婚約を捨てたのはあなたですのに、今さら愛を乞われても困ります

ふわふわ

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15 保護された証人

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15 保護された証人

辺境伯邸へ夜が落ちる頃、アリアベルはようやく一日の思考を静められる気がしていた。

夕食の席では、レオニードが市場の流れや北門の兵の交代について淡々と話し、アリアベルもそれに応じて気づいた点をいくつか伝えた。
王都の名も、婚約破棄の話も、意図して避けたわけではないのに、自然と出なかった。

そのことがありがたかった。

王都では、黙っていてもすべての会話があの夜へ繋がる。
けれどここでは、別の話ができる。
別のものを見て、別のことを考えられる。

それでも、夜が深まれば、結局頭の奥へ戻ってくるのはイネスの件だった。

小さな嘘の積み重ね。
消えた侍女。
そして、リネットの涙の裏側。

自室へ戻ったアリアベルは、窓辺でしばらく夜の庭を見ていた。
辺境の夜気は冷たい。だが不快ではなく、思考を冷ましてくれる種類の冷たさだ。

「お嬢様」

控えめなノックのあと、マルセルが入ってきた。

時間を考えれば、ただの報告ではない。
アリアベルはすぐに振り返る。

「何かあったのね」

「はい」

マルセルは扉を閉めると、いつもよりわずかに声を落とした。

「イネスが見つかりました」

アリアベルは息を止めた。

「無事なの?」

「今のところは」

その答えだけで、胸の奥に張っていたものが少しだけ緩む。

「どこにいたの」

「王都の南側、川沿いの古い宿場町です。表向きは仕立て屋の手伝いとして身を寄せておりました」

「そんな場所に」

「はい。親類縁者ではなく、以前に王宮を辞した下働きの女を頼ったようでございます」

「つまり、正式な行き先としては追えない場所を選んだのね」

「そのようです」

アリアベルはゆっくり椅子へ腰を下ろした。

見つかった。
それだけで、今まで手の届かなかった霧の向こうに、はじめてはっきりした輪郭が生まれる。

「こちらの者が接触したの?」

「はい。ただし最初はひどく怯えておりました。王宮へ戻されるのか、誰に命じられたのか、何度も確認していたと」

当然だろう。

逃げて隠れていた人間が、突然見つけられればそうなる。
しかも相手がフォルティス公爵家側だと知れば、“口を使わせるために来た”と思っても不思議ではない。

「どうやって落ち着かせたの」

「すぐには事情を聞かず、まず食事と寝床を確保しました。今は王都外れの安全な場所へ移してあります」

その手際に、アリアベルは静かに頷いた。

「よかった」

「ただ」

マルセルは続ける。

「まだ十分に話せる状態ではございません。何かを知っているのは間違いなさそうですが、口を開けば自分が消されると思っている節がございます」

“消される”。

その言葉が、部屋の空気を少しだけ重くした。

アリアベルは指先を組み、しばらく考える。

それほどまでに怯えるということは、イネスはただ不機嫌な主人から離れたかっただけではない。
もっと直接的な恐れがある。
見たものか、聞いたものか、あるいは主人の本性そのものか。

「私が会うわ」

そう言うと、マルセルが一瞬だけ目を上げた。

「お嬢様ご自身が?」

「ええ」

「危険では」

「危険だからこそよ」

アリアベルは静かに言った。

「向こうは今、誰も信じられない状態なのでしょう? なら、私が出るのがいちばん早いわ」

「ですが、お嬢様が直接動かれれば、辺境伯閣下のお立場にも」

「ここでは動かない。王都へ戻る前でもなく、王宮の面会の前でもなく、今夜、という意味でもないわ」

マルセルは少し考え、それから頷いた。

「……承知いたしました。お嬢様がご覧になるなら、まずこちらで状況をもう少し整えます」

「お願い。脅されていると思わせたら終わりよ」

「はい」

アリアベルは少しだけ迷ってから尋ねた。

「イネスは、私の名を聞いてどうしたの?」

マルセルは珍しく、ほんのわずかに間を置いた。

「泣いたそうです」

その答えに、アリアベルは言葉を失う。

「……そう」

「“アリアベル様にまで知られたなら、もう終わりだと思った”と」

終わりだと思った。
それは、“助かる”ではなく“破滅する”に近い響きだった。

アリアベルは胸の奥に冷たい痛みを覚えた。

自分は、そんなふうに見られていたのだろうか。
冷静で、厳しくて、容赦なく正しい女。
少なくとも、リネットのそばに長くいた侍女の目にはそう映っていたのかもしれない。

「怯えさせるつもりはなかったのだけれど」

「お嬢様は何もなさっておりません」

「でも、私が見逃してきたことがあったのも事実よ」

そう口にすると、マルセルは少しだけ目を伏せた。

否定はしない。
けれど責めもしない。
その沈黙が、むしろありがたい。

「会える状態になったら、すぐ知らせて」

「承知いたしました」

マルセルが下がったあと、アリアベルはしばらくひとりで動けなかった。

イネスが見つかった。
それは前進だ。
確かな前進のはずなのに、胸の内はすっきりしない。

リネットの近くにいたあの侍女は、何年もあのやり方を見ていたのだろう。
小さな嘘。
都合のいい涙。
自分が傷つく前に先に傷ついた顔を作るやり口。

そして、アリアベル自身もまた、それをどこかで“厄介な甘え”程度に片づけてきた。

もしあの時、もっと早く向き合っていれば。
もしあの時、“泣いているから”で済ませなければ。
そんな考えが一瞬頭をよぎる。

だが、今はそこへ沈むべきではない。

見つかった。
ならば次は、話せる形を作ることだ。

翌朝。
朝食の席でアリアベルがその件を簡潔に伝えると、レオニードはカップを置いて静かに言った。

「保護できたのなら良かった」

「はい」

「ただ、すぐには聞けませんね」

アリアベルは頷く。

「ええ。怯えきっているそうです」

レオニードはしばらく考え、それから言った。

「恐れている相手が“今も届く場所にいる”と思っている限り、証人はなかなか口を開きません」

「わかっています」

「ではまず、“届かない”と実感させることです」

その言葉に、アリアベルはゆっくり瞬きをした。

届かない。
それは安全の説明ではなく、実感として必要なのだろう。

「場所を移しただけでは足りない、と」

「ええ。食事がある、寝床がある、それだけでは人はまだ怯えます。自分を見つけた側が、すぐに売らない、使い潰さないと信じられる材料が要る」

「材料……」

レオニードは窓の外へ少し視線を向けた。

「例えば、“話してもすぐ表へ出さない”と約束すること。あるいは、彼女自身が選べる余地を残すこと」

アリアベルはその言葉を胸の中で繰り返した。

選べる余地。

今のイネスには、それがまったくないのだろう。
王宮にいても主人に振り回され、逃げれば逃げたで怯え、見つかれば誰に使われるかわからない。
その状態で“話しなさい”と言われても、口が開くはずがない。

「閣下は、こういうことにもお詳しいのですね」

アリアベルが言うと、レオニードはごく自然に答えた。

「国境では、情報を持った者が怯えていることは珍しくありません。無理に吐かせても、嘘か沈黙しか返ってきませんから」

その実感のこもった言い方に、アリアベルは頷く。

なるほど。
証人を扱うのではない。まず、怯えている人間として扱う。
その順番を間違えれば、たしかに何も得られない。

朝食の後、アリアベルはすぐにマルセルを呼んだ。

「イネスへ伝えてちょうだい」

「はい」

「今すぐ話せとは言わないこと。話した内容を、本人の許しなくすぐ表へは出さないこと。そして、会うかどうかも彼女が決めていいと」

マルセルは少しだけ目を細める。

「それで、かえって逃げる恐れは」

「あるわ」

アリアベルは認めた。

「でも、今のまま怯えさせて口を開かせたところで、どうせ本当のことは出てこない」

「……その通りかと」

「それと、衣服と医師を」

「医師、ですか」

「ええ。怪我や体調だけじゃない。眠れているか、まともに食べられているかも見てほしいの。王宮を出た直後から隠れていたなら、かなり消耗しているはずよ」

マルセルは一礼した。

「かしこまりました」

その日の午後、王妃宮との面会のために王都へ戻る日程が正式に詰められた。

辺境伯邸での滞在は長くはない。
もう数日もすれば、アリアベルは再び王都の空気の中へ戻らなければならない。

それまでにイネスと会えるかどうか。
それはまだわからない。

だが夕刻近く、マルセルが新たな報告を持って戻った時、事態は少しだけ前へ進んだ。

「お嬢様」

「何かしら」

「イネスが、“アリアベル様にだけなら会ってもいい”と申しております」

アリアベルは息を呑んだ。

「本当に?」

「はい。ただし条件がございます」

「聞かせて」

「王宮へは戻さないこと。リネット様へ所在を知らせないこと。話した内容を勝手に使わないと約束すること」

どれも当然だ。
むしろ、それだけでいいのかと思うほどだった。

「受けるわ」

アリアベルは即答した。

「明日、会いに行きます」

マルセルは静かに頷いた。

「では、そのように整えます」

夜、ひとりになったあとで、アリアベルは窓辺に立った。

明日、自分はイネスと会う。
リネットの近くにいて、彼女の涙の裏側を見ていたかもしれない侍女と。

そこから何が出てくるのかは、まだわからない。
小さな違和感が繋がるだけかもしれない。
あるいは、婚約破棄そのものの土台を揺るがす何かが出るかもしれない。

けれど、少なくともこれで“推測だけ”ではなくなる。

保護された証人は、まだ証言していない。
それでも、もうただの消えた侍女ではない。
こちらの手の届く場所で、息をしている。

それだけで、闇の中にひとつ灯りがともった気がした。

アリアベルは静かに目を閉じる。

怖くないと言えば嘘になる。
聞きたくないことを聞くかもしれない。
自分が見逃してきたものを、改めて突きつけられるかもしれない。

それでも、進まなければならない。

小さな嘘の積み重ねが、自分の人生をここまで歪めたのなら。
それを崩す最初の石もまた、小さな証言から始まるのだ。
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