婚約を捨てたのはあなたですのに、今さら愛を乞われても困ります

ふわふわ

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17 辺境の穏やかな時間

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17 辺境の穏やかな時間

翌日から、アリアベルはヴァルセイン辺境伯領の中で、半ば客人、半ば視察者のような日々を送るようになった。

朝は領内の記録を見る。
昼は市場や監督所、時には倉や街道沿いの宿場へ足を運ぶ。
夕方には屋敷へ戻り、その日見たものについてレオニードと短く言葉を交わす。

どれも派手な出来事ではない。
けれど、その“派手でなさ”が今のアリアベルには心地よかった。

王都では、何をしていても視線の先に意味がついて回る。
どこへ座るか。
誰へ笑いかけるか。
どの言葉を返すか。
すべてが評価に変わり、噂の種になり、時には悪意の燃料になる。

だがこの地では違った。

もちろん、辺境伯領にも人の目はある。
けれどその目は、“この人は何を考えているのだろう”より先に、“この人は何が見えているのだろう”と問う目だった。

それが、アリアベルには新鮮だった。

その日の午後、彼女は屋敷の一角にある資料室で、ここ数年の穀物搬出記録に目を通していた。

重ねられた帳簿は実務本位で、王都の装飾的な書式よりずっと読みやすい。
数字の横には短い注記が入り、異常のあった時期には色を変えた印がついている。

「見やすいでしょう」

不意に背後から声がして、アリアベルは振り返った。

レオニードが、いつの間にか扉の近くに立っていた。

「ええ。とても」

アリアベルは帳簿へ視線を戻す。

「見栄えのための綺麗さではなくて、使うための綺麗さですわね」

「その通りです。こちらでは、見落としはそのまま損失になりますので」

レオニードはそう言って、彼女の向かいへ腰を下ろした。

「何か気になる点がありましたか」

アリアベルは少し迷ってから、一冊の帳簿を開いた。

「大きな問題というほどではありません。ただ、この時期だけ、南側からの搬入が少し不安定です」

レオニードは帳簿を覗き込む。

「去年の初夏ですね」

「ええ。気候のせいと書かれていますけれど、それだけではない気がするの」

「理由は」

アリアベルは指先で注記を辿る。

「この前後だけ、宿場ごとの保管期間が微妙に伸びています。量は減っていないのに、流れが遅い。たぶん、運ぶ人手か荷の組み方に無駄が出ていたのではないかと」

レオニードはしばらく黙った。

その沈黙は否定ではなく、考えている時の沈黙だと、アリアベルにはもうわかる。

「……面白い視点です」

やがて彼はそう言った。

「こちらでは気候と道の状態ばかり見ておりました」

「私は現場を見たわけではないから、外しているかもしれませんわ」

「いいえ。少なくとも確認する価値はある」

その言い方に、アリアベルは思わず目を上げた。

軽く流さない。
“令嬢の感想”として扱わない。
本当に確認すべき可能性として受け取っている。

それが妙に嬉しかった。

「アリアベル嬢」

レオニードが静かに言う。

「以前にも申し上げましたが、あなたは物事の流れを見るのがお上手だ」

「……そんなふうに言っていただくたびに、少し困りますわ」

「困る?」

「はい。今まで、そこを褒められることがあまりありませんでしたもの」

レオニードはわずかに眉を動かした。

「王都では」

「王都では、“できて当然”でした」

アリアベルは苦笑する。

「婚約者として当然。公爵令嬢として当然。未来の王太子妃候補として当然。そう言われ続けると、自分でもそれが特別なことなのか、ただの義務なのか、わからなくなるのです」

資料室に、短い静けさが落ちた。

窓の外では、雲が少し流れ、柔らかい光が棚の背をなでている。

レオニードはその光を見もせず、ただアリアベルを見ていた。

「それは、ずいぶん不当ですね」

低く、落ち着いた声だった。
怒鳴るわけでも、憤りを強く見せるわけでもない。
けれど、静かな怒りが確かにあった。

アリアベルは少しだけ目を伏せる。

「不当、だったのでしょうか」

「ええ」

即答だった。

「できて当然という言葉は便利です。相手の働きを正当に評価せずに済みますから」

その一言に、胸の奥が少しだけ熱くなった。

そうなのだ。
“当然”と言われると、聞こえはいい。
けれど実際には、それ以上感謝も評価も不要だという意味にもなる。

必要な時だけ求められ、満たされていれば見えなくなる。
それがどれほど息苦しいかを、レオニードは何でもない顔で言い当ててしまう。

「閣下は」

アリアベルはゆっくりと口を開いた。

「どうして、そんなに正確に見てくださるのですか」

少し踏み込んだ問いだった。
けれど、今は聞きたかった。

レオニードは視線をそらさずに答える。

「私の領地では、見誤れば困るからです」

「……まあ」

「誰が何を担っているかを見誤れば、崩れる時に支えようがない。ですから、私は人の働きを見落とさぬようにしております」

それは辺境伯としては当然の答えなのだろう。
けれど、その当然が、王都ではどれほど欠けていたかを思うと、アリアベルは皮肉な気持ちになる。

「王太子殿下にも、少しくらいその感覚があればよろしかったのに」

つい漏らすと、レオニードの口元がほんの少しだけ和らいだ。

「それがあれば、今の事態にはなっておりませんでしょう」

「まったくですわ」

二人の間に、小さな笑いが落ちる。

その笑いは、誰かを嘲るためのものではなかった。
ただ、ようやく同じものを見ていると確かめられた時の、わずかな安堵のようなものだった。

午後の終わりには、レオニードが領内の簡単な地図を持ってきて、運搬路と倉の位置をアリアベルへ見せた。

「もしよろしければ」

そう言いながら、彼は地図を卓の中央へ置く。

「あなたの見立てで、気になる場所があれば印をつけていただけませんか」

アリアベルは思わず顔を上げた。

「私が?」

「はい」

「でも、私はこの土地の人間ではありませんわ」

「だからこそです。こちらにいる者は、慣れているぶん見落とすことがある」

その言葉に、少し前の資料室での会話が重なる。

“違いを見るのも、外から来た方の役目ですから”

レオニードは、本気でそう思っているのだ。
客人として持ち上げているのではなく、違う視点の価値を理解している。

「……いいのですね」

「むしろお願いしたい」

そう言われて、断れるはずがなかった。

アリアベルは地図の上へ身を乗り出す。
南側の流れ、宿場の位置、荷の集積、道幅、季節ごとの変化。
帳簿で見た違和感と結びつけながら、仮の印を二つ、三つと置いていく。

「ここは」

彼女がひとつ目の印を示す。

「保管が長引くと、次の荷が詰まりやすい場所です。倉の広さより、人手の振り分けが悪いのかもしれません」

レオニードが頷く。

「確かに、ちょうど人の入れ替えが多い地区です」

「そしてここは、道は広いのに、なぜか流れが鈍い。たぶん検分の順番に無駄があります」

「なるほど」

「それから……」

言葉が自然に続く。

王都で、こんなふうに考えをそのまま口にしたのはいつ以来だろう。
ずっと昔、婚約が深くなる前は、もう少し自由に物を見ていた気がする。
けれどいつからか、自分の役割は“整えて差し出す側”になり、考えそのものを率直に受け取ってもらう機会は少なくなっていた。

「アリアベル嬢」

地図から顔を上げると、レオニードが静かにこちらを見ていた。

「何でしょう」

「よろしければ、もう数日こちらにいていただけませんか」

その言葉に、アリアベルは一瞬だけ動きを止めた。

「……視察のために?」

「ええ。もちろん、ご無理にとは申しません」

レオニードは続ける。

「ただ、あなたの視点は有益です。それに、こちらとしても助かる」

助かる。

その言葉が、予想以上に胸へ沁みた。

必要だと言われることと、助かると言われることは少し違う。
必要は役割に向けられる。
けれど“助かる”は、その人自身へ向けられる感じがした。

「王都では」

アリアベルは、ぽつりと呟く。

「私が手を出しすぎると言われたことがありますわ」

「そうですか」

「なのに、手を引いた途端に回らなくなりました」

レオニードはほんのわずかに目を細める。

「ならば、それは手を出しすぎていたのではなく、必要なところへ手が届いていたのです」

あまりにまっすぐな言い方に、アリアベルは言葉を失う。

こういうところなのだ。
この人は、必要な時に必要な言葉を、妙に迷いなく置いてくる。

派手な甘さではない。
慰めに見せかけた支配でもない。
ただ、こちらが立てる形で肯定してくる。

「……閣下は、本当に困りますわ」

思わずそう言うと、レオニードがわずかに首を傾げた。

「何か失礼を?」

「いいえ。そうではなくて」

アリアベルは笑いながら首を振る。

「これ以上ここにいたら、王都へ戻るのが嫌になってしまいそうで」

その言葉に、レオニードは一瞬だけ黙った。

それから、とても静かな声で言った。

「それでも、戻らねばならぬのですね」

「ええ」

「でしたら、せめて戻る前に、こちらで少しでも力を取り戻していただければ」

アリアベルは、まっすぐに彼を見た。

どうしてこの人は、こちらが欲しい言葉をこうも無理なく差し出せるのだろう。
癒やすために甘やかすのではない。
弱った相手を抱え込むのでもない。
自分の足で立ち直れるように、静かに場所を差し出してくる。

それは、たぶん優しさなのだ。
しかも、とても慎重で、尊敬を含んだ優しさ。

「……ありがとうございます」

アリアベルは小さく頭を下げた。

「もう少しだけ、お言葉に甘えます」

レオニードはただ一度だけ頷いた。

「歓迎します」

その一言で十分だった。

外では夕方の鐘が鳴り、屋敷のどこかで使用人が扉を閉める音がした。
穏やかな時間が流れている。

辺境の穏やかな日々。
大げさな出来事は何もない。
それなのに、王都にいた時よりずっと、自分の中の何かが少しずつ癒えていくのがわかる。

必要とされること。
見てもらえること。
そして、手を伸ばせば届く場所に、自分の考えを受け止めてくれる相手がいること。

そんな当たり前のようでいて、これまで欠けていたものが、ここには静かに揃っていた。

アリアベルは地図の上へ視線を戻した。

王都へ帰れば、また向き合わねばならないことがいくつもある。
イネスの証言。
王妃との面会。
そして、少しずつ崩れ始めた王太子とリネットの足元。

けれど今だけは、その嵐の前にある穏やかな時間へ身を置いていたかった。

それは逃避ではない。
戦うために息を整える時間だ。

そう思えるようになったこと自体が、たぶんもう、少し癒えている証なのだろう。
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