少し整理したいもの」
「では、必要なものだけお部屋へお運びいたします」
「お願い」
マルセルが退出したあと、アリアベルは一度だけ深く息をついた。
今まで見えていなかったものが、少しずつ形を持ち始めている。
ただの略奪ではない。
ただの恋の横取りでもない。
もっと細かく、もっと粘ついたやり方で、自分は長い時間をかけて削られていたのかもしれない。
それがわかったからといって、すぐ気持ちが晴れるわけではない。
むしろ、遅れて腹が立つ。
けれど同時に、奇妙な静けさもあった。
構造が見えれば、対処も見える。
感情だけで怒るのではなく、どう崩せばよいかを考えられるようになる。
アリアベルは卓の上の紙を最後に一枚だけ見た。
“でも、私なんてどうせ……”
その一文が、やけに嫌な後味を残す。
あれは弱さではなかった。
弱さのふりをした、要求の形だったのだ。
もう、そのやり方に飲まれるつもりはない。
そう思いながら、アリアベルは静かに談話室を後にした。
北門の市場から戻った夕刻、辺境伯邸の空気は昼間より少し落ち着いていた。
日が傾くと、人の動きは止まらないまま音だけが柔らかくなる。
使用人たちは変わらず働いているのに、屋敷全体が静かに息を整えるような時間だ。
アリアベルは客室ではなく、小さな談話室を借りていた。
窓の外には薄紫の空。
卓の上には、マルセルが整理して置いていった数枚の報告書。
その中には、イネスの件とは別に、王都で拾われた“些細な証言”がいくつか混じっていた。
どれも単独では弱い。
けれど、妙に同じ匂いがする。
「失礼いたします」
入ってきたマルセルの手には、さらに薄い紙束があった。
「お待たせいたしました。追加の聞き取りでございます」
「早かったわね」
「たまたま口の軽い者が複数おりました」
「それはありがたい偶然だこと」
マルセルはいつもの無表情のまま紙を卓へ置く。
「偶然かどうかはさておき、リネット様に関する細かな証言がいくつか繋がり始めております」
アリアベルはすぐに一枚目へ目を落とした。
そこにあったのは、学園時代の侍女見習いの証言。
リネットが階段で転んだと騒いだ日のことだ。
当時は“アリアベルに冷たくあしらわれ、気が動転して足を滑らせた”と広まった。
だがその見習いは、“転ぶ前にリネットが自分で足元の裾を踏み、周囲を確認していたように見えた”と話している。
アリアベルはゆっくり紙を置いた。
「……そんなところまで」
「はい。ただし本人も断定はしておりません。“そう見えた気がする”程度です」
「十分よ」
少なくとも、ずっと不自然だった違和感に形が与えられる。
二枚目。
こちらは、かつてフォルティス公爵邸へ出入りしていた仕立て屋の娘の話だ。
リネットが“姉のお下がりなど嫌ですわ”と不満を漏らした直後、人前では“お姉様は何でもご自分だけ新しくなさるの。私はいつも残り物ですの”と泣いていたという。
三枚目。
学園の女官補佐の記録。
リネットが夜会前に“アリアベルにきつく言われて怖かった”と涙ながらに訴えたが、その少し前に彼女自身が順番を無視して支度部屋へ割り込んでいたらしい。
四枚目。
こちらは王宮の若い女官の証言で、“リネット様は、言いにくいことを言われる前に必ず先に泣く”という、実に身も蓋もない感想だった。
アリアベルは思わず目を細める。
「小さいわね……」
「はい」
「どれもひとつずつは小さすぎる」
「ですが、同じ方向を向いております」
マルセルの言葉に、アリアベルは頷いた。
そう。
問題はそこだ。
ひとつの決定的な悪事ではない。
ひとつで人を潰すほどの証拠ではない。
だが、どれも同じ構造をしている。
先に欲しがる。
断られるか咎められそうになる。
自分が不利になる直前で泣く。
周囲が“可哀想な側”へ認識を傾ける。
結果として、自分に都合のよい印象だけが残る。
小さな嘘。
けれど、それが繰り返されれば、やがて人ひとりの人格さえ歪めて見せる。
「私、思い出したことがあるの」
アリアベルはそう言って、遠くを見るように視線をずらした。
「学園に入ったばかりの頃、図書室で本が一冊なくなった騒ぎがあったのよ」
マルセルは静かに続きを待つ。
「古い詩集で、貸し出しには特別な許可が必要な本だったわ。なぜか、最後にその棚の近くにいたのが私だと言われて、司書が少し困った顔をしていたの」
「お嬢様が?」
「ええ。でも、私は触れてもいない。おかしいと思ったら、その日の夕方、リネットの部屋にその本があったのよ」
マルセルの目がわずかに細くなる。
「なぜお嬢様は、その時追及なさらなかったので」
「……リネットが泣いたから」
自分で口にして、少し苦くなる。
「“読んでみたかっただけなの”“でも、勝手に持ち出したら叱られると思って”“お姉様まで怒らないで”って。あまりにみっともなく泣くから、結局、私が元へ戻して終わりにしたの」
「そして、周囲には?」
「“勘違いだったようだ”で終わったわ」
勘違いだったようだ。
なんて便利な言葉だったのだろう。
その時は、それで十分だと思った。
大事にするほどのことではない、と。
リネットも若かったし、自分が騒げば家の恥になるかもしれないと、そう思った。
でも違った。
ああいう小さな見逃しの積み重ねが、あの従妹に“泣けば済む”を覚えさせたのだ。
「他にもございますか」
マルセルに問われ、アリアベルは目を伏せた。
「あるわ。たくさん、とは言わないけれど……思い返せばいくつも」
髪飾り。
手袋。
舞踏会の順番。
些細な贈り物。
招待状の席。
どれも大事件ではない。
どれも、こちらが黙っていれば収まる程度のことだった。
そしてリネットは、いつも“その程度”の範囲でやるのがうまかった。
「決定的な悪事を犯す人間ではなかったのね」
アリアベルはぽつりと言う。
「少なくとも最初は」
「はい。大きく盗むより、小さく奪うほうが見つかりにくいと知っていたのでしょう」
その表現が、妙にしっくりきた。
小さく奪う。
物だけではない。
視線。
印象。
同情。
信頼。
そういう目に見えないものまで、少しずつ、確実に。
「マルセル」
「はい」
「ユリヴェール殿下が、私を“冷たい女”だと信じたきっかけも、こういう小さなものの積み重ねだったのかもしれないわ」
マルセルは即答しなかった。
しばらく考え、それから言う。
「可能性は極めて高いかと」
「でしょうね」
たとえば、アリアベルが何かを断る。
それが家格や礼法として妥当な判断でも、リネットは“お姉様に嫌われているの”とだけ泣いて見せる。
それを繰り返せば、事情を知らない者ほど、“いつも泣かされている可哀想な子”として認識するようになる。
ユリヴェールのような、表面で物事を捉えやすい男なら、なおさらだ。
「殿下は愚かでしたけれど」
アリアベルは静かに言った。
「愚かさだけで、ここまで綺麗に誘導されるものでもない。あの人の浅さを、リネットはよく知っていたのね」
「人を動かす時、自分の力だけで押す者は二流です」
マルセルが淡々と答える。
「相手が勝手にそうしたと思い込むように誘導する者のほうが、厄介でございます」
「本当に嫌なことを言うわね」
「恐れ入ります」
その言い方が真面目なので、少しだけ笑いそうになる。
だが内容はまったく笑えない。
「お嬢様」
マルセルは一枚の紙を抜き出した。
「こちらは少し興味深いかと」
差し出されたのは、学園時代にリネットの近くへいた侍女見習いの証言だった。
“リネット様は、何か欲しいものがある時、直接ねだるより先に『でも、私なんてどうせ……』とおっしゃることが多かった”
アリアベルはその一文を読んで、目を細めた。
「ああ……それ、よく言っていたわ」
「つまり、先に不足を演出するわけでございますね」
「そう。すると相手が勝手に埋めたくなる」
“私なんて”。
“どうせ私は”。
“お姉様のようには”。
そういう言葉を言われるたび、周囲はリネットへ何かを与えていた。
品物だったり、席だったり、気遣いだったり。
そして、与えない者は冷たい人間になる。
それはずるい。
けれど、とてもよくできたやり方でもあった。
「これまで私は、リネットを“甘えるのが上手い子”程度に見ていたのかもしれないわ」
「今は?」
「“甘え”を道具にしている、と」
その違いは大きい。
無自覚の甘えなら、まだ幼さで済む。
けれど、相手がどう反応するかを知っていて使うなら、それはもう立派な操作だ。
「イネスがもし、この流れを近くで見ていたなら」
アリアベルはゆっくり言う。
「彼女は、婚約破棄の日だけのことではなく、もっと前からの癖を知っているはずね」
「はい。だからこそ消えた可能性もございます」
「ええ」
アリアベルは立ち上がり、窓辺まで歩いた。
外はすっかり暮れかけている。
辺境の空は広く、王都のように屋根に切り取られない。
その広さの中で考えると、リネットのやり口はなおさら息苦しく思えた。
小さな嘘の積み重ね。
それは一度や二度では、人を断罪できない。
けれど、長く続けば印象を塗り替え、関係を歪め、ついには“あの人はそういう人だ”という評価まで作ってしまう。
そしていちばん厄介なのは、そのやり方をされると、被害を受ける側ほど口を開きにくいことだ。
そんな細かいことで。
泣いている相手にそこまで言うのか。
大人げない。
気が強い。
冷たい。
そう思われるのが嫌で、アリアベルは何度も黙った。
その黙りが、結果的にリネットの武器を育てたのだ。
「……腹が立つわね」
珍しく、はっきりそう口にすると、後ろでマルセルが静かに答えた。
「当然かと」
「私に、ではなく」
「承知しております」
その返事に、アリアベルは少し肩の力を抜いた。
自分にも責任がある、とは思う。
だが今必要なのは、自分を責めることではない。
構造を見抜き、崩すことだ。
「証言はまだ弱い」
アリアベルが言う。
「でも、方向は見えたわ。リネットは昔から一貫していた。大きな嘘をひとつ吐くのではなく、小さな嘘を重ねて人の印象を動かしてきた」
「はい」
「なら、婚約破棄の件も同じかもしれない」
マルセルはわずかに目を伏せた。
「お嬢様の仰る通りかと」
「殿下へ近づく前から、少しずつ私の印象を削っていたのなら」
そこまで言って、アリアベルは振り返る。
「いずれ、繋がるわね」
「ええ。イネスが見つかれば、かなり」
「見つからなくても、証言は集める」
「承知いたしました」
部屋に短い沈黙が落ちた。
その時、扉が控えめに叩かれる。
入ってきたのは辺境伯邸の侍女だった。
「アリアベル様。夕食のお支度が整っております」
「ありがとう。すぐ参ります」
侍女が下がると、マルセルも書類を整え始める。
「今夜はここまででよろしいでしょうか」
「ええ。頭の中で少し整理したいもの」
「では、必要なものだけお部屋へお運びいたします」
「お願い」
マルセルが退出したあと、アリアベルは一度だけ深く息をついた。
今まで見えていなかったものが、少しずつ形を持ち始めている。
ただの略奪ではない。
ただの恋の横取りでもない。
もっと細かく、もっと粘ついたやり方で、自分は長い時間をかけて削られていたのかもしれない。
それがわかったからといって、すぐ気持ちが晴れるわけではない。
むしろ、遅れて腹が立つ。
けれど同時に、奇妙な静けさもあった。
構造が見えれば、対処も見える。
感情だけで怒るのではなく、どう崩せばよいかを考えられるようになる。
アリアベルは卓の上の紙を最後に一枚だけ見た。
“でも、私なんてどうせ……”
その一文が、やけに嫌な後味を残す。
あれは弱さではなかった。
弱さのふりをした、要求の形だったのだ。
もう、そのやり方に飲まれるつもりはない。
そう思いながら、アリアベルは静かに談話室を後にした。
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