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18 王妃教育の崩壊
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18 王妃教育の崩壊
王宮の教育室では、その日も朝から重たい空気が流れていた。
窓は開いている。
光も入っている。
机の上には整えられた教材が並び、香の匂いもきつくない。
それでも息が詰まるのは、そこにいる誰もが“もう誤魔化しが利かない”と知っているからだった。
リネットは扇を閉じたまま、円卓の前に座っている。
背筋は一応伸ばしている。
だが、それは優雅というより“崩れないように無理に支えている”姿勢だった。
目の下には薄い影。
ここ数日、眠りが浅いのだろう。甘いものを口にしても苛立ちが消えず、泣いたところで胸のざわつきが収まらないことを、本人もようやく感じ始めていた。
「では、続けます」
礼法担当のエルミーヌが、いつもと変わらぬ声で言う。
その変わらなさが、今のリネットにはいっそ冷酷に思えた。
「本日は、夜会における主催者側の立ち位置と、場の収め方を中心に確認いたします」
またそれ。
また“場”。
また“収め方”。
どうして王宮の人間は、こんなにも空気や流れや順番にばかりうるさいのだろう。
美しく笑っていれば、それだけで半分は済むのではないのか。少なくともリネットは、ずっとそう思っていた。
けれど現実は違う。
笑顔は入口でしかない。
その先で何を言い、誰を見て、どこで引くかを誤れば、その笑顔はすぐ薄っぺらくなる。
「仮に」
エルミーヌが一枚の名簿を示す。
「夜会の席で、以前より折り合いの悪い二家の夫人が、同じ卓につくことになったといたします。片方が皮肉を口にし、もう片方の顔色が変わった場合、王太子妃候補として最初にすべきことは何でしょう」
リネットは名簿を見る。
見たところで、夫人たちの名前はただの文字の列にしか見えない。
どちらがどれほどの家格で、何が原因で折り合いが悪いのかも、ぼんやりとしか頭へ入ってこない。
「……お二人を、お止めする?」
答えながら、自信がない。
エルミーヌは無表情のままだった。
「どのように」
「ど、どうかおやめくださいと……」
「それでは遅うございます」
淡々と切られる。
「対立が表面化してから止めるのではなく、表面化する前に別の話題へ滑らせるか、あるいは卓の空気を変える役を別に置いておく必要がございます」
リネットは唇を引き結んだ。
まただ。
また、自分が答えた後で“本当の正解”を示される。
それではまるで、自分は毎回わざわざ間違うために口を開いているみたいではないか。
「でも」
思わず言い返す。
「そんなこと、その場で何とかなるのではありませんか?」
エルミーヌの手が止まった。
「何とか、とは」
「だって、皆さま大人なのですもの。少しくらい気まずくなっても、ご自分でお直しになるでしょう?」
言った直後、室内の空気が少しだけ沈む。
侍女見習いたちも、記録係も、誰も目を上げない。
その沈黙だけで、自分がまた何か外したのだとわかる。
エルミーヌはゆっくりと言った。
「主催の席で起きた“少しくらいの気まずさ”は、そのまま主催者の力量に返ります」
「……そこまで大げさな」
「大げさではございません」
その声は穏やかだったが、いつもより一段低かった。
「夜会も茶会も、ただ人を集める場ではないのです。誰が誰と並び、何を話し、誰が笑って帰るかまで含めて主催者の責任です」
リネットは顔を背けた。
責任。
またその言葉だ。
王太子妃候補とは、こんなにも責任ばかりなのか。
もっと華やかで、もっと多くの人に憧れられて、笑っているだけで価値がある立場だと思っていた。
なのに現実は、失敗しないための準備と、失敗した時の尻拭いの話ばかりだ。
「では次に」
今度は歴史担当の学官が前へ出る。
「王国北部の二大伯爵家が、近年どのような婚姻関係の変化を経て、現在の距離感に至っているか。説明なさってください」
頭が痛くなる。
また系譜。
また婚姻関係。
また“今の距離感”。
どうしてそこまで覚えなければならないのか、本気でわからない。
「……婚姻で、近づいたのではなくて?」
自分でもひどい答えだと思う。
学官は書き込みながら言った。
「逆でございます」
やっぱり。
「二年前の婚約白紙化により、表向きは穏やかながら、現在も贈答の格と席次に微妙な調整が必要となっております」
また贈答。
また席次。
どこまで行っても、そこから逃げられない。
リネットは心の中で舌打ちした。
こんなことを知っていて、何になるというの。
誰がどこで誰と揉めたかなんて、勝手に当人同士で解決すればいいではないか。
だが、そう思うこと自体が、この場では間違いなのだろう。
もうそれくらいはわかっている。わかっているのに、納得できない。
「リネット様」
学官が眼鏡の奥から真っ直ぐに見る。
「覚えることが多いのは承知しております。ですが、王太子妃候補は“知らない”で済まされる立場ではございません」
その瞬間、何かが切れた。
「済まされない、済まされないって!」
思ったより大きな声が出た。
室内が凍りつく。
リネット自身も、言ってからはっとする。
けれど、止まらなかった。
「どうしてわたくしばかり、そんなに責められなければなりませんの!」
エルミーヌが静かに口を開く。
「責めてはおりません。教育しております」
「同じことですわ!」
リネットは立ち上がる。
椅子が床を擦り、小さく耳障りな音を立てた。
「皆さま、わたくしが何を言っても、“違います”“足りません”“それでは遅い”ばかりではありませんか!」
「足りぬものを足りているとは申し上げられません」
学官の返しは、正しすぎて残酷だった。
リネットの頬がかっと熱くなる。
怒りと恥と悔しさが、一度に喉元までせり上がった。
「アリアベル様なら、そうではなかったと仰りたいのでしょう!」
ついに、その名を叫ぶように口にしてしまう。
エルミーヌの視線がほんの少しだけ厳しくなった。
「今は、アリアベル様のお話ではございません」
「でも皆さま、心の中ではそう思っていらっしゃる!」
リネットはもう止まれない。
「前の方は違った、前の方はできた、前の方ならこんなことには――そう思っていらっしゃるのでしょう!」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって何よりの答えに思えた。
違う、と言ってほしかったのだ。
比べていない、と。
あなたはあなたでいい、と。
けれど誰も、そんな甘い嘘をくれない。
エルミーヌはゆっくりと言った。
「比べているのではございません」
リネットの胸が少しだけ浮く。
だが次の言葉が、それをすぐ叩き落とした。
「リネット様がこれから担おうとしている席に、必要なものを申し上げているだけです」
静かな断罪だった。
比べているのではない。
単に、その席に足りていないのだと。
リネットの目に、ぐっと涙が滲む。
もう恥も何もなかった。
悔しくて、惨めで、どうしていいかわからない。
「……そんな言い方、あんまりですわ」
ようやく出た声は、震えていた。
エルミーヌは表情を崩さない。
「現実でございます」
その一言で、涙が零れた。
ぽろり、ぽろりと落ちる。
今まではこの涙が武器だった。
少し泣けば、相手は引いた。
庇う者が出た。
“可哀想な私”へ場が傾いた。
なのに今、誰も動かない。
侍女見習いたちは顔を伏せ、学官は記録板を閉じる。
エルミーヌだけが、静かにこちらを見ている。
「休憩を取りますか」
その問いすら、優しさではなく手順の一部に聞こえた。
リネットは涙を拭い、必死に首を振る。
今ここで休憩を取れば、負けだと思った。
もう十分負けているのに、それでもまだ何かを守ろうとしてしまう。
「……続けてください」
声は掠れていた。
エルミーヌは小さく頷き、けれどその目の奥には、はっきりとした見切りがあった。
それを見てしまった瞬間、リネットは理解する。
もうこの人たちは、自分へ期待していない。
少なくとも、“少し教えればすぐ王太子妃候補らしくなる”とは思っていない。
基礎からやり直さなければ駄目だと、そう見切っている。
午後、教育が終わるころには、リネットはすっかり消耗しきっていた。
記録紙を渡される。
今日は昨日より、さらに言葉が厳しい。
礼法、基礎未定着。
歴史理解、断片的。
会話応答、場の把握に難。
感情制御、不安定。
王太子妃候補としての適応、要再検討。
最後の一文を見た瞬間、喉の奥が凍るようだった。
要再検討。
それは、努力不足という意味ではない。
このままでは危うい、という意味だ。
もしかしたら、この席に本当に相応しいのかどうかまで、見直され始めているのかもしれない。
「な……」
声が出ない。
「これはどういう意味ですの」
かろうじてそう問うと、エルミーヌが静かに答える。
「現段階での所見でございます」
「所見?」
「はい。今後の教育方針を決めるための」
リネットは紙を握る手が震えるのを止められなかった。
教育方針。
つまり、まだ“候補”として扱ってはいる。
けれど、対等な未来の王太子妃としてではなく、“適応するかどうか観察中の対象”として見られているのだ。
屈辱だった。
「……わたくしは、殿下に選ばれたのです」
思わず口にすると、エルミーヌは一瞬だけ目を伏せた。
「承知しております」
「でしたら」
「選ばれたことと、務まることは別でございます」
その言葉が、容赦なく胸へ刺さる。
ずっと、わかっていたはずだった。
ここ数日、誰もが同じことを別の言い方で言っていた。
王妃宮の婦人たちも。
教育係たちも。
女官たちの沈黙も。
でも、正面からそう言われたのは初めてだった。
選ばれたことと、務まることは別。
リネットは紙を抱えたまま、ふらつくように立ち上がる。
もう何も返せなかった。
部屋を出たあとの廊下は、やけに長く感じられた。
窓の外はよく晴れているのに、光が少しも綺麗に見えない。
王宮の中庭では、侍女たちが洗い立ての布を干している。
遠くで楽師見習いが練習している音も聞こえる。
世界はいつも通り動いている。
なのに、自分だけがその流れから外へ落ちていくような感覚があった。
部屋へ戻ると、侍女がすぐ寄ってくる。
「お疲れさまでございました」
リネットは返事もせず、記録紙を卓へ叩きつけた。
紙は広がり、最後の一文がやけに目立つ。
要再検討。
侍女はそこまで読んだのかどうか、顔色を変えて目を伏せた。
リネットはソファへ崩れ落ち、両手で顔を覆う。
泣きたくなかった。
もう泣くのは嫌だった。
でも、涙は勝手に滲んでくる。
王太子妃教育の崩壊。
それは今日、はっきり形になった。
今までのように“少し慣れていないだけ”“まだ時間が要るだけ”では済まされないところまで来てしまったのだ。
愛されることと、務まることは別。
そのあまりにも単純な現実が、ついに真正面から自分へ突きつけられた。
そして、リネットにはそれを跳ね返すだけの中身が、まだ何もなかった。
王宮の教育室では、その日も朝から重たい空気が流れていた。
窓は開いている。
光も入っている。
机の上には整えられた教材が並び、香の匂いもきつくない。
それでも息が詰まるのは、そこにいる誰もが“もう誤魔化しが利かない”と知っているからだった。
リネットは扇を閉じたまま、円卓の前に座っている。
背筋は一応伸ばしている。
だが、それは優雅というより“崩れないように無理に支えている”姿勢だった。
目の下には薄い影。
ここ数日、眠りが浅いのだろう。甘いものを口にしても苛立ちが消えず、泣いたところで胸のざわつきが収まらないことを、本人もようやく感じ始めていた。
「では、続けます」
礼法担当のエルミーヌが、いつもと変わらぬ声で言う。
その変わらなさが、今のリネットにはいっそ冷酷に思えた。
「本日は、夜会における主催者側の立ち位置と、場の収め方を中心に確認いたします」
またそれ。
また“場”。
また“収め方”。
どうして王宮の人間は、こんなにも空気や流れや順番にばかりうるさいのだろう。
美しく笑っていれば、それだけで半分は済むのではないのか。少なくともリネットは、ずっとそう思っていた。
けれど現実は違う。
笑顔は入口でしかない。
その先で何を言い、誰を見て、どこで引くかを誤れば、その笑顔はすぐ薄っぺらくなる。
「仮に」
エルミーヌが一枚の名簿を示す。
「夜会の席で、以前より折り合いの悪い二家の夫人が、同じ卓につくことになったといたします。片方が皮肉を口にし、もう片方の顔色が変わった場合、王太子妃候補として最初にすべきことは何でしょう」
リネットは名簿を見る。
見たところで、夫人たちの名前はただの文字の列にしか見えない。
どちらがどれほどの家格で、何が原因で折り合いが悪いのかも、ぼんやりとしか頭へ入ってこない。
「……お二人を、お止めする?」
答えながら、自信がない。
エルミーヌは無表情のままだった。
「どのように」
「ど、どうかおやめくださいと……」
「それでは遅うございます」
淡々と切られる。
「対立が表面化してから止めるのではなく、表面化する前に別の話題へ滑らせるか、あるいは卓の空気を変える役を別に置いておく必要がございます」
リネットは唇を引き結んだ。
まただ。
また、自分が答えた後で“本当の正解”を示される。
それではまるで、自分は毎回わざわざ間違うために口を開いているみたいではないか。
「でも」
思わず言い返す。
「そんなこと、その場で何とかなるのではありませんか?」
エルミーヌの手が止まった。
「何とか、とは」
「だって、皆さま大人なのですもの。少しくらい気まずくなっても、ご自分でお直しになるでしょう?」
言った直後、室内の空気が少しだけ沈む。
侍女見習いたちも、記録係も、誰も目を上げない。
その沈黙だけで、自分がまた何か外したのだとわかる。
エルミーヌはゆっくりと言った。
「主催の席で起きた“少しくらいの気まずさ”は、そのまま主催者の力量に返ります」
「……そこまで大げさな」
「大げさではございません」
その声は穏やかだったが、いつもより一段低かった。
「夜会も茶会も、ただ人を集める場ではないのです。誰が誰と並び、何を話し、誰が笑って帰るかまで含めて主催者の責任です」
リネットは顔を背けた。
責任。
またその言葉だ。
王太子妃候補とは、こんなにも責任ばかりなのか。
もっと華やかで、もっと多くの人に憧れられて、笑っているだけで価値がある立場だと思っていた。
なのに現実は、失敗しないための準備と、失敗した時の尻拭いの話ばかりだ。
「では次に」
今度は歴史担当の学官が前へ出る。
「王国北部の二大伯爵家が、近年どのような婚姻関係の変化を経て、現在の距離感に至っているか。説明なさってください」
頭が痛くなる。
また系譜。
また婚姻関係。
また“今の距離感”。
どうしてそこまで覚えなければならないのか、本気でわからない。
「……婚姻で、近づいたのではなくて?」
自分でもひどい答えだと思う。
学官は書き込みながら言った。
「逆でございます」
やっぱり。
「二年前の婚約白紙化により、表向きは穏やかながら、現在も贈答の格と席次に微妙な調整が必要となっております」
また贈答。
また席次。
どこまで行っても、そこから逃げられない。
リネットは心の中で舌打ちした。
こんなことを知っていて、何になるというの。
誰がどこで誰と揉めたかなんて、勝手に当人同士で解決すればいいではないか。
だが、そう思うこと自体が、この場では間違いなのだろう。
もうそれくらいはわかっている。わかっているのに、納得できない。
「リネット様」
学官が眼鏡の奥から真っ直ぐに見る。
「覚えることが多いのは承知しております。ですが、王太子妃候補は“知らない”で済まされる立場ではございません」
その瞬間、何かが切れた。
「済まされない、済まされないって!」
思ったより大きな声が出た。
室内が凍りつく。
リネット自身も、言ってからはっとする。
けれど、止まらなかった。
「どうしてわたくしばかり、そんなに責められなければなりませんの!」
エルミーヌが静かに口を開く。
「責めてはおりません。教育しております」
「同じことですわ!」
リネットは立ち上がる。
椅子が床を擦り、小さく耳障りな音を立てた。
「皆さま、わたくしが何を言っても、“違います”“足りません”“それでは遅い”ばかりではありませんか!」
「足りぬものを足りているとは申し上げられません」
学官の返しは、正しすぎて残酷だった。
リネットの頬がかっと熱くなる。
怒りと恥と悔しさが、一度に喉元までせり上がった。
「アリアベル様なら、そうではなかったと仰りたいのでしょう!」
ついに、その名を叫ぶように口にしてしまう。
エルミーヌの視線がほんの少しだけ厳しくなった。
「今は、アリアベル様のお話ではございません」
「でも皆さま、心の中ではそう思っていらっしゃる!」
リネットはもう止まれない。
「前の方は違った、前の方はできた、前の方ならこんなことには――そう思っていらっしゃるのでしょう!」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって何よりの答えに思えた。
違う、と言ってほしかったのだ。
比べていない、と。
あなたはあなたでいい、と。
けれど誰も、そんな甘い嘘をくれない。
エルミーヌはゆっくりと言った。
「比べているのではございません」
リネットの胸が少しだけ浮く。
だが次の言葉が、それをすぐ叩き落とした。
「リネット様がこれから担おうとしている席に、必要なものを申し上げているだけです」
静かな断罪だった。
比べているのではない。
単に、その席に足りていないのだと。
リネットの目に、ぐっと涙が滲む。
もう恥も何もなかった。
悔しくて、惨めで、どうしていいかわからない。
「……そんな言い方、あんまりですわ」
ようやく出た声は、震えていた。
エルミーヌは表情を崩さない。
「現実でございます」
その一言で、涙が零れた。
ぽろり、ぽろりと落ちる。
今まではこの涙が武器だった。
少し泣けば、相手は引いた。
庇う者が出た。
“可哀想な私”へ場が傾いた。
なのに今、誰も動かない。
侍女見習いたちは顔を伏せ、学官は記録板を閉じる。
エルミーヌだけが、静かにこちらを見ている。
「休憩を取りますか」
その問いすら、優しさではなく手順の一部に聞こえた。
リネットは涙を拭い、必死に首を振る。
今ここで休憩を取れば、負けだと思った。
もう十分負けているのに、それでもまだ何かを守ろうとしてしまう。
「……続けてください」
声は掠れていた。
エルミーヌは小さく頷き、けれどその目の奥には、はっきりとした見切りがあった。
それを見てしまった瞬間、リネットは理解する。
もうこの人たちは、自分へ期待していない。
少なくとも、“少し教えればすぐ王太子妃候補らしくなる”とは思っていない。
基礎からやり直さなければ駄目だと、そう見切っている。
午後、教育が終わるころには、リネットはすっかり消耗しきっていた。
記録紙を渡される。
今日は昨日より、さらに言葉が厳しい。
礼法、基礎未定着。
歴史理解、断片的。
会話応答、場の把握に難。
感情制御、不安定。
王太子妃候補としての適応、要再検討。
最後の一文を見た瞬間、喉の奥が凍るようだった。
要再検討。
それは、努力不足という意味ではない。
このままでは危うい、という意味だ。
もしかしたら、この席に本当に相応しいのかどうかまで、見直され始めているのかもしれない。
「な……」
声が出ない。
「これはどういう意味ですの」
かろうじてそう問うと、エルミーヌが静かに答える。
「現段階での所見でございます」
「所見?」
「はい。今後の教育方針を決めるための」
リネットは紙を握る手が震えるのを止められなかった。
教育方針。
つまり、まだ“候補”として扱ってはいる。
けれど、対等な未来の王太子妃としてではなく、“適応するかどうか観察中の対象”として見られているのだ。
屈辱だった。
「……わたくしは、殿下に選ばれたのです」
思わず口にすると、エルミーヌは一瞬だけ目を伏せた。
「承知しております」
「でしたら」
「選ばれたことと、務まることは別でございます」
その言葉が、容赦なく胸へ刺さる。
ずっと、わかっていたはずだった。
ここ数日、誰もが同じことを別の言い方で言っていた。
王妃宮の婦人たちも。
教育係たちも。
女官たちの沈黙も。
でも、正面からそう言われたのは初めてだった。
選ばれたことと、務まることは別。
リネットは紙を抱えたまま、ふらつくように立ち上がる。
もう何も返せなかった。
部屋を出たあとの廊下は、やけに長く感じられた。
窓の外はよく晴れているのに、光が少しも綺麗に見えない。
王宮の中庭では、侍女たちが洗い立ての布を干している。
遠くで楽師見習いが練習している音も聞こえる。
世界はいつも通り動いている。
なのに、自分だけがその流れから外へ落ちていくような感覚があった。
部屋へ戻ると、侍女がすぐ寄ってくる。
「お疲れさまでございました」
リネットは返事もせず、記録紙を卓へ叩きつけた。
紙は広がり、最後の一文がやけに目立つ。
要再検討。
侍女はそこまで読んだのかどうか、顔色を変えて目を伏せた。
リネットはソファへ崩れ落ち、両手で顔を覆う。
泣きたくなかった。
もう泣くのは嫌だった。
でも、涙は勝手に滲んでくる。
王太子妃教育の崩壊。
それは今日、はっきり形になった。
今までのように“少し慣れていないだけ”“まだ時間が要るだけ”では済まされないところまで来てしまったのだ。
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そのあまりにも単純な現実が、ついに真正面から自分へ突きつけられた。
そして、リネットにはそれを跳ね返すだけの中身が、まだ何もなかった。
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