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スターリングラード

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 スターリングラード。第二次世界大戦、この地でソビエト連邦と呼ばれていたロシアが、当時負けなしだったナチスドイツ軍を初めて打ち破った。
 「ソ連兵は畑で採れる」とは良く言ったものだ。最新鋭の装備を揃えたドイツ軍を相手にソ連軍は人海戦術に出た。その手の数は装備の供給が追いつかないほどで、複数人に一丁の銃のみが支給され、あるときは装備さえ私服のまま、半数以上が手ぶらで突撃したという。武器は、倒れた仲間のものを拾えとのことだったそうだ。
 だが、ソ連は何も物量だけでドイツ軍を打ち破ったのではない。ソ連の勝利に大きく貢献したのが、伝説的英雄に祭り上げられた、スターリングラードの希望たる狙撃手の存在だったという。
 荒廃した市街地の中心で《モシン・ナガン》を頬付けして物陰に潜み、ときには敵の爆撃音に紛れて将校を含めた五人を立て続けに狙撃、ときには電話線を銃弾で切ってドイツ兵をおびき出して殺害し、ときにはガラス片を使って敵スナイパーの目を眩ませチャンスを創り出す。スクリーン上で祖国のため、愛する人々のために戦う彼の姿は、当時まだ幼かったミハイル=ザハロフ少年に、いつの日か自分もあのようになりたいと思わせるには十分すぎるほど格好良かった。
 背後でドアがノックされて軍靴を履いた足がたてる硬質な音が近づいてきて、隣でベッドのスプリングがバウンドする。
「なんだよ、ミーシャ。またその映画見てるのか。一体全体、何度目だい」
 驚くほどミニサイズで立方体なテレビから目を話すことなく、俺はこちらを親しげに愛称で呼ぶセルゲイに答える。
「さあな、三十回は見てるんじゃないか」
「マジか。よく飽きないな」
 首を横に振る友に俺は少々むっとして聞く。
「なにか悪いか」
「いや。ただ、こう、一つのことに固執できるのが羨ましいと思っただけさ。その映画、『スターリングラード』だっけ。なかなかどうしてシリアのやつにも人気だよな」
「当たり前じゃないか。名作なんだから」
「それを言っちゃ、お終いだぜ」
 セルゲイは笑い飛ばす。
「それで、なにか参考になる内容でも入っているのか」
「何を今更、大アリだ。かの有名なスナイパー、ヴァシリ=ザイツェフの話なんだから。お前も見ていけよ。しっかりロシア語版とDVDプレイヤーを持ってきてやったんだからさ」
「お、お前そんなもん遥々シリアまで持ってきたのか。どおりでそのちんちくりんなテレビにザイツェフの顔が映ってるわけだ」
 今度は俺が笑わされる番だった。
「遥々ってな、セリョー、モスクワからダマスカスまでの距離なんてロシアの東端から西端までよりずっと短いじゃないか」
「そういう問題じゃあない」
 呆れるぜ、とセリョーことセルゲイは掌を天に向けた両手を頭よりも高く掲げる。
「それより射撃場行こうぜ。俺達にとっては、映画なんて見てるよりよほど建設的だろ」
 さあさあと促しつつセルゲイは開けっ放してあったドアから俺の部屋を出ていった。
「なんだよ、良いところなのに」
 筒状のダクトを匍匐前進で進むヴァシリ=ザイツェフの映像を名残惜しく思いながらもリモコンの電源ボタンで黒に塗り消し、俺は鼻歌を歌って階段を降りていくセルゲイのあとに続いた。
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