婚約を捨てたのはあなたですのに、今さら愛を乞われても困ります

ふわふわ

文字の大きさ
20 / 29

22 正しい評価

しおりを挟む
22 正しい評価

夜会の空気が、ほんのわずかに変わったのは、王妃が中央の席を立ったあとだった。

それまで場は、表向きには穏やかだった。
笑い声もあり、楽も流れ、貴族たちはいつも通り扇の陰で言葉を交わしていた。
けれどその実、誰もがどこかで様子を見ている。
王太子の振る舞い。
リネットの立ち位置。
そして、王都へ戻ってきたアリアベル・フォルティスが、今夜どこまで自然にこの場へ馴染むのか。

もう、答えは半ば出ていた。

馴染むどころではない。
彼女は最初から、この場の空気を読む者の一人として立っている。
だからこそ、見ている側のほうが落ち着かなくなるのだ。

「辺境伯閣下」

年長の侯爵がレオニードへ声をかけた。

「先日の北方街道の整備、見事だと聞いております」

「恐れ入ります」

レオニードは簡潔に答える。

その横でアリアベルは、必要以上に口を挟まず、けれど会話が途切れそうになる場所だけを自然に補っていた。
王都の上位貴族ほど、その“補い方”を見る。
でしゃばりすぎず、消えすぎず、話題を奪わず、でも場を死なせない。
王太子妃候補に長く求められてきたのは、まさにそういう立ち方だった。

「アリアベル様は、辺境伯領もご覧になったとか」

侯爵夫人が微笑みながら尋ねる。

「ええ、少しだけ」

「いかがでした?」

アリアベルは答える前に、ほんのわずかにレオニードへ視線を送った。
それは許可を求めるというより、相手の領地を話題にする時の礼節としての視線だった。

「とてもよく整えられておりましたわ」

彼女は穏やかに言う。

「華やかさより流れの美しさが際立つ場所です。人も物も、止めるべきところだけで止まり、動くべきところで滞らない。王都とは違う意味で、見ていて安心する土地でした」

その言葉に、侯爵夫人の目が少しだけ見開かれる。

流れの美しさ。
人も物も、止めるべきところだけで止まり、動くべきところで滞らない。

それは、ただ“素敵でした”と言うよりずっと具体的で、しかも領地の本質を捉えた褒め方だった。
表面の景色ではなく、運営の筋を見ている。
そういう褒め方ができる令嬢は、王都でもそう多くない。

侯爵は低く笑った。

「なるほど。閣下の領地をそこまで言い表せる方は珍しい」

レオニードは横目でアリアベルを見た。

「過分なお言葉です」

「過分ではないかと」

アリアベルがすぐ返す。

「辺境伯閣下の領地は、“なんとなく上手く回っている”ようには見えませんもの。何がどこで支えられているかが、見ようと思えばきちんと見える形で置かれております」

その瞬間、近くにいた数人の夫人たちの表情が微妙に変わった。

“何がどこで支えられているかが見える形で置かれている”。

それは領地運営の話でありながら、同時にこの夜会の空気に対する皮肉にも聞こえたからだ。

王都では長いこと、何がどこで支えられているかが見えなくなっていた。
見えなくなっていたというより、見ようとされなかった。
そして婚約破棄のあとで、初めて多くの者がその空白に気づいている。

アリアベル自身は、おそらくそこまであからさまな意図で言ったのではない。
だが、聞く側には十分に響く。

「……お見事ですこと」

と、誰かが扇の陰で小さく呟いた。

その頃、少し離れた位置でユリヴェールはそのやり取りを聞いていた。

すべてではない。
だが、断片だけでも十分だった。

彼女の言葉は、相変わらず無駄がない。
誰かを露骨に持ち上げるわけでもなく、しかし相手が最も誇りとしている部分をきちんと拾い上げて返す。
だから聞いている側は“わかってもらえた”と感じる。

昔からそうだったのだろうか。
それとも、自分が見ていなかっただけなのか。

答えはたぶん後者だ。
なぜなら今、こうして見ているだけで気づけることに、以前は一度も気づいていなかったのだから。

「殿下」

側近がそっと声をかける。

「そろそろ南方の使節へお声がけを」

「……ああ」

返事をしながらも、意識はまだ半分ほど別の場所に残っている。

南方の使節と会話を交わしながら、ユリヴェールは自分の言葉がわずかに空回りするのを感じていた。
相手は礼を守って返してくる。
だが、会話が膨らまない。
話題を選んでいるつもりなのに、少しだけ的がずれる。

以前なら、もっと自然に話せた気がする。
そう思いかけて、いや違う、と心のどこかが囁いた。

自然だったのではない。
自然に見えるよう、前もって整えられていたのだ。

その瞬間、胸の奥に妙な苦さが広がる。

大広間の中心近くでは、王妃に近い公爵夫人がアリアベルへ話しかけていた。

「あなたが戻られて、ようやく少し空気が落ち着いた気がいたしますわ」

冗談めいた言い方だった。
だが、その目は本気だった。

アリアベルはわずかに首を傾げる。

「私が何かしたわけではございませんわ」

「そういうところですの」

公爵夫人は笑う。

「“何かした”のではなく、“何も起こらぬようにしていた”方なのでしょう? それを、皆ようやく思い出し始めているのです」

その言葉に、周囲の夫人たちが静かに頷く。

誰も大声では同意しない。
だが空気がはっきり告げていた。

もう、前のように“可哀想な従妹を守った王太子”の物語だけでは済まされない。
少なくともこの場の上位層は、何が失われ、何が残り、誰が本当にこの夜会の重さに耐えられるのかを見始めている。

アリアベルはほんの少しだけ目を伏せた。

褒められることに慣れていない。
だからこういう時、どう返せばよいか一瞬だけ迷う。

その小さなためらいすら、王都の夫人たちには“驕っていない”と映るのだから、皮肉なものだ。

「過分なお言葉ですわ」

結局、そう返すしかない。

だが公爵夫人は首を振る。

「過分ではございません。正しい評価です」

正しい評価。

その四文字が、静かに胸へ落ちた。

王都で長く過ごしてきて、その言葉を真正面から受け取る機会は、どれほどあっただろう。
“当然”でも、“よくできていて便利”でもなく、正しい評価。

アリアベルが返す言葉を探していると、隣でレオニードが落ち着いた声を出した。

「私も同意見です」

その一言に、場の空気がほんの少しだけ柔らかくなる。

ただ同意しただけなのに。
けれど、その同意が妙に重い。

辺境伯が、社交辞令としてではなく本気でそう思っていると、皆に伝わる言い方だったからだ。

アリアベルは思わず彼を見る。

レオニードはいつも通り、大げさな顔はしていない。
けれど、その視線はまっすぐだった。

「アリアベル嬢は、物事の支え方を知っておられる方です」

静かな声が続く。

「それは領地でも夜会でも、同じように価値のあることかと」

社交界でそこまで言うのは、かなり踏み込んだ評価だった。

夫人たちの目が少しだけ細くなる。
けれど、その細まり方は警戒ではなく、むしろ“なるほど、そこまで見ているのか”という種類のものだった。

アリアベルの頬が、わずかに熱を持つ。

困る。
こういうふうに、人前でまっすぐ評価されるのは本当に困る。

しかも、お世辞ではない。
場を読んだうえで、あえてそこへ言葉を置いている。
だから逃げ道がない。

「……辺境伯閣下は、少しお優しすぎますわ」

やっとそう返すと、レオニードはわずかに首を傾けた。

「優しさではございません」

「では何ですの」

「事実です」

夫人たちの間で、かすかな笑いが生まれる。

それは揶揄ではなく、むしろ好意的なものだった。
こういう返し方ができる男は、王都では意外と少ない。
甘やかさず、けれど相手を下げもせず、きちんと人前で立てる。

「まあ」

公爵夫人が笑う。

「ずいぶん頼もしい事実ですこと」

その軽い冗談が、場をふっと和らげた。

遠くからそれを見ていたリネットの胸には、別の意味で冷たいものが落ちる。

今の会話の内容までは全部聞こえない。
けれど、雰囲気だけでわかる。

アリアベルは受け入れられている。
しかも“気の毒だから”ではない。
“正しく評価されるべき人だから”という方向で。

それがいちばん嫌だった。

可哀想なら、まだ勝ち目がある。
慰められる人間なら、どこかで引きずり下ろせる。
でも、“正しく評価されている人”になると厄介だ。
それは同情より強く、長く残る。

「あの女……」

扇の陰で、リネットは歯を食いしばる。

その一方で、ユリヴェールの胸の内には別の感情が広がっていた。

正しい評価。

辺境伯の口から出たその言葉が、妙に耳に残る。

たしかにそうなのかもしれない。
自分はずっと、アリアベルを正しく見ていなかった。
便利さを当然だと思い、整えられた場を自分の器量だと勘違いし、彼女が何を支えていたかを測ろうともしなかった。

なのに今、他の男がそれを言い当てる。
自分ではなく。
彼女の隣に立つ別の男が。

それが耐え難かった。

未練なのか、悔しさなのか、まだ名前をつけたくない感情が胸の奥で渦を巻く。

もしあの時。
もし、もっと早く。
そんな考えがよぎるたび、ユリヴェールはかえって苛立った。

今さら何だというのだ。
自分で切った婚約だろう。
そう頭の中では言うのに、視線だけがまたアリアベルのもとへ戻ってしまう。

そして、その視線を受けても彼女は少しも揺らがない。

レオニードと並ぶアリアベルの姿は、今夜の王都でいちばん落ち着いて見えた。
それが何よりの答えのようで、ユリヴェールには苦かった。

夜会の楽が次の曲へ移る。

人々はまた自然に動き、別の輪が生まれ、別の会話が始まる。
だが、この夜すでにひとつのことははっきりしていた。

アリアベル・フォルティスは、同情で残ったのではない。
正しい評価によって、再びこの場へ立っている。

そしてその評価を、最初に正面から言葉にしたのがレオニードだったこともまた、誰の目にも明らかだった。

アリアベルは、自分の胸の中で小さく息を整えた。

王都へ戻ってから、ずっと覚悟していた。
冷たい視線も、探るような言葉も、遠回しな同情も。
けれど今夜、自分に向けられているものの中には、それだけではない別の温度が混じり始めている。

正しい評価。

その言葉を支えにするには、まだ少し怖い。
でも、受け取らずに否定するのも違う気がした。

だからアリアベルは、ほんの少しだけ背筋を伸ばし直す。

これは慰めではない。
埋め合わせでもない。
見ていた人が、ようやく見えていたことへ名をつけ始めたのだ。

そしてその瞬間を、レオニードが隣で静かに支えている。

それが、思っていた以上に心強かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜

矢野りと
恋愛
『少しだけ私に時間をくれないだろうか……』 彼はいつだって誠実な婚約者だった。 嘘はつかず私に自分の気持ちを打ち明け、学園にいる間だけ想い人のこともその目に映したいと告げた。 『想いを告げることはしない。ただ見ていたいんだ。どうか、許して欲しい』 『……分かりました、ロイド様』 私は彼に恋をしていた。だから、嫌われたくなくて……それを許した。 結婚後、彼は約束通りその瞳に私だけを映してくれ嬉しかった。彼は誠実な夫となり、私は幸せな妻になれた。 なのに、ある日――彼の瞳に映るのはまた二人になっていた……。 ※この作品の設定は架空のものです。 ※お話の内容があわないは時はそっと閉じてくださいませ。

巻き戻される運命 ~私は王太子妃になり誰かに突き落とされ死んだ、そうしたら何故か三歳の子どもに戻っていた~

アキナヌカ
恋愛
私(わたくし)レティ・アマンド・アルメニアはこの国の第一王子と結婚した、でも彼は私のことを愛さずに仕事だけを押しつけた。そうして私は形だけの王太子妃になり、やがて側室の誰かにバルコニーから突き落とされて死んだ。でも、気がついたら私は三歳の子どもに戻っていた。

【完結】私の事は気にせずに、そのままイチャイチャお続け下さいませ ~私も婚約解消を目指して頑張りますから~

山葵
恋愛
ガルス侯爵家の令嬢である わたくしミモルザには、婚約者がいる。 この国の宰相である父を持つ、リブルート侯爵家嫡男レイライン様。 父同様、優秀…と期待されたが、顔は良いが頭はイマイチだった。 顔が良いから、女性にモテる。 わたくしはと言えば、頭は、まぁ優秀な方になるけれど、顔は中の上位!? 自分に釣り合わないと思っているレイラインは、ミモルザの見ているのを知っていて今日も美しい顔の令嬢とイチャイチャする。 *沢山の方に読んで頂き、ありがとうございます。m(_ _)m

大好きなあなたが「嫌い」と言うから「私もです」と微笑みました。

桗梛葉 (たなは)
恋愛
私はずっと、貴方のことが好きなのです。 でも貴方は私を嫌っています。 だから、私は命を懸けて今日も嘘を吐くのです。 貴方が心置きなく私を嫌っていられるように。 貴方を「嫌い」なのだと告げるのです。

最後に一つだけ。あなたの未来を壊す方法を教えてあげる

椿谷あずる
恋愛
婚約者カインの口から、一方的に別れを告げられたルーミア。 その隣では、彼が庇う女、アメリが怯える素振りを見せながら、こっそりと勝者の微笑みを浮かべていた。 ──ああ、なるほど。私は、最初から負ける役だったのね。 全てを悟ったルーミアは、静かに微笑み、淡々と婚約破棄を受け入れる。 だが、その背中を向ける間際、彼女はふと立ち止まり、振り返った。 「……ねえ、最後に一つだけ。教えてあげるわ」 その一言が、すべての運命を覆すとも知らずに。 裏切られた彼女は、微笑みながらすべてを奪い返す──これは、華麗なる逆転劇の始まり。

お前は要らない、ですか。そうですか、分かりました。では私は去りますね。あ、私、こう見えても人気があるので、次の相手もすぐに見つかりますよ。

四季
恋愛
お前は要らない、ですか。 そうですか、分かりました。 では私は去りますね。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

不実なあなたに感謝を

黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。 ※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。 ※曖昧設定。 ※一旦完結。 ※性描写は匂わせ程度。 ※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。

処理中です...