星野響

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 こんな夢を見た。
 僕は小さな村の自宅の暖炉で温まっていた。木の格子がついた窓の向こう側では、とんがり屋根に煙突を高く伸ばした家々が頭上に雪を乗っけて重そうにたたずんでいる。収穫を待っていたキャベツ畑には霜が降っていた。
 あいにくの天候だ。今日ばかりは誰も訪ねて来ないだろう。そう思った矢先、背後で扉がノックされた。コンコンと、二回続けて軽い音がした。
 おおかた新聞売りか物乞いだろう。自分にはそのどちらにもお金をやる余裕はない。無視を決め込んで朝食用のパンを切り分けていると、再び木の扉が叩かれだした。先ほどとは違い、断続的で少しばかり強い調子であった。
 振り向いた僕は木製扉の振動の位置がいつもより低い気がするのを怪訝に思い、パンにバターを塗る手を止めて玄関に向かう。
 誰だ、こんな朝っぱらから。
 扉を半開きにして、僕は訪問者の姿にただ驚く。
 僕が思っていたのよりもずっと彼女は小さかった。頭のてっぺんがちょうど僕の胸のあたりにある。肌は病的なまでに白く透き通っており、丸みを帯びた顔も空色をした眼も、あくまでもあどけない。そしてその髪は桃色がかった不思議な色合いをしていた。
 彼女の形の良い唇がゆるゆる動き、言葉を紡ぐ。
「…………あの、少しでいいんです……暖炉で暖まらせてくれませんか」
 彼女が身に着けている服はとても雪の中を歩いてきたとは思えない軽装で、背負ったトランクの小刻みな震えが彼女の状態が芳しくないことを示している。吐く息はもはや白く現れ出ない。そのくらい彼女は凍えているようだった。
 僕は彼女を家に招き入れて、作りかけていたバタートーストを振る舞った。
 作業をしながら、君のお父さんやお母さんはどこにいるんだい、と聞いた。しばらく待ったが答える声がなかったため、どこから来たの、と質問を変えてみた。やっぱり返事がない。
 嫌な予感に駆られた僕は後ろを振り向いた。が、幽霊のように彼女が忽然と消えていたということはなく、暖炉の前のソファで眠りこけているだけだった。
 なんだ。と僕は笑った。

 それからいくつかの太陽が昇っては沈み、季節は春になっていた。僕の家にはまだ彼女が居座っていた。僕はそれが嫌ではなかった。彼女を少しだけ暖炉にあててあげるだけのつもりだったのに。今ではそれが当たり前になり始めていた。
 僕らは緑に草がそよぐ丘を登って、村が一望できる斜面に腰掛けて一休みした。冷たい風が脇を吹き抜け、草花を波立たせた。
 これから雨かもね。呟いて、僕は空を見上げた。太陽は青空に輝いているが、村のすぐそばまで迫った山脈の向こう側には黒ずんだ雨雲が垂れ込めている。
 夕方までは大丈夫だろう。さ、そろそろ行かないと。森の日暮れは早いんだから。僕は猟銃片手に彼女を促す。しかし彼女は動かない。青空より青い両目を曇らせて、雪解けしかけた山々にかかった雲を見つめている。
「あれ、雪雲だよ」
 え? もう春だ。早朝であっても気温は零度をとっくに超えている。
 それでも彼女は「雪雲だよ」と言い続けた。二、三回繰り返した。僕は得体のしれない怖さに駆られた。さあ、もう行こう。
 彼女は頷いて重そうに腰を上げた。
 それから僕らは予定通り森に分け入って、木の実を拾い、獣を狩るための罠を仕掛けた。残念ながら昨日仕掛けた罠に獲物はかかっていなかった。
 落胆しながら引き上げようとした僕の鼻の頭に何かが落ちてきた。最初は冷たく、僕の体温をかすかに奪う感覚があったそれは、すぐに僕と同じ温度になった。雪だった。
 始めは世界を優しく包み込むように穏やかだった雪だったが、次第にその激しさを増していった。森の中は冬の模様に逆戻りしかけていた。
 まずいな、早く戻ろう。顧みた僕は彼女がすぐ後ろに立っているとばかり思っていた。だが、そこに彼女の髪の桃色はなく、代わりに薄く積もり始めた雪の上に小さな足跡が森の奥へと続いていた。
 僕は慌てて足跡を追った。
 彼女と僕は、あの雪と霜の日まで赤の他人だったはず。いや、今だって僕らの関係は他人なんだろう。だから僕には僕がこれほどまでに必死に彼女を探そうとする意味がわからない。それでも僕は木々を掻き分けて彼女の後を追った。
 そして僕はその背中を見つける。森の木々がそこだけを忌み嫌うように避けて生えた場所で、雪の中にうずくまり、あの日のように凍えていた。その日と違うのは、見上げた空に満天の星が瞬いていること。雪は星空から直接降っているらしかった。
 僕は彼女のそばに跪いて聞く。
 何をしているんだい。もう帰ろう。
 桃色がかった髪がゆるゆると、はっきりと横にふられた。乗っかっていた雪たちがぱさっと音を立てて地面に積もった仲間たちに紛れてしまった。
 どうして? 僕が、嫌いになった?
 もう一度、長くたれたみつ編みが横に揺れる。今度もはっきりとした動きだった。
「だれも、悪くないの」
 そう震える声で言って振り返った彼女の頬に涙が一筋流れて跡を残した。

「わたし、死ななきゃいけない」

 僕を見て彼女は笑った。涙を輝かせながら、笑った。
「泣かないで」
 僕の顔を彼女の親指が拭う。僕は泣いているのだろうか。それすらわからないまま、僕は声を絞り出す。なんで。
 また、彼女が笑う。
「お姉ちゃんを助けるためだよ。……わたしね、優しいお姉ちゃんが大好きだったの。いっぱい遊んでくれて、たくさんのことを教えてくれて…………でもね、もういないの。いなくなったの。突然倒れてね、眠ったまま朝が何度来ても目を覚まさなくなったの。わたしが何を試してもお姉ちゃんは起きてくれなかった」
 語り続ける彼女の表情はあくまで明るく、僕に事の重大さを実感させようとしない。
「わたしにできることは、もう、これしかないから」
 そんなの、そんなの、間違ってる。
 ガタガタと震えだした僕の肩を彼女の細く短い腕が抱き寄せた。最初は躊躇いがちに回されていたのが、徐々に、力強く。
「もう、決めたから…………ありがとう」
 僕の耳元で囁いた彼女の体が、みるみるうちに凍えていく。微笑んだままの真っ白い頬が凍てつき出し、またひとつ流れた大粒の涙は、流れきるまでに氷の雫と化した。
 崩れ落ちた僕の膝の下で、しゃりっという音がした。いつの間にか、彼女の周りには無数の霜の花が降りていた。星たちの明かりに照らされ、ただそこに煌めいていた。
「…………なんで、なんで、なんで」
 どうでも良かった。彼女が命を失うその理由なんて。彼女の姉が救われるか救われないかなど、僕の思考にはない。唯一、僕の前に横たわっているのは、僕の腕の中に死にゆく彼女がいるという事実だけだ。
 そのことを悟った途端、僕は真っ白い霜と雪の上に泣き崩れた。涙ですべての霜が溶け去るまで、ずっとずっと声を上げて泣いていた。
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