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狼と糸鋸

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 《AK74》のグリップを握り直し、これから撃ち抜くべき目標を見据え、手と銃口がなぞる軌道をイメージする。右太腿のホルスターに《グロック17》ハンドガンが収まっていることを指先で再確認し、セーフティを解除して、号令を待つ。
「三、二、一、スタート!」
 キレのいい合図と同時に、俺は斜め四十五度に下げていた銃身を正面左に二十メートル先の金属板に向け、引き金を引く。ダンと乾いた銃声と重なるようにキンという金属音が大気を通り抜け、金属板の表面に焦げた模様が黒く焼き付く。
 それを認めないうちに、腕は半自動的にさらに左にスライドして次のターゲットへ弾丸を放つ。その次は大きく右へ、またその次は小さく左。空へ叩き出された五.四五✕三九ミリ弾は、漏れなく金属同士が衝突する小気味いい音を立てて四つのターゲット上の焦げ付きを増やしていった。
 新たに弾薬ポーチから取り出した弾倉の角でトリガー脇のピンを弾き、同時に空になったマガジンの背を拳で押し飛ばすことで瞬時にリリース。十発の弾薬が込められた弾倉をマガジンキャッチにはめ込み、コッキングレバーを引ききり、トリガー上のセレクターを親指で切り替える。そして今度は三十メートル先のマンターゲットに照準を合わせ、フルオートで一息にマガジンを空にした。
 計十四発の弾丸をばら撒き、この場では用済みになった《AK74》に代わって、アッシュグレーのポリマー製拳銃《グロック17》をレッグホルスターから引き抜き、AKは素早くスリングで首に掛ける。ウェーバースタンスでグロックを構え、AKで行ったときと逆の順番で金属板を狙う。乾燥した空気に再び四度、金属特有の高音が響いた。
 銃口を下げた俺は、頬を膨らませてひとつ深い息を吐く。セルゲイがなぜかニヤつきながらマンターゲットのもとにかけていき、「全弾命中! うち四発がクリティカルヒットだ!」と嬉々として叫んだ。
「フゥーー! 流石は《ハティ》。悔しいが、今日の最高スコアもお前が頂きだな」
 茶髪マッチョのイゴールから胸板に強めのパンチを喰らい、俺はむせ返る。
 俺が一年前、筆舌に尽くし難い訓練をやり遂げ、正式に配属されたロシア特殊作戦軍下のこの部隊では隊員全員にセンスあるあだ名をつける伝統がある。そこで、俺には北欧神話に登場する月を追う狼を意味する《ハティ》の名を貰った。由来は至極単純。入隊するにあたってしどろもどろになりながら行った自己紹介で、満月の夜に実家の農場に出た狼を撃ったことがあると弁じたからだ。残念ながら弾は大きく外れたが、突然の炸裂音に驚いて狼は逃げていったから結果オーライだったと自虐ネタをかますと、場の雰囲気が一気に和んだのを覚えている。
 俺をわざわざ本名で呼ぶのは、同期で教育生時代からの親友であるセルゲイだけだ。
「この調子だと実戦でもすぐにスコアを抜かれそうだぜ。ったく、ただの伍長のクセによう」
 口の悪いことを言いながら、イゴールは俺の肩に腕を回してくる。
「そいつはじき大物になる。このセルゲイ=オルロフが保証してやるさ」
 こちらの方へ向かってのんびりと歩きながら調子の良いことを口にするセルゲイに、イゴールが大笑いする。
「何を偉そうに。お前も伍長だろうが、《穴熊ブラスク》」
「はっ、言えてるぜ。ひとつだけ位が上の《豪猪ディカブラース》軍曹」
 軍曹は、あだ名の通りヤマアラシの針が如くピンピンと天を仰いだ硬い毛髪がなびくほどの勢いで振り向く。
「言ったな、こいつっ!」
 恒例のように勃発した二人の喧嘩遊びに不本意に巻き込まれるのを恐れた俺は隙を見てイゴールの筋骨隆々とした腕の下から抜け出した。射撃の腕には自信があるつもりではある俺だったが、ナイフを持たされようと素手であろうと、どうも面と向かっての近接戦闘は苦手だった。システマと呼ばれるロシア独自の格闘術の熟練度もイゴールたち肉体派隊員よりはどこからどう見ても見劣りする。普段課せられる任務が筋力をあまり必要としないものであるからだと開き直ってしまえば、そこまでだが。
 きちんと《AK74》と鼓膜保護用のイヤマフラーを所定の位置に戻した俺は、一定の距離を取ってやんやと野次を飛ばす隊員たちからも離れた、日干しレンガが剥き出しになっている壁に背中を預けた。どれだけ独立した行動が許され、政府から独自に密命を受けることも珍しくない特殊作戦軍とはいえども、用品を粗雑に扱う許可は出ていない。必要とあらば本隊の兵士のように、かさばって動作を阻害する防弾チョッキも着用せねばならないし、度を逸して支給品を改造することも推奨されない。ましてや備品を惰性によって傷つけるなどもってのほかだ。
 どこから引っ張り出してきたのか定かでない緑色のマットにパンチやらドロップキックやらを繰り出して力比べをしていると思われるセルゲイとイゴールを横目に見ながら、俺はすぐ右隣に設置されたライフルスタンドから一丁の火器を取り上げた。
 ロシア軍で最もスタンダードな《ドラグノフ》狙撃銃のそれと似通った形を呈するグリップ一体型の木製ストックは日頃の手入れにより蒼天を半ば反射するほどに鈍く輝き、機関部は闇に溶けるような艶消しの黒色。その上には、ヴァシリ=ザイツェフも愛用したといわれる三.五倍率の個人所有の持ち込みスコープが特有の留め具にがっちりと固定されて銀に金属光沢を放っている。そして、何より目につくのは筒先に空いた大口径といえる銃口ですら簡素に感じるほどに極太な、消音器の機能を兼ね備えた、漆黒の銃身である。
 全長八百九十四ミリメートル、重量二.六キログラムのその銃の名は《VSS》。またの名を《糸鋸ヴィントレス》。ソ連時代に設計された、特殊用途消音狙撃銃である。
 祖国の原隊で待機していた頃から、俺はこの銃とともに日々を過ごしてきた。ふとした拍子にネット上で目にした、無骨ながら洗練され、影の香りを漂わせたフォルムに俺はいつの間にか魅了されていた。
 伝説的狙撃手ヴァシリ=ザイツェフと《VSS》狙撃銃に魅せられた少年の目指す先は、ひとつに決まっている。父に連れられてテレビ画面で見た映画と、気まぐれのネットサーフィンが、今の俺に直接つながっているのだ。
 これまで、このスコープ越しに狙い、手にかけた命は数しれない。目を閉じれば、標準点上で最後を迎えた者の顔がすべて、日陰でも眩しい陽光に透かされた瞼の赤黒さに浮かび上がってくる。
 そう、あの日、砂嵐の予報をテレビ放送の全局が報じていたあの日、この国で、俺が生まれて初めて手にかけた人間は、頬骨が張り、黒い目をギョロつかせ、鷲鼻に眼鏡を引っ掛けた奴だった。右手の薬指には、プラチナの指輪がはまっていた。既婚者だった。天気予報を気にしてか、赤いスカーフを動きやすい服装の上に巻きつけていた。その後砂嵐が本当に発生したのは事実だ。だが、彼の首に巻かれた布切れがファッション以外の役割を果たすことは遂になかった。
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