婚約を捨てたのはあなたですのに、今さら愛を乞われても困ります

ふわふわ

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23 王太子派の失策

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23 王太子派の失策

夜会の後半に入るころには、広間の空気は表向きいっそう滑らかになっていた。

最初に漂っていた探り合いの気配は、完全に消えたわけではない。
けれど貴族たちは、いつまでもひとつの話題へ留まるほど無粋ではない。
見極めるべきものを見たあとは、何事もなかったように次の会話へ移り、次の笑みを浮かべる。

そうして流れていくように見える夜会ほど、実は多くのことが決まってしまっているものだ。

アリアベルはそのことをよく知っていた。
知っているからこそ、今夜の空気がどこへ傾きつつあるかも、痛いほどわかる。

王太子派は、少しずつ扱いが軽くなっている。
露骨に無礼を働かれるわけではない。
けれど、誰を先に見て礼をするか、どの輪にどれだけ長く留まるか、どの話題に本気で乗るか。
そうした小さな選択の積み重ねが、もう答えを出し始めていた。

「アリアベル嬢」

レオニードが小さく声をかける。

「少し休まれますか」

「いいえ、まだ平気ですわ」

アリアベルは微笑んだ。

「ただ、このまま何事もなく終わる夜ではなさそうだと思っているだけです」

レオニードの目がわずかに細まる。

「同感です」

その返答とほとんど同時だった。

広間の奥、王妃に近い位置で、ほんの一瞬だけざわめきが広がったのは。

声を荒げる者はいない。
だが、一度乱れた空気というものは、敏い者にはすぐわかる。
視線が集まる。
楽の音の上を、細い波紋のように人の意識が走る。

「何かありましたの?」

アリアベルが小さく問うと、レオニードは広間の先へ視線を向けたまま答える。

「南方の使節団まわりです」

アリアベルも自然にそちらを見る。

王太子ユリヴェールが、南方公国から来ている使節へ向けて何かを語っていた。
その隣には数人の高位貴族。
いずれも、王都の今後を測るうえで軽く扱えぬ顔ぶれだ。

一見すれば、ただの歓談に見える。
だが、南方側の年配の公使が、礼を保ったまま笑みだけを少し薄くしている。
その表情で十分だった。

何かを外した。

「……まずいですわね」

アリアベルは思わず呟く。

「何をなさったと思います?」

レオニードが問う。
彼は責める調子ではなく、純粋に読みを確かめるような声音だった。

アリアベルは少しだけ目を細める。

「南方の公使は、今は領内の再建に気を配っている時期だったはずです。あの方へ、王都の華やかさや学園祭の成功を先に振るのは、軽すぎる」

「同感です」

「それか、贈答の話題かしら。今夜の飾りや菓子の話を先にすれば、向こうからは“今はこちらにその余裕はない”と見える」

レオニードはわずかに驚いたような目をした。

「おそらく、その両方でしょう」

「まあ……」

「先ほど、こちらまで断片が聞こえました。殿下は“王都の賑わいをぜひ学んでいただきたい”という趣旨のことを仰ったようです」

アリアベルは目を閉じたくなった。

悪意はない。
むしろ本人としては、好意的で明るい話題を投げたつもりなのだろう。
けれど、今の南方公国へその言い方は鈍い。鈍すぎる。

王都の賑わいを学ぶ。
それは余裕のある側が、余裕のない側へ向ける言葉だ。
しかも相手は今、体面を保ちながら立て直しの最中にある。
そこで“賑わいを学べ”と聞こえる話を振れば、礼を崩さずとも内心は冷える。

「止める方はいなかったのね」

アリアベルが小さく言うと、レオニードは短く答える。

「間に合わなかったのでしょう」

たぶん、そうだ。

以前なら、こういう場面では事前に話題の順番を整えていた。
誰へ何を先に振るか。
最近相手国で起きたこと。
触れてよいこと、避けるべきこと。
そうしたものを、王太子が話し始める前に頭へ入れておいた。

ユリヴェールは、それを自分の“場慣れ”だと思っていたのかもしれない。
けれど今は、その下ごしらえがない。
だから、明るく見える言葉ほど危うくなる。

広間の向こうでは、王妃がさりげなく位置を変え、別の侯爵を南方側へ差し向けていた。
露骨ではない。
だが、修正に動いたのは明白だった。

「さすがですわね」

アリアベルが言うと、レオニードは頷く。

「王妃殿下は気づかれた」

「でも、気づいてからでは遅いこともありますわ」

まさにその通りだった。

会話というものは、後からどれだけ綺麗に繕っても、“最初に何を言われたか”の印象は残る。
とくに、地位の高い者から向けられた言葉ならなおさらだ。

南方の公使は表情を崩さない。
むしろ見事なくらい礼を失わない。
だが、それがかえってまずい。

不快なら不快なほど、ああいう人々は滑らかになる。
こちらに失点だけを残し、自分たちは少しも乱れぬように。

「殿下はまだ気づいていないかもしれませんわね」

アリアベルがそう言うと、レオニードは少しだけ視線を動かした。

「半分ほどは、でしょうか」

「半分?」

「空気が乱れたことには気づいている。ですが、なぜ乱れたかまでは読めていないように見えます」

その観察の正確さに、アリアベルは思わず苦笑する。

「閣下、本当に細かいところまでご覧になるのね」

「あなたほどでは」

「そういうことを自然に仰るから困るのです」

レオニードの口元がごくわずかに和らぐ。
そのやり取りをしている間にも、広間の中では次の波紋が生まれていた。

今度は席次だった。

夜会の中盤で設けられた小卓のひとつに、以前から折り合いの悪い二人の夫人が思いがけず近くへ置かれてしまったのだ。
片方は王太子派へ近い男爵家の後ろ盾。
もう片方は、王妃宮寄りの侯爵家と縁の深い伯爵夫人。
表向きは礼を守る。
だが、水と油であることをこの場の年長者は大抵知っている。

「……これは」

アリアベルは扇を持つ指先へ少し力を入れた。

「配置を誤りましたわね」

「はい」

レオニードも即座に頷く。

二人の間に、最初はまだ浅い会話が交わされる。
けれどその浅さが逆に怖い。
本当に険悪な相手同士は、最初ほど丁寧に距離を測るものだからだ。

案の定、片方の夫人がごく上品な笑顔のまま、別の夫人の息子の婚約話へ軽く触れた。
表面上は祝意にも聞こえる。
だが文脈を知る者には、それが“まだ正式に固まっていない話”をあえて掘る皮肉だとわかる。

相手の伯爵夫人の目元が一瞬だけ冷えた。

ほんの一瞬。
だが十分だった。

「ああ……」

アリアベルは小さく息を吐く。

「止める方が必要ですわ」

「今から動く者がいれば、まだ浅く済みます」

レオニードの言葉通り、王妃付きの女官がすぐ別の話題を持ち込みに入った。
けれど、これもまた“気づいてからの修正”でしかない。

最初から避けられたはずの火種だ。
だから見ている側は、修正の手際より“なぜ最初に避けられなかったか”を見る。

夜会に慣れた者ほど、その差に敏い。

そしてユリヴェールは、こうした二つの小さな失策のただ中で、ますます居心地の悪さを募らせていた。

南方公使の薄い笑み。
夫人たちの間に走った冷えた空気。
それぞれの場で、自分に直接無礼があったわけではない。
けれど、何かが噛み合っていないことだけは肌でわかる。

「殿下」

側近が低く言う。

「少し流れを変えたほうが」

「どう変えろと言う」

苛立ちが、また声に混じる。

「せめて次の小卓では、王妃宮側と近い家をひとつ……」

「そんな細かなことを、今ここで私に判断させるのか」

その一言に、側近が口を噤む。

そうだ。
本来なら、今ここで王太子が露骨に席を気にする必要などない。
すでに整っていて当然のところへ座り、自然に会話へ入ればよかった。

なのに今は違う。
小さなほころびが続き、その修正をその場で考えなければならない。
そして、その考える余裕も勘もユリヴェールには足りない。

ふと視線を上げると、またアリアベルが見えた。

彼女は広間の端に近い位置で、今度は年若い令嬢へ穏やかに笑いかけている。
その令嬢は少し緊張していたようだったが、二言三言交わしただけで表情が自然にほぐれた。

どうしてああも、相手に恥をかかせず話せるのだろう。
どうして、自分が王太子として何年も場に立ってきたのに、今さらそんなことを思い知るのだろう。

胸の奥で、苦い感情が沈んでいく。

失策というほど大きくない。
なのに、だからこそ余計に痛い。

派手な醜聞なら、開き直ることもできる。
敵意ある攻撃なら、反論もできる。
だが今夜のような小さなずれは、“器の差”をそのまま見せてしまう。

しかも、その“本来なら防げたずれ”を、誰が埋めていたのかまで、周囲の目には少しずつ見え始めている。

「殿下」

今度はリネットが近づいてきた。

顔は整えている。
だが目元が少し強ばっていた。
彼女もまた、今夜の空気が自分に優しくないことを感じているのだろう。

「先ほどの夫人方、少し意地が悪すぎますわ」

いきなりそんな言葉を落とされ、ユリヴェールは眉を寄せた。

「何の話だ」

「わたくしに、今は学ぶ時だとか、焦らず土台を固めればよいとか……まるで未熟者扱いですの」

ユリヴェールは返答に一瞬詰まる。

少し前までなら、すぐに“気にするな”“お前は何も悪くない”と返せただろう。
だが今夜、王妃教育の崩れや場の噛み合わなさを目の当たりにしたあとでは、その言葉が喉に引っかかる。

気にするな、と簡単には言えない。
本当に未熟な部分が見えてしまっているからだ。

その一拍の沈黙が、リネットには十分だった。

彼女の表情がほんのわずかに揺れる。

「……殿下?」

「いや」

ユリヴェールはすぐに顔を作った。

「多少言われるのは仕方ない。慣れれば済むことだ」

その言い方は、慰めとしてはあまりに薄かった。

リネットの胸が冷たくなる。
ああ、もう前のようには庇ってくれないのだ、と本能でわかってしまう。

その様子を遠くから見て、アリアベルは視線を伏せた。

見たくて見ているわけではない。
けれど、広間の流れの中で、二人の噛み合わなさもまた見えてしまう。

小さな失策。
小さなずれ。
小さな苛立ち。

それらは、ひとつずつは取るに足らないようでいて、重なれば関係の地盤そのものを削る。
自分とユリヴェールの婚約も、もしかしたら最初はそうやって削られていたのかもしれない。
そして今、同じように別の形で、王太子派そのものが削られ始めている。

「今夜は、見ている側にとってはずいぶんわかりやすい夜ですわね」

アリアベルが小さく言うと、レオニードは頷いた。

「ええ。大きく崩れてはおりませんが、支えがない時の脆さは十分見えます」

「大きく崩れないほうが、かえって厳しい時もございます」

「同感です」

派手に転ばなければ、言い訳が効く。
だが小さくつまずき続けると、“どうしてこんなところで”という評価になる。
そのほうが社交界には長く残る。

アリアベルは扇を閉じ、静かに息を整えた。

今夜の失策は、自分がいればたぶん防げた。
以前のように。
でももう、それを埋めるつもりはない。

これは王太子派の問題だ。
彼らが、自分たちで起こし、自分たちで向き合うべき空白だ。

そして社交界は、その空白をきちんと見ている。

楽が次の曲へ移る。

大広間はまだ華やかで、今夜の宴は終わっていない。
だが、王太子派の失策はもう十分に刻まれていた。

それは声高な断罪ではない。
けれど、経験ある者ほど深く受け取る種類の失点だった。

そしてその影の中で、アリアベルの価値は、ますます静かに、しかし確かに浮かび上がっていくのだった。
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