3 / 4
狼の初仕事
しおりを挟む
ドアノブをそっと回転させ、木製扉を押し開ける。周囲をさっと見回す。
「異常見られず。行動を開始する」
『了解。時期はそちらに任せる』
音声を聞き取りやすいようイヤホン型無線機にそえていた指先を離し、俺はコンクリート舗装が為された公道に繰り出す。
扉が開く音に反応したのか、通行人のうち何人かの目線がこちらへ向いた。が、彼らはすぐに正面を向き、立ち止まるどころか、二度見すらしてこない。
それもそのはず。今、俺の身につけているのは、この国の男性の至極一般的な服装。つまり動きやすく通気性に優れたTシャツとジーンズである。ロシア人の、金髪や白い肌色、更にはネアンデルタール人の血を受け継ぐ顔立ちは、シリアの人々からすれば随分と異質なものなのだろうが、そこは目深に被った野球帽でカバーしていた。
すれ違いのひげを頬一面にはやした地元男性にアラビア語で挨拶され、俺はうろ覚えの返事をする。発音には全くもって自信がなかったが、幸い男はこれといって違和感を感じなかったようだ。にこやかに俺の脇を通り過ぎていく。
今のところ、俺が肩にかけたスポーツバッグを目に留める者はいない。万にひとつの可能性もないものの、この場で中身をぶっちゃけた場合、俺を中心に半径五十メートル以内の人間が手荷物すら投げ捨てて逃げ出していくであろうという確信はある。だが、黒い袋状の化学繊維にすっぽりと梱包されていては、X線にでも通さない限り、誰も警戒の色を見せることはない。
彼らから送られてくるのは、休日にスポーツを楽しみに出かける健全な地元社会人に対する和やかな視線のみだ。一時間もしないうちに、ここから一キロと離れていない場所が殺人の現場になることなど、露も知らないでいる。
カフェが軒を並べる曲がり角を左折し、裏路地に入った。くつろいでいた野良犬が一匹、俺の姿を見るなり早足で逃げ去っていく。見上げれば、複雑に入り組んだ電線が家々から伸び、思いの外カラフルな庇が、強く日が照りつけ乾燥した空気に心地よい日陰を作り出している。
「チェックポイント1に到達。盗聴者はいません」
『了解。手筈通りに進めろ。この任務の成否に、ロシアとシリアの国家関係がかかっていると思え』
「わかっています。失敗は致しません。《剣》少佐」
俺の返答を聞くなり、《ミェーチ》少佐はうんともすんとも言わずに一方的に通信を切った。相も変わらず、淡々を具現化したような上司だ。
込み上げてきた苦笑とともに、俺は裏路地の奥へと分け入っていく。途中で顔を合わせた地元住民は、皆俺に声をかけるか笑顔で片手を上げてくれる。その都度俺はしっかりと応じた。誰もが俺のことを近頃近所に引っ越してきた青年だとしか認識していないのだろう。無論俺の方もそのように見られるよう振る舞ってきたのだから、怪しまれないのは当たり前だと言えよう。
「チェックポイント2を目視。中肉の中年の男が待機中」
そう手短に報告したのは、ツル植物とひし形の紋様が刻まれた茶色の扉と、そのすぐ脇に立ち辺りをしきりに見回す男の姿が、細い石畳の突き当たりに見えたときだった。
『そいつの腕を確認しろ。タトゥーがあるはずだ』
「ダー、星と月と花の模様が、大きくひとつずつです」
『間違いない、やつが協力者だ。ここからは通信を気取られる可能性が高まるだろうから、私は手を引く。状況次第で、自己判断で行動せよ。ぬかるなよ』
またも一方的な通信切断を食らった俺は、しかし今度は真顔を保ったままでいることに成功する。身を潜めていた曲がり角から何気なく進み出て、男の視界に入った。
目が悪いのか、中年男はどんぐり眼を横から見た物差しほどまで細めてから、こちらに控えめに片手をあげた。が、俺が応じないでいると人違いを案じたのか自信なさげにどんどん腕が下がっていく。
が、俺が帽子を脱いだ途端、その腕は自信たっぷりにもとの高さにもたげられた。
そして俺が扉の前まで歩み寄ると、頭より上に掲げられていた手が目前に差し出される。
握手でも求められているのかと思い、同じように手を差し伸ばすと、ノーノーと押し返された。
男の意図に考えを巡らせ、結論に辿り着く。
「……まえばらいか」
俺の拙いアラビア語が通じたようで、中年男の表情が一気に和らぐ。彼は俺がポケットから取り出した紙幣の束をありがたそうに押しいただいた。
「こういうのは、はじめてかい。おとうさん」
たどたどしい問いかけに、中年男は小刻みに何度も首肯する。
「そうか……たいおうとしては、まずまずだったな。だいいちに、てをあげたのがよくなかった」
「そ、そうなのですか。以後、気をつけます」
生真面目に返答をする男に、俺は本日二度目の苦笑を顔に貼り付ける。
「そのいごが、にどと、こないことをいのるよ」
こういったものは万国共通のジョークだったらしい。アミルもお人好しそうな顔に苦笑を貼り付け俺に返した。
「異常見られず。行動を開始する」
『了解。時期はそちらに任せる』
音声を聞き取りやすいようイヤホン型無線機にそえていた指先を離し、俺はコンクリート舗装が為された公道に繰り出す。
扉が開く音に反応したのか、通行人のうち何人かの目線がこちらへ向いた。が、彼らはすぐに正面を向き、立ち止まるどころか、二度見すらしてこない。
それもそのはず。今、俺の身につけているのは、この国の男性の至極一般的な服装。つまり動きやすく通気性に優れたTシャツとジーンズである。ロシア人の、金髪や白い肌色、更にはネアンデルタール人の血を受け継ぐ顔立ちは、シリアの人々からすれば随分と異質なものなのだろうが、そこは目深に被った野球帽でカバーしていた。
すれ違いのひげを頬一面にはやした地元男性にアラビア語で挨拶され、俺はうろ覚えの返事をする。発音には全くもって自信がなかったが、幸い男はこれといって違和感を感じなかったようだ。にこやかに俺の脇を通り過ぎていく。
今のところ、俺が肩にかけたスポーツバッグを目に留める者はいない。万にひとつの可能性もないものの、この場で中身をぶっちゃけた場合、俺を中心に半径五十メートル以内の人間が手荷物すら投げ捨てて逃げ出していくであろうという確信はある。だが、黒い袋状の化学繊維にすっぽりと梱包されていては、X線にでも通さない限り、誰も警戒の色を見せることはない。
彼らから送られてくるのは、休日にスポーツを楽しみに出かける健全な地元社会人に対する和やかな視線のみだ。一時間もしないうちに、ここから一キロと離れていない場所が殺人の現場になることなど、露も知らないでいる。
カフェが軒を並べる曲がり角を左折し、裏路地に入った。くつろいでいた野良犬が一匹、俺の姿を見るなり早足で逃げ去っていく。見上げれば、複雑に入り組んだ電線が家々から伸び、思いの外カラフルな庇が、強く日が照りつけ乾燥した空気に心地よい日陰を作り出している。
「チェックポイント1に到達。盗聴者はいません」
『了解。手筈通りに進めろ。この任務の成否に、ロシアとシリアの国家関係がかかっていると思え』
「わかっています。失敗は致しません。《剣》少佐」
俺の返答を聞くなり、《ミェーチ》少佐はうんともすんとも言わずに一方的に通信を切った。相も変わらず、淡々を具現化したような上司だ。
込み上げてきた苦笑とともに、俺は裏路地の奥へと分け入っていく。途中で顔を合わせた地元住民は、皆俺に声をかけるか笑顔で片手を上げてくれる。その都度俺はしっかりと応じた。誰もが俺のことを近頃近所に引っ越してきた青年だとしか認識していないのだろう。無論俺の方もそのように見られるよう振る舞ってきたのだから、怪しまれないのは当たり前だと言えよう。
「チェックポイント2を目視。中肉の中年の男が待機中」
そう手短に報告したのは、ツル植物とひし形の紋様が刻まれた茶色の扉と、そのすぐ脇に立ち辺りをしきりに見回す男の姿が、細い石畳の突き当たりに見えたときだった。
『そいつの腕を確認しろ。タトゥーがあるはずだ』
「ダー、星と月と花の模様が、大きくひとつずつです」
『間違いない、やつが協力者だ。ここからは通信を気取られる可能性が高まるだろうから、私は手を引く。状況次第で、自己判断で行動せよ。ぬかるなよ』
またも一方的な通信切断を食らった俺は、しかし今度は真顔を保ったままでいることに成功する。身を潜めていた曲がり角から何気なく進み出て、男の視界に入った。
目が悪いのか、中年男はどんぐり眼を横から見た物差しほどまで細めてから、こちらに控えめに片手をあげた。が、俺が応じないでいると人違いを案じたのか自信なさげにどんどん腕が下がっていく。
が、俺が帽子を脱いだ途端、その腕は自信たっぷりにもとの高さにもたげられた。
そして俺が扉の前まで歩み寄ると、頭より上に掲げられていた手が目前に差し出される。
握手でも求められているのかと思い、同じように手を差し伸ばすと、ノーノーと押し返された。
男の意図に考えを巡らせ、結論に辿り着く。
「……まえばらいか」
俺の拙いアラビア語が通じたようで、中年男の表情が一気に和らぐ。彼は俺がポケットから取り出した紙幣の束をありがたそうに押しいただいた。
「こういうのは、はじめてかい。おとうさん」
たどたどしい問いかけに、中年男は小刻みに何度も首肯する。
「そうか……たいおうとしては、まずまずだったな。だいいちに、てをあげたのがよくなかった」
「そ、そうなのですか。以後、気をつけます」
生真面目に返答をする男に、俺は本日二度目の苦笑を顔に貼り付ける。
「そのいごが、にどと、こないことをいのるよ」
こういったものは万国共通のジョークだったらしい。アミルもお人好しそうな顔に苦笑を貼り付け俺に返した。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる