婚約を捨てたのはあなたですのに、今さら愛を乞われても困ります

ふわふわ

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20 今さら気づく価値

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20 今さら気づく価値

王都へ戻って二日目の夜、王宮では季節の大夜会が開かれていた。

婚約破棄の騒ぎがあってなお、夜会は開かれる。
むしろ、こういう時だからこそ開かれるのだ。

王家が揺らいでいないと見せるため。
社交界の流れを自分たちの場へ引き戻すため。
そして何より、“何も問題はありません”という顔をするために。

けれど、その顔がいちばん難しいのは、たぶん当の本人たちだった。

大広間はいつも通り華やかだった。
幾重にも灯る硝子灯、磨かれた床、季節花をあしらった柱飾り、楽団の整った調べ。
招かれた貴族たちもまた、表向きは普段と変わらぬ笑顔と礼でそこに立っている。

だが、空気は違った。

会話は流れている。
けれどその流れは、以前より少しだけ滑らかさを欠いている。
どこかで誰もが様子を見ている。
誰が誰へ近づくか。
誰がどの程度まで王太子へ礼を尽くすか。
そして――今夜、アリアベル・フォルティスがどう現れるのか。

大広間の入口にその姿が現れた瞬間、さざ波のように視線が走った。

深い藍を帯びた銀灰のドレス。
飾りは決して多くない。だが布の落ち方ひとつ、首筋の見せ方ひとつに、過不足のない品位がある。
背筋はまっすぐで、足取りは静か。
取り巻きを引き連れているわけでもなく、わざと目立とうとしているわけでもないのに、場が自然と彼女へ目を向けてしまう。

その隣には、レオニード・ヴァルセイン辺境伯がいた。

濃い色の正装に身を包んだ長身の男は、王都の華美な令息たちとは違う静かな存在感を纏っている。
彼は必要以上に彼女へ寄り添うでもなく、かといって離れすぎるでもない絶妙な距離で並び、その一歩一歩が、アリアベルを“守られる人”ではなく“対等な伴侶候補”のように見せていた。

そのことに気づかぬ者は、今夜の会場には少なかった。

「まあ……」

誰かが小さく息を呑む。

「辺境伯閣下と……」 「やはり噂は本当でしたのね」 「それにしても……」

続く言葉は、あえて声に出されなかった。
けれど、皆が同じことを思っているのがわかる。

婚約を破棄された女のはずなのに。
どうしてあんなに堂々としていられるのか。
どうしてあんなに、以前よりもなお揺るがなく見えるのか。

その視線を、王太子ユリヴェールもまた、広間の中央から見ていた。

彼は今夜も王太子として相応しい装いをしている。
金糸の入った上着、磨かれた靴、よく整えられた髪。
表面だけなら何も変わらない。むしろ、いつも以上に完璧に見せようと力が入っているくらいだった。

だが、その表情は固かった。

アリアベルが入ってきた瞬間、彼の胸の奥に奇妙なざわめきが走ったからだ。

最初に感じたのは、驚きだった。

もっと違う姿を想像していた。
青ざめているか、痩せているか、あるいは社交の場へ出てこないか。
少なくとも、以前のように何事もなかった顔で現れるとは思っていなかった。

それどころではない。

彼女は今夜、以前よりも鮮やかだった。
いや、鮮やかというのは少し違う。
飾り立てた華やかさではなく、内側に芯が戻ったような、静かな強さが目に見えるのだ。

そのことが、ユリヴェールをひどく落ち着かなくさせた。

そして次に来たのは、苛立ちに似た感情だった。

なぜ、辺境伯が隣にいる。
なぜ、あんなにも自然に並んでいる。
なぜ周囲はそれを、まるで以前からそうであったかのように受け入れ始めている。

自分が捨てたはずの婚約者なのに。
その“捨てた側”である自分が、なぜこんなにも居心地悪くなければならないのか。

「殿下」

側近が低く声をかけてきた。

「ご挨拶の順が」

ユリヴェールは一瞬だけその声が聞こえなかった。

「……何だ」

「西方侯爵家の方々が先に」

「わかっている」

鋭く返してしまい、側近がすぐに口を閉ざす。

まただ、とユリヴェールは心の中で舌打ちした。
このところ、どれだけ苛立ちを抑えても、少しした拍子に外へ漏れる。
以前はこんなことはなかった。少なくとも、自分ではそう思っている。

だが本当にそうだったのか。
それとも、以前は誰かがこういう小さな棘を周囲へ感じさせぬように均していたのか。

そこまで考えて、彼は無意識にアリアベルを見た。

彼女は今、王妃に近い侯爵夫人へ静かに礼をしていた。
笑いすぎず、下がりすぎず、相手へ恥をかかせず、自分も卑屈に見えない角度で。
それは、ほんの一瞬見ただけでも“正しい立ち方”だとわかる所作だった。

以前は、それを当たり前のように見ていた。

未来の王太子妃候補なら当然。
公爵令嬢なら当然。
そう思っていた。

だが今、広間の別の場所で必死に笑顔を貼りつけているリネットと見比べると、その“当然”の密度がまるで違うことが嫌でもわかる。

リネットも美しく着飾っていた。
淡い薄紅のドレスに、あえて儚げに見せる装い。
目元も少し潤んで見えるよう工夫している。
それでも、場の中へ入った時の馴染み方が違う。

彼女はどうしても“周囲の空気へ入る”のではなく、“周囲に自分を見せる”ほうへ寄ってしまう。
だから、注意深く見ている者ほど疲れるのだ。

そして、アリアベルは違った。

彼女が歩けば、その周囲だけ空気が自然に整う。
誰を先に見るべきか、どの程度まで踏み込むべきか、どこで言葉を止めるべきかを、考えずにわかっているように見える。

「殿下」

また側近が呼ぶ。

「今度は何だ」

「エルヴァン公爵閣下が、ご挨拶を」

ユリヴェールは慌てて視線を引き戻し、公爵へ向けて笑顔を作る。
たぶん形にはなっている。
だが、その笑顔が以前ほど自然ではないことを、自分でも感じていた。

公爵との会話は数分で終わった。
内容は無難だ。夜会の賑わい、季節の移ろい、王都の穏やかさ。
だが、その間じゅうユリヴェールの意識は半分ほど別の場所にあった。

アリアベルは今、どこにいる。
誰と話している。
辺境伯はどれほど近い距離で立っている。
周囲はそれをどう見ている。

気づけばまた彼女のほうを見ている自分に、ユリヴェールは内心で苛立った。

なぜ、自分が。
今さら。

けれど、“今さら”だからこそ見えるものがあるのも事実だった。

夜会の中盤、王妃が少し離れた卓で客と話していた時のことだ。

王都でも気難しいことで知られる年長の伯爵夫人が、何か微妙な皮肉を口にした。
相手の侯爵夫人の笑みが、ごくわずかに固くなる。

その瞬間、アリアベルが自然に一歩入った。

「そういえば、先日の北方の織物は見事でしたわね」

話題は唐突でも不自然ではなかった。
しかも、その織物はちょうど侯爵夫人の娘の嫁ぎ先に関わる品だったはずだ。
侯爵夫人の顔から険しさが消え、伯爵夫人もそれ以上踏み込む理由を失う。

ほんの数秒のことだった。

だが、ユリヴェールは目を離せなかった。

ああいう場面が、これまでも何度あっただろう。
自分は気づきもしなかった。
気づかずに、ただ“場はうまく流れている”とだけ思っていた。
それを、彼女が陰で何度も均していたのだと、今ならわかる。

「殿下、リネット様が」

別の侍従が近づいてきて囁いた。

見ると、少し離れた場所でリネットが若い令嬢たちと話している。
だが、その輪の空気は軽いのに、どこか噛み合っていない。
リネットが笑うたび、周囲は礼儀として笑い返す。けれど会話は広がらず、すぐしぼんでしまう。

以前なら、それだけでもユリヴェールは“緊張しているのだろう”で済ませたかもしれない。

しかし今夜は違う。

アリアベルのいる輪では、話題が自然に移り、誰かが黙れば別の誰かが無理なく拾い、場が止まらない。
それを見てしまったあとでは、リネットのぎこちなさが余計に目につく。

比べているのではない。
そう思いたいのに、比べずにいられない。

「……殿下?」

側近が怪訝そうにする。

ユリヴェールはようやく我に返った。

「何でもない」

「ですが」

「何でもないと言った」

声が強くなり、また側近が口を閉ざす。

その瞬間、ユリヴェールははっきり自覚してしまった。

自分は今、アリアベルを目で追っている。
無意識に。
しかも、その理由は怒りだけではない。

失ってからようやくわかる価値。
そんな言い回しは嫌いだ。甘ったるくて、負け惜しみにしか聞こえない。
けれど今、まさに自分がそれをやっているではないか。

アリアベルがどれほど自然に場を整えていたか。
どれほど恥をかかせず、面子を保ち、会話を繋いでいたか。
そして、その働きを自分がどれだけ“当然”として受け取っていたか。

胸の奥が、ずきりと痛む。

その痛みは後悔に似ていた。
けれど、後悔と認めるにはまだ自尊心が邪魔をする。

一方その頃、アリアベルはそんな視線に気づいていた。

気づかないはずがない。
王都の社交界で長く立ってきた人間なら、あの程度の視線の重さと向きは、意識せずともわかる。

ユリヴェールがこちらを見ている。
何度も。
しかも、ただ敵意や苛立ちで見る目ではない。

今さら、なのだろう。
辺境でヴィオレーヌたちが言っていたとおり、リネットとの違いを見せつけられ、ようやく“何を失ったか”を輪郭で捉え始めているのだ。

「アリアベル嬢」

隣でレオニードが低く呼ぶ。

「少しお疲れですか」

「いいえ」

アリアベルは微笑む。

「ただ、少しだけ視線が重いだけですわ」

レオニードは何も問わなかった。
ただ、ほんのわずかに立ち位置を変える。

それだけで、王太子側からの視線が真正面ではなくなる。
あまりに自然な動きで、アリアベルは一瞬だけ驚いた。

「……ありがとうございます」

小さく言うと、レオニードは視線を前へ向けたまま答える。

「どういたしまして」

その短い言葉が、妙にあたたかい。

守ると誇示しない。
過剰に庇わない。
けれど必要な時には、きちんと一歩だけ前へ出る。

王都で散々見てきた“守るふり”とはまるで違うその態度に、アリアベルは自分でも少し頬が緩むのを感じた。

その笑みを見てしまったのは、たぶんユリヴェールだった。

彼の胸の奥で、何かが重く沈む。

あの笑みを、自分は最後にいつ見ただろう。
婚約者だった頃、彼女はいつも落ち着いていたが、こんなふうに心から気を緩めた顔を見せていただろうか。
いや、そもそも自分は見ようとしていたのか。

気づけば、アリアベルは“そこにいるもの”になっていた。
必要な時に必要な答えを出し、必要な場面で必要な顔をする。
だから、あえて彼女の表情の細かな違いを読む必要など感じていなかった。

それが今はどうだ。

もう自分のものではない。
隣に立つのは別の男で。
その男の前でだけ見せるような柔らかさが、ある。

その事実が、妙に腹立たしかった。

「殿下」

今度はリネットが近づいてきた。

「少しお話が」

ユリヴェールは反射的に彼女を見る。
以前なら、それだけで“守るべき可憐な存在”として胸が動いた。
だが今夜は、どうにも焦点が合わない。

「ああ」

かろうじてそれだけ返す。

リネットはすぐに不安そうな表情を作った。
何かに傷ついたような、でも殿下の前では健気に微笑もうとする顔。

完璧なはずだった。
少し前までなら。

なのに今、ユリヴェールの胸に浮かんだのは、“またか”というひどく乾いた感情だった。

自分でその感情に驚き、すぐ打ち消そうとする。
だが、一度生まれた違和感は簡単には消えない。

「殿下?」

リネットがさらに問いかける。

「どうかなさいました?」

「いや」

ユリヴェールは短く答えた。

「何でもない」

その言い方は、リネットへ向けるにはあまりに素っ気なかった。
彼女の瞳がほんの少しだけ揺れる。

だがユリヴェールは、すでにまた別の方向を見ていた。

アリアベルとレオニードが、王妃に一礼している。
その立ち姿があまりにも自然で、まるで最初からそう並ぶべき二人であったかのように見える。

今さら気づく価値。
今さら募る未練。
そして、今さらではもう遅いかもしれないという、嫌な確信。

夜会の楽は変わらず流れ、笑い声も消えてはいない。
けれどユリヴェールにとって今夜の王都は、以前より少しだけ狭く、ひどく居心地の悪い場所になっていた。

それが、失ったものの輪郭なのだと、彼はまだ認めたくなかった。
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